第12話 恩返し

 そして数日後のある日、私は頭を抱えていた。弁当箱のことではない。一気に雲行きが怪しくなったかと思えば、今度は雷まで鳴り始めている空を、私はただボーッと見つめた。窓から見る限りまだ小降りだが、帰る頃にはどうだろうか。やはり大雨だろうか……。正直なところ自分が傘を持っていない事より、妹に傘を持たせていなかった事の方が気になってしまい、授業に集中できない。いっそのこと、私が走って家まで帰って、傘を持った上で妹を迎えに行った方がいいのではないだろうか。そうだ、その方がいい。あの子は体も弱いんだから……。

 そうこうぐるぐると考えていると、あっという間に今日の授業が終わった。急いで下駄箱まで降りていき、さぁ走るぞと覚悟を決めた時、何か硬くて冷たいものが手のひらに当たった。

「ひぇっ」

 びっくりしておかしな悲鳴をあげながら振り返ると、先日の彼が目を丸くして驚いていた。手には取っ手部分に随分と年季を感じるビニール傘が握られている。

「俺の分はあるから。使えよ」

「え、でも……」

 彼は段々顔を逸らしながら続けた。

「いいから」

 彼の迫力に根負けして、戸惑いながらもその傘を受け取る。傘を広げて向き直り、ありがとうと言った時には、彼の姿はもうそこになかった。

 それから私は家へ帰り、無事妹を迎えに行くことができた。しかし、結局彼に何もお礼を言うことが出来ていない。それだけが心残りで、明日こそしっかりこの気持ちを伝えよう、そう決心して布団に潜るのであった。


 次の日の朝、教室に入るとクラスメイトたちがいつにも増してやけに騒がしい。何の事かとそっと聞き耳を立てると、どうやら今日は例の彼が休んでいるらしい。彼の机には菊の花が供えるようにして置かれていた。誰がこんなことをしたのだろう。高校生にもなって幼稚な発想をするクラスメイトを、私は心底恥ずかしく思った。むしろ、これだけ彼が話題に登るところを見ると、本当はみんな彼のことが好きなのではないだろうか……。そんな風にさえ思える。

 そんな状態でも、いつも通りに授業が進み、ホームルームの時間になった時の事だ。先生が5枚ほどのプリントを、高い位置でヒラヒラさせながら言った。

「誰か出来たらプリントを家に持っていってほしいんだが……」

 クラスメイトは水を得た魚のようにザワザワと騒ぎ始めて、「おまえがいけよ」「あんた好きでしょ」と好き放題言い合っている。そんな教室内という異様な空間を、私は小さな拳をギリギリと握って耐えていた。が、次の瞬間、プツリと糸が途切れたかのように限界を感じた。

「私が持って行きます!」

 真っすぐ天井に向かって挙げた私の手を見て、教室中がシンと静まり返る。なぜ自分が彼のためにここまでしているのか、私自身さえ分からなかった。もしも、私と彼の立場が入れ替わってしまったら、私が彼のようにクラスメイトから扱われてしまったら、耐えられないかもしれない。けれどまた、体が勝手に動くのだ。私は彼の家へ急いだ。

 呼び鈴を鳴らすと、扉の向こうから明るい返事が返ってきた。

「はーい、あら、もしかしてプリントを届けにきてくれたの?待ってね、開けるから」

 扉をそっと開けて出てきたのは、彼からイメージできないほど優しそうな母親だった。エプロンを着けて、料理をしていたのだろうか。しかしパタパタと出てきた母親は、迷惑そうな様子を一ミリも見せず続けた。

「ごめんなさいね、こんな格好で」

「いえ、あの、これ……」

 とにかくプリントを渡すことしか考えていなかった私は、頼りないファイルに入ったプリントを押し付けるようにしてその人に渡した。

「ありがとうね。あの子、風邪引いちゃってね」

「えっ、風邪を……引かれたんですか?」

 私は目を丸くして驚いた。私は彼が、クラスメイトからあんな扱いを受けているものだから、それが嫌で休んでしまったとばかり思っていたのだ。

「あの子ね、朝にちゃんと傘を持たせたんだけど、びしょ濡れで帰ってきたのよ。どこに落としてきたのかしらねぇ。……あれ?その傘は……」

 母親が私の持っている傘に気付いて、何か言おうとしたその時だった。

「母さん!やめろよ!」

 廊下の向こうから真っ赤な顔でマスクをした彼がフラフラとこちらへやってくる。迫力はないが、声を聞く限り本当に怒っているようだ。

「余計なこと言うなよ!」

「はいはい、ごめんね」

 母親はこちらに向かってわざとらしく肩をすくめて見せながら、部屋の奥へと消えていった。彼はといえば、ずっと後ろを向いていて表情が見えない。

「あの……今の話って」

「……れ」

「えっ」

「帰れよ!」

 あまりの大きな声に肩がビクッと持ち上がった。心臓がバクバクする。そればかりか、男性に大声で怒られた経験がないせいか、うっすらと目に涙さえ浮かんだ。

「帰れって!」

 私は借りた傘だけをその場に置いて、力の限り走った。彼を守ろうとしただけなのに、なぜこんな思いをしなくてはならないのだろうか。彼が傘を貸してくれた目的は何なのだろうか。自分でもよく分からない感情になりながら、その日は急ぎ足のまま家へ帰った。


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