光泥のイストリア

弓チョコ

第1話 運命の雨の日【ニコ視点】

 この世は『運が全て』という話をしたい。


「ニコお嬢様」


 雨の日だ。

 私はメイドに止められたが、今日はインジェンの新刊が出る日だった。ずっとファンで、彼女の執筆した本は可能な限り全て集めている。

 今日ほど大事な日は無い。メイドの制止を振り切り――いや。メイドの手を引っ張って巻き込み、屋敷から下りてきて、書店へと駆け込んだ。


 その帰り道だ。


 『頑強ガラス』でコーティング加工された煉瓦レンガ造りの、四角い見慣れた街並み。両手で袋を抱えて、ようやく手に入れた新刊を濡らさないように保護して、転ばないように、そして早く読みたくて。傘をメイドに差させて、早足で帰宅している途中。


 ふと、路地裏に目をやった。いつも通り過ぎる公園の、向こう側。

 理由は無い。きっと、『運』なのだ。いつもは気にしない。よりによって雨の日に。


 人が、居た。頑強ガラスの内側に煉瓦が見える壁を背にして、地面に座り込んでいる。手はだらしなく垂れていて、首も力なく俯いている。


 私と同じくらいの、少女が。


「ニコお嬢様。。さ、お早く」

「待ってチルダ。助けるわ」

「お嬢様」


 知っている。

 あの路地の先、下り坂をずっと降りて行けば貧民街だ。ここは高所にもなっていて普段は全く接点が無いけれど。貧民街側から登ってくれば、距離的には簡単に辿り着ける。

 よく、素行の悪い住民がゴミを投げ捨てたりしている。その先から、やってきた。そんなことは見てすぐに分かる。


 知っている。

 あんな子はいくらでも居る。ひとりだけ助けるのはエゴだ。彼女の為になるかも分からない。

 垂れた右腕に、入墨があるのが見えた。あの、バッテンのマーク。

 娼婦奴隷の子だ。見ればすぐに分かる。


「お止めくださいお嬢様。旦那様がお許しになりません」

「ちょっと黙っていて」


 分かっている。メイドのチルデガルダは本当に優秀で、いつも私のことを本心から心配してくれている。今日も今も。自分が濡れることなど全く頭に無くて。私と、私が大事にしている本を濡らさないことしか考えていない。


 近付いた。今日は暗い為に早くから点いている『光泥燈こうでいとう』に照らされてできた私の影が、彼女に重なった。

 気付いた彼女は、ゆっくりと頭を上げた。


 この国の人種では珍しい、黒い髪。空色の私とは全く違う。……いや。汚れているから黒に見えるのだ。灰色? 白色?

 まるで世界の終わりを映したかのようなドス黒い瞳。絶望の色。

 泥で汚れた全身。下着の上に、ボロボロのマントを羽織っただけの格好。


「………………」


 震えている。そりゃそうだ。朝から雨は強い。風もある。顔色は最悪だ。青白い。唇は紫だ。


「…………助けて、ください」


 震えながら、消え入りそうな声で懇願してきた。もとよりそのつもりだ。けれど、この国にはルールがある。


「この先の居住区へ上がるには居住証か通行証、それか許可証が要るわ。今、許可証を用意させるから――」

「あ、あります」

「は?」


 住人である私が許可を出せば入れる。その手配をチルダに頼もうとしたのだけど。

 予想外の言葉が、その紫色の口から発せられた。


 ボロのマントをもぞもぞとさせたと思ったら。ちらりと、翻して。


 『それ』を見せてきた。


 特注品で、折れも曲がりも燃えもしない、手の平サイズの1枚のカード。


「…………通行証!? 役所で発行するものなのよ? 身分証が必要なのに。あなた……」


 貧民街の奴隷に身分証は無い。けれど彼女は、私に通行証を提示した。


「賭博で、運良く、勝ちました。けれど、イカサマだって難癖付けられて。……何とか逃げて、ここまで……来ま……した」

「…………!?」


 とうに限界だったろう彼女は、そう言い残してずるりと倒れた。


 ――全て、運だ。

 もう少し雨が強くて、雷があったら。私はこの日、出掛けなかった。すると彼女はここで、野垂れ死んでいた。

 私が目をやらなかったら。近付かなかったら。

 彼女が、通行証を賭けの対象にする賭博に参加しなかったら。運悪く負けていたら。買っても逃げ切れなかったら。ここへ辿り着かなかったら。


 この物語は、始まらなかったのだ。

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