怠惰の魔女と憤怒の姫




「急げえ!!決して近付くな!!魔力の集中を確認したら即座に退避しろ!!!!」


 魔甲騎士隊長ガイガンは声を張り上げ、決死に騎士達を指揮していた。

 【奈落】から出現する魔獣達を相手する魔甲騎士団の隊長を務める以上、生物の理から踏み外したバケモノ達を相手にするのは慣れていた。首を刎ね、心臓を潰しても尚まだ動き回るような生物たちを彼は幾度も相手にしてきた。


 だが、否、だからこそ確信出来る。


 この実体化した悪魔は、彼が今まで相手してきた魔獣とも次元が違う。


「第二、第三結界破砕!!足止めも出来ません!!!」

「諦めるず続けろ!物理、魔術を問うな!!王城以外のルートに進ませるな!!」


 部下達を鼓舞しながらも、自分たちの攻撃が一切通用しないという事実にガイガンは戦慄していた。神魔の塔による無限魔力補充が失われたとはいえ、戦闘能力そのものが失われた訳ではない。魔獣との戦闘経験も、その対処のための技術も彼等は有している。


 それらが、何もかも通用しない。


 塔の内部の時のように、そもそも攻撃が当たらない、と言うわけではない。スピーシィが言っていたように、受肉し、現実に顕現している。攻撃は当たる。それは間違いない――――何一つとして、傷を負わすことは出来ないだけだ。

 此方が使う武器でも、兵器でも、一切傷がつかない。着弾しても、跡も残らない。魔術による拘束も、地形破壊による足止めも通じない。有効だったのは最初のスピーシィの拘束術のみだ。それだって、あくまでも、悪魔の体内に結果的に潜り込めたからこそだと彼女も言っていた。完全に実体化している今、体内に潜り込むなんて真似は出来ない。


 しかも、問題はそれだけではない。


「ぐ、紅蓮騎士団の魔術部隊が壊滅しました!!攻撃を仕掛けたのですが反撃で……!」

「馬鹿者が!!不用意に攻撃するなと言ったはずだ!!自分たちで仕留められるなどという甘い考えを出すな!!逆に王都が被害を喰らうぞ!!」


 他の騎士団達との連携が甘い。

 口を憚らず言ってしまえば、他の騎士団があまりにも温い。自分たちの常識を越えた生物との戦いというものを何一つとして理解できていない。

 コレも当然と言えば当然の話だ。なにせグラストールの最大戦闘力は自分たちだ。最前線で最も危険な魔物達と相対してきたのは自分たちを置いて他にいない。残る騎士達が何一つやってこなかった無能、などと言うつもりはないが、練度に差がありすぎる。

 そして、プリシア王妃に全騎士団の総合指揮を任されたが、そう簡単に全ての騎士達が、出世できずに【奈落】との戦闘ばかりしてきたガイガンに従うわけでも無い。


 こうなることは、自明だった。

 命じたプリシア王妃だって本当は分かってるはずだ。一つの国の騎士だって、そう容易く一つにまとまるはずが無いのだ。騎士達だって貴族だ。派閥争いや禍根もある。まとまるわけが無い。

 だが、分かっていてもやるしかない。


「気合いを入れろ!プリシア様が前線に立って、我々が尻込みしては騎士の名折れだ!」


 ガイガンは叫ぶ。この場において最も有効な激励だ。

 この作戦は”彼女たち”の場所に誘導する至極シンプルなものだ。たったそれだけのことしか任されなかったという事実はあまりにも悔しいが、それだけのことすらできないなら、今すぐにでも騎士を辞めるべきだ。

 そんなガイガンの怒りにも似た鼓舞に、現場の騎士達は雄叫びをあげる。彼等とて、今がグラストール最大の危機である事と、自分たちがどれだけ惨めを晒しているかは理解しているだろう。それ故か、悪魔相手であっても士気が一切落ちないのだけは不幸中の幸いだった。


「一人たりとも犠牲者を出すこと許さん!!!文字どおり盾となり王都を守り抜け!!」


 叫びながら、ガイガン達は悪魔と距離を取る度に攻撃を繰り返す。無論、ダメージは与えられない。それは分かっている。だが、誘導には効果はある。悪魔は迷い無く、此方を追ってきている。


『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖!!!』


「ぐああああああ!!?」

「ひ、ひぎゃあ!!?」


 不可避の、攻撃と共に確実に騎士達の数は減っていく。これもまた、わかりきったことだ。悪魔の攻撃から王都と国民達を護るため騎士達が倒れていく。悪魔の無数の指から放たれる光熱に焼かれていく。鎧も盾も通じない。神魔の塔が崩れて、無尽蔵の魔力に頼った防具はただの鉄塊に変わっている。

 そもそも騎士達の中でも停滞の病にかかっているものも多いだろう。本当に何から何まで満身創痍だ。だが、しかし、せめてこの任された仕事だけはやり通す!!


