第11話 花柄の弁当箱
「ばあさん」
老眼鏡をかけて地方便りと睨めっこしていた紳士が、目線を外さず突然婦人に声を掛けた。
「昔からやってる花火大会があるだろ、あの場所が今年から変わるらしいよ」
「あら、もう何年も同じ場所でやってたのに、どうしてでしょうね?」
そう言いながら婦人は二人分の珈琲をキッチンから運んで、そっとテーブルの上に置いた。
「懐かしいわね……」
婦人は目の前にある珈琲のことも忘れて、紳士と初めて花火大会へ行った時のことを、思い出していた。もう何年前になるだろうか。あれは今と同じように、肌にまとわりつくような湿気の多い季節だった。
「ねぇ、聞いた?あいつさ、今日弁当忘れたんだって。普通弁当忘れる?」
周囲の女子が笑いを必死で堪えながら、コソコソと耳打ちし合っている。あぁ、そうだった。高校時代の教室は毎日毎日騒がしくて、誰しも毎日違う話のネタを求めていた。一日ずつ、刻一刻と変化していく人間関係に、あまりいい気持ちがしなかったのを覚えている。
その瞬間、噂の”彼”は椅子から立ち上がって、表情を変えずに教室の外へと出て行ってしまった。
「ほら、あんたの声がでかいからあいつ出てっちゃったじゃない。ちゃんと謝りなよ?」
ギャハハ、と品のない女子生徒たちの笑い声が、今度は教室中に響き渡る。それでも私はずっとそんな環境を変えることは出来ない、そう信じていた。けれどその日は違った。考える前に足が動いて、気付いたら彼を探していた。ある場所まで来て、私は足を止める。
「ねぇ、そこで何してるの?」
そこは屋上へ向かうための階段だった。ちょうど廊下からは死角になっている。
「休み時間なんだから休んでてもいいだろ」
冷たい壁に当たって反響した声が、そのふてぶてしさを強調していた。
「まだ休み時間じゃなくてお昼ご飯の時間ね」
そう言いながら階段を登ろうとすると、奥の方から「くるな」と低い声がする。
「ここは俺が見つけた場所だ。休むなら他をあたれよ」
そこまで拒絶されるとは、予想外だった。けれど不思議なもので、彼が悪い人だとも思えなかった。
「分かったわ。ここにお弁当置いておくわね。私のは他にあるから、気が向いたら食べて」
「じゃあね」と一言残して、私は売店へ急いだ。
「やっぱりもうダメですか?」
売店のおばちゃんが申し訳なさそうな顔をして謝っている。
「ごめんねぇ。この時間はもう閉めることになっちゃってるから」
「そうですか……」
教室へ戻る途中、ぐぅーーと盛大に腹の虫が鳴いた。廊下全体に響き渡ったとさえ思える情けない音の、なんと憎らしいことか……。そこでふと、彼へ渡したお弁当箱のことを思い出した。そういえばあのお弁当箱、返してもらえるのかな……。毎朝妹の分と一緒に私が作っている弁当だ。親にバレたり怒られたりすることはないだろうが、問題はそこではない。そんな事を考えながら、掃除時間の前には、なんとかとぼとぼと教室へ辿り着いた。
今日の敵は怖い先生でも、難しい問題でも、派手な女子生徒でもなく、この空腹だと思った。おなかを抱えて机に打っ伏す。その日はひたすら人の良い自分を恨みながら、帰路へ着いたのを覚えている。
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