第10話 笑顔のおまじない

 息が吸えない。もちろん、本当は呼吸ができている筈だ。しかし現に今、3人は息の吸い方を忘れたような感覚に陥っている。老夫婦はしばらくここだけ時間が止まってしまったかのように感じた。先程までそこにあった平和な昼下がりの公園は、もうなかった。「違うよ」「あなたは悪くないよ」という一言が、どうしても言えない。だからと言って彼女を責めることもできなかった。

 人生とは不思議なものだと、紳士は思った。ここにある桜も、子供たちの笑顔も、ぬるい風も、たんぽぽも、太陽も、何もかも綺麗で美しいのに、たった一つの不幸とは、それを打ち消してしまうほどに恐ろしい。だとすれば幸せとはなんと、儚いものなのであろうか。かずははただ心配そうに3人をキョロキョロと見渡し、時折トゥルルル……と悲しそうな声をあげた。そんな時、子供達2人が老夫婦の元に寄ってきて言った。

「ねぇね、ペン、もってる?」

「……あ、あぁ、たしかここに……ほら」

 フェルトペンを貸した紳士が子供たちに注目していると、2人はこちらに背を向けて何かを作っていた。

「じゃじゃーん!みて!」

「これは……」

 そこには五枚の種類の違う葉っぱがあった。その中には随分小さいものもあるが、それぞれに器用に笑った顔が描かれている。

「この雨の雫みたいな葉っぱがおじいちゃんで、お花みたいなのがおばあちゃん!ギザギザしたハートみたいなのが和葉ねーちゃん!小さくて面白い形のが僕たちね!」

 3人は、久しぶりに息を吸ったような気持ちになりながら、努めて笑顔で返事をした。

「それだけじゃないよ!ほら!」

「ん……」

 横にいる女の子が恥ずかしそうに差し出してきたのは、笑顔が描かれた桜の花びら。

「……その子なの」

 女の子が遠慮がちに指差した先には、それを丸い目で見つめるかずはがいた。かずはが勢いよく手を挙げて反応する。

「どうして桜の花びらなの?」

 婦人は涙をハンカチで押さえながらも警戒されないように、少しおどけたような声で聞き返す。

「ちっちゃくてかわいいから」

 女の子はそういうと、女性の後ろに隠れてしまった。

「かずはが桜、か……」

 紳士は花びらを拾い上げ、かずはの方を見て静かに独り言を呟く。

「みんなね、笑顔なんだよ!笑顔じゃないと幸せじゃなくなるって、かずはねーちゃんがいってた!みんな、笑顔ーー!」

 男の子が自分の口を人差し指でイーッと広げて笑っている。

「そうだな、こうかな?」

 紳士はそれを見て、控えめながら男の子の真似をして笑ってみせる。婦人と和葉もそれに続いて、泣き腫らした赤い目のまま、男の子の真似をした。

「おじいちゃん、おばあちゃん、その子も!この葉っぱと桜あげるから、絶対無くしちゃダメだよ!笑顔のおまじないだから!」

 子供にプレゼントをもらったのは、紳士も婦人もはじめてのことで、心が春の陽気と同じようにじんわりと温まるのを感じた。

「うん、絶対、なくさないわね」

 婦人は一枚の葉っぱをぎゅぅっと胸に押し付けて、大きく深呼吸をした。

「ぐぅーー……」

 ちょうどその時、盛大にかずはのおなかの音が鳴り響いた。あいにく充電切れになってしまったようだ。かずははそれに対してなんとも申し訳なさそうな、恥ずかしそうな顔をしているように見える。5人はそんなかずはを見て一斉に笑い声を上げた。

「最後に触らせてもらっても……いいですか?できればこの子達にも」

 老夫婦は優しい笑顔でこくこくと小さく頷いた。

「あったかい……」

「ほんとだ!ほら、触ってみて。怖くないから!」

 男の子に手を引かれ、女の子はゆっくりとかずはに触れた。

「わっ!こっち、向いた!お兄ちゃん!」

「お!ずるいぞおまえばっかり!」

 女の子は嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら、かずはを撫でている。それを見た男の子も、負けじと横から手を伸ばしていた。

「もうこの子も含めて家族、ですね」

 和葉がいまだに赤い目を細めてぽつり、呟いた。老夫婦はその言葉に、ほんの少し照れ臭そうに見つめ合って笑うのであった。それから婦人は、笑顔の描かれた葉っぱを見つめながら、やっと動きはじめた頭で考えていた。これからもこんな風に、小さな幸せを胸に留めて息をしていこう、と。この先理不尽さを感じたら、どうしようもない気持ちを持て余したら、きっと今のような小さな幸せを思い出そう。そうすればきっと、深呼吸して明日へ進むことができる。明日から、一カ月後も一年後も、十年後も、そうやって一日ずつ息を吸って、生きていこう。そんなことを考えていると、婦人はすっかり晴れやかな表情になっていた。

 かずはの楽しげな声が消えて静かになった頃、お花見はお開きとなった。和葉と子供たちは、どこまでもどこまでも、老夫婦が見えなくなるまで笑顔で勢いよく手を振っていた。

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