「誘導ルート以外の道を崩せ!」


 ガイガンは矢次指示を出す。しかし悪魔の動きはそれよりも速かった。まるで此方の抵抗を嘲笑うように、無数の魔術が輝き出す。まるで王都そのものを崩壊させるのが目的であるかのようだった。

 避難は進めているが、限度がある。停滞の病で身動きも出来なくなっている人間の数に対して、動ける者の数があまりに少ない。このままでは――――


『唖唖唖唖唖唖唖――――唖!?』


 だが、不意に悪魔の動きが止まる。新たな攻撃の為の準備かとも思ったがそうではない。ガイガン達が導こうとしていた王城へのルートを舗装するように、白く輝く魔法陣が悪魔の周囲を囲ったのだ。

 その白い魔法陣を、悪魔は破壊できない。コレまで殆ど無抵抗だった悪魔の動きが制限できていた。


「【白炎】が来てくれました!!」

「”専門家”が間に合ったか!!助かった!!!」


 部下の声に、ガイガンが歓喜の声を上げる。同時に悪魔が動き出した。


「悪魔!大通りを抜けます!!!」

「良し……!!」


 悪魔は大通りを猛進する。その先にあるのはグラストールの王城であり、その先に待ち構えているのは、この場における唯一の希望の光だ。


「後は頼みます!!プリシア様!スピーシィ様……!!!」


 悪魔に吹っ飛ばされた建物の上で、ガイガンは後を託した。



              ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 グラストー王城城門、屋外通路にて。


「――――」


 プリシアは髪を後ろで結った。

 命を賭して闘う際、意識を切り替えるための彼女のルーティンだった。久しく戦場に立っていなかった彼女は自分の両手を見下ろす。指先の一つ一つを折り曲げて、自分の身体の機能を確認していった。


 その間も、通信水晶から騎士達の悲鳴と状況報告が聞こえてきていた。騎士達は必死に悪魔に追いすがり、そして最後にはプリシアに全てを託していた。


「頼られていますね。王妃様?」


 プリシアの傍でスピーシィが楽しそうに話しかけてくる。とはいえ、流石にこの状況で彼女も遊んでいるわけではなかった。彼女の周囲には幾つもの術士の杖が宙に浮いている。それらはそれぞれ自在に動きながら、プリシアの周囲に魔法陣を描き出していた。


「自分の仕事に集中しろ」

「あら酷い。ボランティアの意欲を削ぐような事を言うのは感心しませんね?プリシア」

「ボランティアなら対価を要求するな。今すぐ”おぞましい呪い”を解け」

「”おそろのおまじない”って言いません?」

「死ね」


 そんな会話を続けながらも、着々と魔法陣は構築されていった。プリシア以外にも何人もの魔術師達がスピーシィの作業の補助を行っているが、彼女の曲芸めいた魔法陣の構築技術に眼を回している。

 だが、それでも魔術師達も必死だった。プリシアが追放された怠惰の魔女であると気付いている者もいるが、それでも今はそれを指摘することはない。そんな無駄な時間をかけている余裕は彼等にはない。


『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖!!!!』


 既に、屋外通路からもあの巨大な悪魔の姿は見えている。この状況でも尚、現場から逃げずに役割を果たそうとしている彼等は、覚悟を決めてる者達ばかりだ。スピーシィの問題でどうこうと浮き足立つような者は此処に居ない。


