悪魔のささやきと虚栄のなれの果て
「おお、おお、偉大なる魔術の王よ。お会いできて光栄にございます。」
その女は、商人と名乗っていた。
黒い髪、露出の多い服で、褐色の肌を随分と晒している。西国の端、遠く、砂漠の国からやってきたと言うその商人は、多様なものを扱っていた。稀少な宝石や書籍、珍しい香辛料に、魔法薬。様々なものを用意した彼女は、瞬く間に王城の大臣達を魅了した。
勿論、ローフェンも彼女の商品に心惹かれない訳ではなかった。
しかし彼女は、商品の検分を行う騎士達の視線から逃れるように、密やかに王の傍に近付いていた。
「ああ、ああ、偉大なる王よ。何か、悩みを抱えていらっしゃるのではありませぬか?」
まるで此方を見透かしたような紅色の眼が、ローフェンを射貫いた。
そして彼女は、ローフェンの胸元にそっと、一冊の本を差し出した。何の意匠も無い、題名も書かれていない、古く、奇妙な無地の本だった。しかし不思議と、ローフェンはその本に眼を惹かれた。眼を逸らすことの出来ない奇妙な引力があった。
明らかな【魔本】の類いだった。
魔本は時として恐るべき古の術が秘められたものがある。言うまでも無く、王の手に渡るまでにその内容を精査しなければならない。そんな妖しげな魔本を、騎士達の眼を隠すようにして手渡してきた商人を、しかし偉大なる魔術王は突っぱねる事は出来なかった。
悩んでいたのは本当だった。
建設中の神魔の塔の完成の目処が、未だにたっていなかった。
当然といえば当然だ。神魔と仰々しい名前がついていても、中身は空っぽの虚栄の塔だ。そろそろ中に入っている魔術師達も訝しみ始めた。何時まで待たせるのだと建築家達がウンザリと声を上げ始めた。時間が無かった。縋れるものはなんだって縋り付きたかった。
だが、彼は誰かに頼ることは出来ない。
王妃であるプリシアにも、決してそうすることは出来ない。
だから彼は、その魔本を、差し出された胡乱な品を、手に取った。
「
そう言う商人は悪辣に笑っていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
そして自分の研究所にて開いたその本は――やはりというべきだろう――古代の、妖しげな術式の刻まれた魔本であった。魔本は、不思議とローフェンが研究に行き詰まったとき、必要な知識をもたらしてくれていた。
まるで、本が生きているように、望むとき望むものを用意してくれる。
知識だけではない。くだらない愚痴や不満を零せば、次の瞬間には
たちまち、彼は本に魅了された。
ローフェンにとって、初めて自分の孤独を埋めてくれる相手だった。常に、自分を完璧であるように偽ってきた彼は、理解者をつくることが出来なかった。妻も、産まれた子供達も、彼にとって本質的には敵に近い。憐れなまでに彼は孤独で、だからこそ、自分の虚栄が剥がれる心配の無い魔本は、彼にとってあまりにも魅力的だったのだ。
だから、次第に魔本が大きくなっていくのを、彼は無視した。
だから、次第に奇妙な音を――声を発し始める魔本の異常を、彼は無視した。
だから、徐々に本を使うので無く、本に使われ始めている自分を、彼は無視した。
塔は変貌し、悍ましい肉塊が浸食する。本から這い出る甘い声に彼は支配され、元々健全とは言い難い彼の精神状態を致命的に壊した。
『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖』
そうして、とうとう本の形ですらなくなった”彼女”に、彼は縋った。
最早彼女に縋らなければ、塔の魔力供給は維持できなくなっていた。そいおの塔が病を撒き散らしているのも、彼女が既に自分では制御できなくなっていることも、理解していた。それでも彼女に縋るのは止められなかった。
だって、自分は完璧で無ければならないのだから。
救いようのない虚栄の権化の彼は、何処までも自分のことばかり考え続けた。
そして――――
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖――――』
そうして、彼はとうとう人間ですらなくなってしまった。
魔術王ローフェンは自分の視界が異常になっていることに気がついた。異様に景観が広く、、高い。グラストール王都の美しい街並みが、何故か眼下に広がっている。
彼女――――悪魔に握りしめられて、潰れて、ぐちゃぐちゃになったあと、目を覚ますとこうなっていた。両手を観ると、爪が伸びて、毛むくじゃらで、指が8つあって、しかも腕が他にも4つあった。頭には角が伸びていた。
ローフェンは、悪魔そのものになっていた。
『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖――――』
だが、しかし、不思議と嫌な気分では無かった。
開放感と、異常なまでの高揚感が彼を包んでいた。何をしても許される万能感が彼を支配していた。唯一、腕にまとわりついた光の鎖だけが鬱陶しかったが、それも間もなく壊れようとしていた。
そうすれば、今度こそ、本当の自由だ。
もう、偽る必要は無い。誤魔化すことも無い。全てから解放されるのだ!!!
