第6話

 父の背中、と云われても直正の記憶は乏しい。

 父を求める息子の視線に母の微苦笑。

 そして、刺されて死んだ。

 そうですか。

 貴方の父が下手人ですか。

 今更、超今更。


 喫緊の事態を前に思考がそれを退ける形に動作する、所謂逃避という状態を、多くの人は何かしら体験しているだろう。中間試験の前夜に一夜漬けも放棄してゲームやネットに没頭する、〆切を投げ出して夜の街に繰り出す、などなど。そんな馬鹿げたことをすれば凍傷で指が腐り落ちるぞと理性で怒鳴りつけつつしかし、グラブを外し極寒にかじかんだ指に息を吐きかけたい衝動を押し殺しながら小倉直人は、こんな時にと、それでも、改めて国を喪う意味を思い知る。国。俺を使い潰すだけの存在だと確信していた。正に国畜という呼称が相応しかっただろうあの数日間。暗色の絵の具を溶かし込み塗りたくった生乾きのセメントにも似た曇天に吹き荒ぶは地吹雪。流れながれて何でそんな北欧の寒天の下、片言の英語で意思疎通する熊の様な巨漢を上官に戴き一命を賭す破目に陥っているのかと文字通り、寸刻、思わず天を仰ぐ。つまりは業務。拠る術のない元、納税者たちを保護するための、残務。


 銃声、呼び交わす声。


 指揮官先頭を体現する如くに駆け出した背中に直人は、その挙動に危うさを覚えながらも仕方なし追随する。角の向こう。

 その時、出会い頭に向き合った銃口はマズルフラッシュで互いの額を焦がす至近距離をそのままほぼ同時に火を噴き、罵声を発しのめり崩れる巨漢の私服刑事に半歩遅れていた彼小倉直人は目前の遮蔽、ダストシュートの影に我が身を投げ入れている。


 廃工場の荒れたコンクリート路面を激しく踏み鳴らし離れる足音。上げた頭を抑えに掛かる殺意に欠けた自動小銃の一連射を退きざまに交わしながら、撃ち尽したAKを放り棄てさらに距離を開くその背中に向けこちらも全力で駆けつつ撃つがUSPのワンハンドで命中は期待出来ない、そして小倉の本職は情報であって火器ではないし既に若くもない。僅かの間に残弾は果てしかし相手は止まらず、情けなくもう息の上がった身体で壁に片手を付き身を支えるその向こう100mほど先の角に標的の影は消えた。


 依頼があったのは一週間ほど前の事になる。

「迷子?」

「いえ、迷い猫、です」

 依頼人が生真面目に訂正する。希少な故国のコーヒーを所長手ずからその前に差し出し、自分も座り直す。いつのまにやら十人を数えるまで育った事務所は、あいにく今は彼独りだった。

 ここにも雄が一匹住み着いているが猫はあまり好きではない。飼い主に関係なく気儘で、自由だ、つまり自分に無いものを全て持っている。気に入らないがそれでも犬よりは遥かにましであるのは事実で……。


 これ以上どうしろっていうんだ。


 上長として堪えに堪えた挙句ついに漏れ出た直人の、困惑、怨嗟、そして何より疲労に満ちた一言は、自身が全く望まない強靭さを伴い室内に、課員に向け放たれた。しかし失態を狼狽で更に上塗りする自由すら彼には許されていない。空咳ひとつで総てをリセットし、業務遂行に向け再び意識を集中する。


 其の日世界は静かに、緩やかに崩壊へと向かった。都合三度目の世界大戦は軍、官、民を問わず熾烈な情報戦という形態で襲来した。疫病、或いは真逆の防疫、情報開示流言飛語、交互に飛び交う希望と絶望、幻惑の中世界は、欧州枢軸対国際秩序の代理戦争、かつては旧ソ連の盟友であったロシア、ウクライナの武力衝突として激突、極限されるかの戦火は当然にして最終的に数発の核を暴発させつつ全人類の頭上に降り注ぎ、結果大戦に参加した陣営総てが等しく敗北を喫した。軍閥単位での割拠で“第二期戦国時代”と揶揄される状態となった大陸は既に周辺国家に対する脅威では無かったが、その不安定さは別の形でとある隣接地域に危機を招いた。反日原理主義過激派が複数の戦術核を入手、という第一報は他ならぬ北京から発せられた。しかしながらにしてかつての世界帝国は沿岸部を拠点に活動する当該組織への、この事態への当事者能力を持たないという。現在の我が方に対処可能な方法手段は存在しない、この情報が当方により提供出来る総てとのこと。


 然るべく、善処せよ。


 当該組織である大中華開放戦線の拠点は直ぐに判明した。しかし最重要物件である戦術核の行方は不明だった。そも情報の確度が100%ではない。関係者の身柄を押さえ確定情報を入手し対処するしか最早手段は無い、無論大陸の内政問題に我が国が関与する事は有り得ない、無いのだ。残存する現地戦力を結集し臨編した部隊を現場に飛んだ直人直率で作戦決行の3時間前、国会開催中の東京、呉、佐世保に落着。

 おまえ、一発だけなら誤射かもしれない、って知ってるか。傍らの、実質の部隊長である唯一の日本人に向けそんな繰言を投げたが、上官の意味不明な私語への応答は当惑の表情と消極的な否定でしかなかった。極東で炸裂した核はドル、元に続き腐っても日本、のYENを吹き飛ばし、経済、各国世論、安全保障という人類史上いやになるほど馴染み通りに発生した連鎖爆発の中、暗中模索であった世界秩序もここに潰えた。

 職掌権能の範疇でベストを尽くしたと、誰を前にしようと直人は今でも明言出来る。

 言葉では。結局何もかも手遅れになってしまった。どういう因果か日の丸に忠誠を誓ってから世界を巻き込んでの故国焼亡まで果てる事なく続いたデスマーチの日々、滅私奉公公僕の鑑社畜ならぬ国畜、これを犬と呼ばずして何と、あれ、ようするに自己嫌悪の投射で犬に罪はないのか。


 そうじゃない、猫だった。


 日本製という以上の価値はないそれを一口含みながら小倉は、目の前のすこしやつれた中年男性に意識を戻す。

 脱出の当時はまだ仔猫で、苦楽を共に乗り越えた今は完全に家族の一員で、息子の自分より愛しているんですよと苦笑を交えながら男は話した。

 ここ数日で母の痴呆は目に見えて進んだ、だから。

 認知症でメンタルケアが果たす重要性については小倉にも理解出来た。日本民族の少子高齢化は地球全土に点在する事になった今も変わらず、寧ろ悪化している。現在ストックホルムでも日本人、つまり勤勉で善良であるのを幸い難民は暖かく迎えられているがそれはそれとして法制上では行動を著しく制限されており、そして猫の行動範囲は広い。限られたリソースと適正な優先序列の範囲に於いて決して手抜きはしていなかったが彼女の捜索、発見保護は難航し、代わりに連合軍のセーフハウスと思しきここをエリア拡大により小倉自身が発見してしまったのがつい10分前。

 いつもであれば情報と手柄を現地に投げればそれで済むのだが今回は危急であったらしく、短く激しい応酬の末、一昔前の『ググメ』を小倉本人が将校斥候として部隊の先頭に立つハメとなった。


 爆音に似た何かが轟く。


 反射的に身構えた視界の隅建屋の向こうから粉塵が湧く。何かが白煙を曳きながら天に延び行く。呆然と見上げる中凄まじい加速によりそれは瞬時に視界から去った。


 また、間に合わなかったらしいな。


 久しぶりに使い切った身体でその場に立ち尽くし、小倉はその無念を言葉にした。



 天誅!!

 裂帛の気合と共に放たれた母国の、聖言を直人は懐かしく聞く。

 痛みは感じない。其れ程に素晴らしい乾坤一擲の一撃。

 感謝。

 漸く、死ねる。

 ごめんなさい。

 日本を焼いたのは私の無能です。

 有難う、ありが。

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