「よ……っこらしょ!スピーシィ、これでいいわけ?!」


 そして彼等に混じってミーニャも作業を手伝っている。王城に保管されていた複数の魔水晶を魔法陣の決められた場所に並べていく。それを確認してスピーシィは頷いた。


「オッケーですミーニャ。十分です。そろそろ避難してください」


 が、その言葉にミーニャは鼻を鳴らし、首を横に振った。


「結構よ。自分の身は自分で守れるわ」


 無論、言うまでも無く、悪魔を前にして自分の身を守れるような者はそうはいまい。それでも彼女が逃げないのは、勿論スピーシィを心配しての事だろう。それを理解してか、スピーシィは笑った。


「過保護。でもありがとうミーニャ」


 その感謝に、何時もの嘲弄するような声色は少しも含まれていなかった。ミーニャはその言葉に溜息をついて、そのままほかの魔術師達と同じようにスピーシィの魔法陣の補助に集中した。


『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖!!!!』


 既に悪魔は、目と鼻の先にまで迫りつつあった。悪魔の大きな鼻孔から吐き出される生々しい息の温もりが感じ取れるようだった。


「わー元気いっぱーい」


 スピーシィは暢気な声を上げる。が、その瞳は少しも笑ってはいなかった。感情の一切篭もらない瞳で、じっと悪魔を観察し続けている。

 対して、隣りに居るプリシアも悪魔をじっと観察するのは変わりない。が、その眼は凍えるように冷たいスピーシィのものとは対称的に、煮えたぎる怒りに満ちていた。


「ローフェンもあの中か。さっさと引っ張り出さなければな……しかし」


 その怒りは悪魔と、その悪魔を呼び出した自分の夫と、何よりも――


「アレにこの国の繁栄が支えられていたと考えると溜息しか出ないな。気付かなかった自分の無能にも」


 ――自分自身へと向けられていた。


「でも、斜陽だった国が大陸の王に返り咲いたのは紛れもない事実でしょう?悪魔は栄光と破滅を同時に持ってくるって言うのは本当みたいですね」

「硝子の栄光だった。これが終わった後、グラストールが飲まれる嵐を思うと頭が痛い」

「あら、もう既に勝ってる気なのですね。王妃様」

「お前と比べれば、幾らか素直だ」


 そう言いながら、彼女はスピーシィを成敗した大剣を地面に突き立てる。奇妙な大剣だった。プリシアの背丈と同じほどもある両刃の大剣であるが、王城に飾られていたものの割に、全くの飾り気がない。剣には一切の模様も無い。柄部も何一つとして飾り気がない。

 だが、そんなシンプル極まるはずの剣が、異様な存在感を放っていた。プリシアの身から放たれる魔力に応じ、脈動する。そして


「【影よ。我が下に集え】」


 一言。彼女が告げた瞬間、プリシアの周囲に影の騎士団が

 どこからか歩み寄ってきた訳ではない。まさに文字どおり、彼女の周囲の地面から、まるで沸きでてくるように黒髪の影の騎士達が出現したのだ。魔術師達は驚きの声をあげたが、スピーシィはそれに驚く様子はなかった。出現した影の騎士達の中でも、背丈の低く一番若い少年の姿を確認して、微笑んだ。


「あら、クロくん。回復できましたか」


 出現した影の騎士達に混じっていた、クロ少年はスピーシィに呼びかけられると顔を上げ、小さく微笑みを帰した。


『ご心配をおかけしました。スピーシィ様』

「貴方が無事で良かったですよ。クロくん」


 その声は、スピーシィと共に王都を回ってたときと比べて、不可思議な響きがあった。そもそも身体が不可思議な輝きに満ちていた。蜃気楼のように揺れている。

 明らかに、人ではない。その彼の姿を見てもスピーシィは驚きを見せない。その彼女の態度に、クロは少し恥じらうように頬を掻いた。


『スピーシィ様。貴方は俺の正体に気付いていたのですね』

「寝かしている間に調べました。完全に人間ではない、という訳でもないみたいですが」

『亡霊ですよ。”剣”に宿った』


 そしてクロは、最初スピーシィ相手にしていたのように、丁寧に頭を下げた。


『知っていて尚、俺を人として扱ってくれて感謝します。レディ・スピーシィ』

「よくってよ」

『では、互いに仕事を始めましょうか』


 そう言うと、クロは他の影の騎士団と一緒にプリシアの下へと近づき、跪いた。そしてその身体の揺らぎを更に強くさせると、次の瞬間、彼女の飾り気のない大剣に”吸い込まれていった”。