とうとう倒れた虚栄の塔を踏みつけて、ローフェン王は両腕を振り回す。光の鎖が砕ける。千切れる。崩壊する。縛るものはもう、何も無いのだ。
『唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖――――!!!!!』
歓喜の声を彼は上げた。解放された衝動と共に力を放つ。周囲の建築物は崩れていく。あれほど美しかった王都の建造物が崩れ去っていく。
最高の気分だった。
本当はずっとこうしたかったのだ。
傲慢なる大臣達。疎ましい貴族達、我が儘な国民達。全部全部ウンザリだった。
彼等の顔色を伺って、彼等に良い顔を見せなければならない苦労は、年をとるごとに疎ましくなっていた。ずっとずっと我慢の限界だったのだ。
さあ、壊そう。全て壊そう。何もかも壊そう。
「撃てェ!!」
そう思っていると、不意に頭に何かが直撃した。強烈な光と熱。それはグラストールで騎士達が最も使う兵器、魔砲の類いだった。ローフェンは腹が立った。折角自分が騎士達に配備してやった最新の兵器を、よりにもよって自分に向かって放つとは!
『唖――――!』
禍々しい指先を向ける。力を込めると熱が灯った。間もなくして、自分にぶつかってきた魔砲よりも遙かに強大な光が指先から放たれた。グラストールの大通りを粉砕しながら、騎士達に向かっていく。
「退避、退避ーーー!!!」
必死に騎士達は逃げ惑う。まるで虫のようだった。
良い気分だった。当然の報いだとも思った。そしてもっと、その無様をみたいとローフェンは思った。足は自然と其方に向かう。蹄が地面を踏みならす。その度に王都が揺れ、騎士(むし)達が逃げ惑う。楽しかった。最高だった。こんな気分は産まれてこの子かた初めてだった。
物心ついた幼子が、初めて玩具に触れたときのように興奮しながら、ローフェンは前進する。途中で幾つもの邪魔者を蹴散らしながら、誘導されるままに。そして――――
『唖――――』
彼は、大通りを抜けて、その先にある自らの王城の前に立った。
数十年間、彼がずっと過ごしてきた城だ。そして数百年以上続いた、歴史と伝統のある誇り高きグラストール王城だ。勿論、ローフェンとて、その王城に愛着を覚えないわけではなかった。忌むべき記憶も多い場所であるが、それでも、ずっと過ごしてきた場所なのだ。
しかし、彼の視線は、意識は、自分の城(いえ)には向いていない。
彼が意識を奪われていたのは。
「さて、それじゃあやりましょうかプリシア。二人の共同作業」
「悍ましい物言いを今すぐやめろ、スピーシィ」
かつて自分の婚約者であった魔女。
そして、ずっと自分を支えてきた王妃が、自分のような偽物ではない本当がそこにいた。
眩い輝きを放つ”本物”達。自分では絶対に届かない光を、最早行き着くまで成り果てたローフェン王は疎ましく思い、眼を細めた。
本当は、ずっと嫌いだった。
自分の正体を見抜く、本当の魔女も、
偽り、ごまかす必要も無く、在るままに正しくあれる王妃も、
どちらを前にしても、自分がいかに矮小であるかをお思い知らされるのが、嫌だった。
これまでは、その光に対して曖昧に笑って、遠ざけて、観て見ぬ振りをするしかなかった。だが、今は違う。城と同じくらいに大きくなった自分に対して、二人の光はあまりにも小さい。その手で、握りつぶしてしまえそうなくらい。
だから、握りつぶしてしまおう。
ローフェン王は躊躇無く、手を伸ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます