第2話 亡き母の名を持つ少女【ニコ視点】

 引き続き、私の『運』の話を聴いてくれるだろうか。


 私は数ヶ月前からずっと楽しみにしていた筈の、インジェンの新刊を放り出して。その子を担ぎ上げていた。


「お嬢様!」

「チルダ。お願い。……お父様には私が説明するから」

「お待ち下さい。。その方は…………通行証があっても、入れません」

「は? 何を…………」


 泥で汚れた、ボサボサの髪。チルダはそれを掻き分けて。


「…………獣の耳……!」


 公園に建てられた細い光泥燈の、白い光に照らされて露わになった。

 ふたつの三角形。


 獣人族アニマレイス


「……可愛い」

「お嬢様?」


 この世界では、だと蔑まれている種族。獣の特徴を身体に宿す代わりに、人間ほど賢く進化しなかったと――教わる。


 馬鹿な。

 こんなに可愛い生き物が蔑まれる?

 意味が分からない。


「通行証が機能するのは、人間だけです。ニコお嬢様。いえそれ以前に。許可証と違い、通行証は刻まれた氏名が一致していなければ」

「駄目よ。このままじゃ死んでしまうわ。この子は助ける」

「お嬢様」

「私が決めたのよ。数分前の『決めた私』を、今の私は裏切れない」

「お嬢様!」

「!」


 チルダが、声のボリュームを上げた。珍しい。私が父の書斎に侵入しようとした時以来だ。


「もうこれは、単なる我儘では済みません! 異種族間です! 我が国の法律で! 禁じられています。お分かりですか!? その方を助けると、ニコお嬢様やお父様が『逮捕される』のです! 最近はデモも増え、人間と獣人族アニマレイスは両者ともにピリピリしているのですよ!」

「………………」


 運だ。

 私が人間に生まれたように。

 彼女が獣人族アニマレイスに生まれたことは。


 自分で生まれる場所を、親を、種族を、家を。選べる訳もない。


「分かったわ」

「お嬢様……」


 分かっている。は。


 違う。

 はまたとない機会なのだ。私が、獣人族アニマレイスを自分の屋敷へ呼ぶ。

 だから、人命救助を元に、この子を助ける論理を捻り出す。ずっと窺っていたのだ。


「見なさい」

「はい?」


 彼女が提示した通行証をチルダへ手渡す。両手が空いた私はようやく、彼女をきっちりと背負うことができた。冷たい。早く暖めてあげなくてはならない。


「……これは……っ!」


 通行証には、発行を許可した役所のサインと。申請した者の名が刻まれる。


 ルミナス・ヴェルスタン。


 私の母の名が刻まれていた。


「光暦232年6月11日発行。……16年前よ。分かる? 私が生まれた日。お母様が亡くなった日。……これを、お父様がお母様に渡して。退院後、私の物と一緒に居住証に書き換えるだったものでしょう?」

「…………そんな、馬鹿な……っ!」


 ずっと、紛失していたものだ。聞いたことがある。私が産まれて、その日に母は死に。

 ヴェルスタン姓となった母の名前が刻まれたものは、たったひとつ。紛失してしまった通行証だけなのだと。


 これも、運だ。きっと。悪運も不運も幸運も。

 全て。


「ぅ…………」


 背中から、うめき声がした。絶対に助ける。謎を解かねばならない。何故今まで、見付からなかったのか。何故貧民街に。何故賭博の景品に。


「しっかりして。あなた名前は?」

「……ぅ…………」


 名前。大事なものだ。その人が、その人であるという確固たる証明。数多居る人間達を、それぞれ個別に分ける記号。その人


「…………ルミナ……」

「!?」


 私が、たまたま見掛けて。


 たまたま拾って助けた。


 獣人族アニマレイスの少女が。


 母と同じ名を名乗ったことも。


「お母様の形見。助けるわよ。良いわね?」

「……お嬢様」


 …………運なのだ。

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