 彼等が身に纏っていた衣服や鎧、武具の類いも闇の中に消えていく。そして彼等が身につけていた【闇の剣】だけが残り、輝きを増す。プリシアの大剣も同じように輝き、そしてそれは最後、一つとなった。


 黒い影が、大剣に集い、纏わり付く。光をも吞む黒い炎が剣を覆った。


「【神影剣・グラン・シェーダ】」


 古の神が立ち去るとき、地上に残った影を土王が鍛え、剣としたもの。

 弱き使い手であれば、その魂ごと喰らってしまう恐るべき魔剣。それでも幾人もの英傑たちがその柄を握り、国や家族、仲間達を守るためにその命を捧げてきた。


 そして、剣を完全に支配下に置いた傑物が、その【神器】を構えた。


「【焔の蝶フィーラ】【大地の大亀ディーガ】【踊る風妖フゥーラ】【人魚姫ウォーラ】」


 同時に、その剣姫の隣りに立つ怠惰の魔女が、【強化術エンチャント】を繰り返す。

 スピーシィの最も得手とするのはこの【強化】だ。

 ”相手を阻害するのではなく、与える”。この過程の違いは凶悪だ。攻撃を防ごうと身がまえようとしたところで、優しく差し出された”強化”を人体は防げない。何せ攻撃ではなく、癒やしと強化なのだから。魔術と人体の構造を熟知したスピーシィの業と言えた。


 そして、言うまでも無く――――


「【四源至り神渦宿せグランデ・フォース】」


 ――――望む相手に、望む力を与えることこそ、【強化】の神髄と言える。


 神影剣の力を解放し、その時点で恐るべき力を放ち続けていた剣姫プリシアであったが、スピーシィが強化を施した瞬間、次元を越えた。触れるだけ、近寄るだけで灼けるような圧倒的な魔力が迸った。


「おお……おお……!!」


 先程まで悪魔の接近に怯えていた魔術師達は、彼女の前に跪き、両手を合わせて祈り始めた。装飾も華美な物語も必要な。ただただ純粋で圧倒的な力の前に、悪魔への恐怖をもねじ伏せて、信仰が生まれていた。


「まあ祈る対象はミニスカなんですが」

「【試し切りで貴様の首跳ね飛ばすぞ】」

「あら怖い」


 ただの会話すらも魔力が満ちすぎて、魔言に近くなっているプリシア王妃の殺意を向けられても尚、スピーシィは楽しげだった。この共闘自体が最大の娯楽と言わんばかりだ。


『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖!!!』


 悪魔が迫る。最早地響きだけで立っていられなくなるほどだ。魔術師達は地面に倒れ伏せる。ミーニャも同じだ。スピーシィも流石に堪えられないのか、自分の身体を宙に浮かしている。

 唯一、仁王立ちできているのはプリシアのみだ。


「【我が物顔だな、悪魔】」


 悪魔は迫る。その六つの腕を一斉に、スピーシィとプリシアの居る場所へと伸ばす。忌々しい敵を握りつぶそうとしているようにも、光と救いを求めて居るようにも見えた。


「【悪いが、お前の腹の中にいる馬鹿者に言わねばならぬ言葉が山ほどある。故に】」


 だが、それがどうであろうとも、応じるプリシアの選ぶ選択は一つだ。


「【失せよ】」


 剣をふり下ろす。


『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖!!!!』


 次の瞬間、稲光のように眩く、夜の闇のように昏い光が悪魔を吞んだ。

 だがしかし、耳をつんざくような轟音も、震えるような破壊の暴虐も存在しなかった。そのような、人が想像しうる破壊現象を、神の影は起こさない。


 悪魔もろともに世界を塗りつぶさんとする闇が、刃の形を成して叩き込まれた。


『唖――――唖唖唖唖唖唖!!!!』


 だが、一切の光届かぬ闇の中に墜ちて尚、悪魔は未だ蠢いていた。逃れるように六つの腕を伸ばし、城壁の結界に指を食い込ませる。それ自体が肉を焼く反発を招くが、それでも悪魔は躊躇しなかった。

 この闇に、吞まれるよりはマシだと、そう言っている。


『【■■■■■■■■■!!!!】』


 同時に、とてもではないが聞き取りきれない魔言が獣の喉から溢れ出す。

 幾人もの人間もの言葉と声が積み重なり、凝縮したような音だった。その声の中には先程悪魔に飲み込まれたローフェン王のものの声も混じって聞こえてきたのは、気のせいではないだろう。

 無数の人間が完全に同調してようやく成立する最高位の魔法陣が、悪魔を中心に無差別に発生する。四方八方。最早狙いも定かではない。稼働すれば、王都の全てを一瞬にして灰燼に帰すであろう魔術が明滅する。


「残念、それは無理ですよ。悪魔さん」


 だが、それが発動するよりも速く、スピーシィは悪魔を嗤った。


「【国に無尽の魔力を提供する】なんて契約だったんでしょうけど、どうせルールの裏を付いて結構な魔力を掠めていたんでしょう?」


 だからこそ、スピーシィの想定する魔力消費速度以上の魔力が使われ、魔素が停滞した。グラストールの発展速度を遙かに上回る速度の魔力が、悪魔の血肉になったのだ。


「国民の皆様と同じように、貴方もちゃんとツケは払ってくださいね」


 スピーシィが指を鳴らす。


『唖唖唖唖唖唖!?』


 途端に、悪魔の周囲で眩い輝きを放っていた魔法陣が光を失った。まるで石のように光を失い、ゆっくりと崩壊していく。更に悪魔が膝をついた。脚や腕が、石のように固まりつつある。奇妙な現象であったが、しかしそれが何を意味するのかは全員理解していた。


「国中の休眠中の魔素を城壁前に集めました。普通なら選別は難しいですが、今のこの国なら容易ですしね」


 停滞の病だ。


「肉体を手に入れたのは間違いでしたね。この世界に生きる以上、魔素の法則からは逃れられない」

『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖……!!!』


 怒りに満ちた声をあげるが、そうして伸ばされた手も足もなにもかも、土気色に代わっていく。この国の国民達がそうなったのと同じように、悪魔自身が何も出来なくなっていく。

 そして、逃げることすら出来なくなってしまったのなら。


「【奈落の底へと還るがいい――――黒闇・魔斬】」


 剣姫の神の影に抗う術は無い。


『唖――――――    』


 悍ましい鳴き声も、地響きも、迸る魔力もなにもかも、一瞬にしてその闇の濁流に呑み込まれ、押しつぶされる。悪魔の肉体は地上から消滅した。




              ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「――――く、生きて――ね」

「巻き込―――すような間抜けは――――責任を――――」


 心地の良い夢を見ていた気がする。

 全てのしがらみが無くなって、圧倒的な万能感に包まれながら、全てを破壊し尽くす、最高の夢だった。物心ついてから、ずっと心について回った不安と恐怖が全て拭いさられるような、まさに夢心地だった。


 だが、夢は夢だ。夢は覚めるものだ。


「……う、うう……」


 ローフェンはうめき声を上げながら、眼を開いた。

 全身が怠かった。痛みはないが、全身が水の中に浸っているように重たかった。そして眼の調子がおかしい。眼を開いて、光が眩すぎて前が見えない。まるで深い闇の中でずっと彷徨っていたように、瞳が光への耐性を失っていた。

 それでもなんとか、徐々に視界が回復していく。ぼやけていた視界が徐々に鮮明に鳴り、像が形を結び始めた。


「おはようございます元婚約者様」


 そして目の前に元婚約者の女がいることに、ようやく気がついた。


「こ、こは……」


 陥没した大通りの上で、ローフェン王は地面に倒れていた。普段身につけている豪奢な王衣もなく、裸だった。身を護る者は何も無い。そして彼の周りにはプリシアや騎士達が彼を取り囲んでいた。

 しかし、王である自分が無事だったにも関わらず、彼等の視線は冷ややかだった。過ちを咎める父の視線と同じだった。身が竦んだ。だが身を護るものも、隠れる場所も無かった。

 唯一、目の前のスピーシィだけが微笑みを浮かべている


 ローフェンは荒く息を吐いて、そして震える指で、スピーシィを指して、


「君の所為だ」


 言い逃れの言葉を口にした。


「僕は悪くない!悪魔はこの魔女が呼んだ!僕は対処しようと必死だった!」


 その場に居る全員に向けた言い訳だった。

 憐れっぽく、真剣に聞こえる声だった。此処が玉座であれば、真剣に耳を傾ける者もいただろう。だが此処は玉座ではなく、緋色の外套も、煌びやかな王冠も持たない彼の言葉は、あまりにも貧相だった。

 彼に魔女と呼ばれたスピーシィは、逃げようとも、言い訳をしようともしなかった。すこし退屈そうにしながらも「うんうん」と頷いた。そして、


「と、おっしゃっておりますが」


 ローフェンのパートナーであるプリシアに視線を向けた。何故か懐かしい学生服を身に纏ったプリシアは、冷ややかな視線をローフェンに向けた。氷のような視線を向けられたローフェンは、それでも喋るのは止められなかった。


「プリシア!!ぼさっとしてないで僕を助けてくれ!!騎士達も!この女を捕まえろ!」


 しかし、その訴えにプリシアは応じなかった。騎士達も彼女に従うように不動のままだ。プリシアはそのまま、小さく溜息をついた。


「一番近いところにいながら、お前の闇に気付いてやれなかった事は私の落ち度だ。償いをお前一人に押しつけるつもりはない。が」


 そう言って、彼女はスピーシィに視線を移した。


「けじめは付けなければならない。スピーシィ」

「あら、なんですか?」


 問われると、プリシアは片手を挙げた。すると周囲の騎士達は一斉に兜を脱ぐと、目を瞑り、両耳を塞ぎ始めた。珍妙な動作だったが、更にプリシアもまた、それに続いた。


「私と騎士達の耳と目は一切機能しなくなる。その間に起こったことを感知しない」


 これから、スピーシィがなにをしようと、自分たちは関わらないと、彼女はそう言った。


「要らない気遣い。さてどうしちゃいましょうか?」


 邪魔者がいなくなり、スピーシィは改めて一歩近付いた。ローフェンは息を荒くして周囲を見渡すが、此方に視線を向ける者は一人も居ない。本当に、誰一人、何一つして自分を護るものはないのだと理解した。

 目の前には、自分の都合でこの国から追い出した魔女がいる。


「立場上としては、復讐しても許されるんですかね?私」

「き、君を追放した首謀者はプリシアだ!!けじめだの復讐だの!彼女にすべきだろう!」

「あら、知りませんでした王さま?私、もうとっくにプリシアに復讐してますよ?」

「へ?」


 その言葉の意味を理解できずにローフェンは呆ける。スピーシィは続けた。


「仕返しのことを復讐っていうなら、私はもう本当に山ほどプリシア王妃にやって来たって言うんですよ。20年間くらいずーっとやってきましたよ?やり返されもしましたけどね」


 ローフェンはプリシアを観るが、彼女は平然としている。彼女は王城で暮らしている間、一言もそんなことは言わなかった。だが、そうなのだろうという気がしてきた。勇ましい剣姫としての側面を王城で見せることは殆ど無かったが、しかしなにか問題が起こるとそつなく一人で解決する女だった。

 賢しらに自分の成果を掲げて見せびらかすような女では無かったし、困難に周りをすぐに頼る女でも無かった。ローフェンが虚栄の玉座の上であぐらを掻いている間に、スピーシィとやりあっていたとしても、確かに彼女は何一つローフェンには言わないだろう。


「嫌なこと、全部プリシアに任せてたから、知らなかったんですね?」


 クスクスクスとスピーシィは笑い、更に一歩近付いていく。片手に握られた杖がゆらゆらと蠢く。彼女の魔術の腕をローフェンは知っている。塔の補助も無くなった今、彼女に適う道理は無かった。


 ローフェンは荒く息を吐き、そして――――スピーシィの足下に縋り付いた。


「あら?」

「ぼ、ぼ、ぼ」

「ぼ?」

「僕が悪かった!!許してくれ!!」


 ひょいと、スピーシィはローフェンの手から逃れるが、ローフェンは彼女の足下で縋り付こうとするのは止めなかった。逃れるように宙に浮遊するスピーシィの足下で、ローフェンは必死に声を絞り出した。


「君のことを本当は想っていたんだよ!!だけどあの時はああするしか無かったんだ!!」


 20年前、彼女を王城から、王都から、この国からその身一つで追い出した過去を、ローフェンは謝罪した。さしものスピーシィも流石に予想しない言葉だったのか、少し驚くように眼を丸くさせた。


「あらまあ……ここまで自己保身に終始されると、関心しますね」

「許してくれ!!ああそうだ!!君の無罪を国に告知する!!君を追い出した悪しき王妃の罪を明らかにして、君をこの国に戻れるように取り図ろう!!」


 20年間共に過ごしてきたパートナーを生け贄にする。そんなことを口憚らず宣言するローフェンの有様は、無惨極まった。騎士達と自分に見聞きを封じたプリシアの指示は的確だった。いくら騎士達が盟約に基づき、王を護ることを義務づけられても、嫌悪と侮蔑はまのがれることは出来ないだろう。


「そうすれば!君が王妃だ!!プリシアを追い出そう!!!」

「それはそれでちょっと楽しそうですけど……そうですね」


 スピーシィはそう言って、地面に降りると。ローフェンを立たせた。汗を掻いて、ひしゃげたような笑みを浮かべたローフェンの正面に立ったスピーシィは彼の肩にそっと触れて、優しく微笑みを浮かべた。


「色々と、言うべき事はあるはず何ですが、面倒くさいですし、一言でまとめましょう」


 そしてそのままゆっくりと片手を上げると、そのまま幾つもの強化術をその手の平に込めた。尋常ならざる光を放ち始めたスピーシィの右手をみて、ローフェンは怖じけるように一歩下がろうとするが、何故は脚は動かない。そして―――― 


「20年遅い」


 凄まじい炸裂音と共に、ローフェン王の頬に渾身のビンタが着弾し、彼の身体はきりもみしながら吹っ飛んでいった。




              ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 かくして、グラストールが滅亡の危機に瀕した大騒動は終わりを迎えた。


 事件後、グラストール全体に広がっていた【停滞の病】は時間経過と共にゆっくりと回復していった。幸いにして、というべきだろうか、停滞の病に陥った人間はまるで石のように身体が硬くなり、傷つけることも出来なかった為に「生きている間に死体として処理される」といったような悲惨な悲劇が起こることは回避された。

 とはいえ、安置する場所に困り、そのまま地面に埋葬していた地域もあったため、病が回復する前に慌てて地面のそこから回収するといったような大騒動が起こったりもしたのだが。(その結果、掘り返され忘れた人間が墓の下でうめき声をあげ、夜に這い出てくるといった噂話が沸いてでたりもした)

 ともあれ、国を滅ぼし掛かっていた恐ろしい停滞の病は治まった。

 全ての原因は悪魔にあったのだという事で病の究明については決着が付いた。

 しかしこの事件でグラストールは塔を失い、無尽の魔力を損なった。


 グラストールの衰退は必須と想われていたが、現界した悪魔を正面から打倒した事実と、それを実行した【剣姫プリシア】が、彼女自身が追放した【怠惰の魔女スピーシィ】と共に困難を打ち倒したというセンセーショナルな出来事は、各国に美談として伝わり、病で衰退したグラストールへの支援を望む声が後を絶たなかった。

 また、討伐された悪魔を倒す際に出現した幾つもの遺留品を研究材料として望む者も多く、その取引を積極的に行った結果、魔術大国としての失墜と損失は、想定されたよりも緩やかに済んだ。


 また、この件では、大きく傷を負い、プリシア王妃と入れ替わりで離宮での療養に移った。跡継ぎとされていたマリーン王子が代わりに玉座につき、プリシアがその後見人として援助する形となったため、王城内はそれほどの混乱は起こらなかった。

 が、王の容態についてはプリシア王妃の悪魔討伐の話と同じくらいの各国の噂の種となった。悪魔と立ち向かい、回復不能な呪いを負ったとも、精神を病んだとも言われているが、全て定かではない。


 そんな中、市井に広がった噂の一つにこんなものもあった。


 怠惰の魔女、スピーシィに張り倒されて顔面に残った平手の跡が、いつまで経っても消えなくて、表に出ることが出来なくなったのだ。というものだ。


 無論、だれもが冗談だと嗤うような与太話であったが、しかし何故かこの噂は他の真実味のある噂話よりもずっと広がり、残り続けた。後々、これを元にした寓話や格言までも産まれたりもしたのは別の話だ。


 ともあれ、グラストール滅亡の危機は、こうして回避されることとなったのだった。


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