第18話 過去の縁は面倒です
「おはようございます、セルジュ様」
「おはよう、クロエ」
翌朝少し早めに登校したアネットはクロエを教室に置いて、図書館へと向かう。
昨日、マカロンをセルジュにも食べてもらいたいと、真剣な表情でラッピングに取り組むクロエを微笑ましく見守った。照れながらプレゼントを渡すクロエの可愛い姿を見たい気持ちもあったが、さすがにそれは野暮だろうと気を利かせたつもりだ。
(再来週にはテストだし、勉強しないとね)
授業も今のところ問題なく進められているが、入学してすぐに成績が落ちるようでは不要な憶測や攻撃のネタを与えてしまうことになる。せめて前期は首位を死守したいところだ。
苦手科目の参考書籍の棚に目を走らせていると、誰かが入ってきた音がした。自分のことを快く思わない生徒だったら面倒だと、目についた本を数冊取ってカウンターに向かいかければ、正面にリシャールの姿があった。
無人だと思ったのか驚いたような表情が年相応でどことなく安心する。アネットは会釈だけしてリシャールの傍をそのまま通り過ぎようとした。
「っ、待て!」
「えっ?…きゃあ?!」
何かに引っかかったのか、束ねた髪の毛がぐいっと引っ張られた。一瞬だけだったが反射的に思わず声を上げてしまう。
「あ、すまない。大丈夫か?」
焦ったようなリシャールの顔が近くにあり、むしろそちらのほうが衝撃的なのでやめて欲しい。
「いえ、大丈夫です。すみません、髪をどこかに引っ掛けてしまいましたか?」
片手で髪を押さえて見渡すが、該当するものが見当たらない。
「――うっ、本当にすまない。俺がつい掴んでしまった……」
(はぁ?女性の髪を、つい掴んだと?!)
良い年齢の紳士がすることではない。現にリシャールは気まずそうな表情で俯いている。
「……二度としないでください」
それだけ言ってアネットは足早にその場を後にした。リシャールが何か言いかけていたが、無視である。どんなに顔が整っていようが、爵位が高かろうが突如異性の髪を引っ張るような輩と話すことなどない。
「話したいことがある。少し付き合ってくれないか?」
午前中の授業が終わり、リシャールから声を掛けられた時アネットは即お断りしたい気分だった。
(微妙に人目があるのが面倒……。これ断ったら令嬢たちから生意気だなんだと非難される系だわ)
仕方なく頷いたアネットをリシャールが連れてきたのは、カフェテリアの個室である。アネットの機嫌はますます低下する一方だ。内容は恐らく今朝の謝罪なのだろうが、どこか人目のないところでさっさと済ませてくれれば良いのに、一緒に食事をする仲だと思われるのは迷惑でしかない。
「今朝はすまなかった。親しい間柄でもない女性の髪に勝手に触れるなど、あるまじき行為だった。詫びの品は改めて届けるが、とりあえず好きなものを頼んでくれ」
「お昼はお姉様と頂くので結構です」
きっぱり断るとリシャールは困ったように眉尻を下げている。珍しい表情に少しだけ苛立ちが収まった。
「……そうか。アネット嬢、つかぬ事を聞くがそのリボンはどこで手に入れた?」
「貰い物です。随分前の物なのでどこで手に入るかは私にも分かりません」
欲しいのなら差し上げても一向に構わないが、公爵家ならいくらでも手に入るだろう。それよりもリシャールの問いかけに何となくある予感があった。
「昔、平民の少女にあげた物によく似ているんだ」
「そうですか。昔ベニエを分けてあげた少年から貰ったものです」
答えながらもアネットは先ほどの自分の予感が正しかったことを知る。
「やっぱり、そうか……」
リシャールは目を細めて満足そうに頷いた。
「お返ししましょうか?」
「いや、いい。それは菓子の礼としてあげたものだ」
「お話は以上でしょうか。それならばお姉様が待っているので失礼いたします」
「え、いや、ちょっと待て?!」
アネットは聞こえなかった振りをしてリシャールを置いてカフェテリアを抜け出した。
(うん、やっぱり面倒くさそうな案件だった)
下手に公爵令息なんかと接点を持つべきではない。過去に一度偶然会ったことがあるからといって、深く関わる必要もないのだ。
優良物件の高位貴族に関わるなど、アネットにとって百害あって一利なし。ただでさえ成績のことで注目されているのに、リシャールと親しいなどと勘違いされれば、令嬢たちからの嫉妬でどんな嫌がらせを受けるか分からない。
アネットは淑女としての節度を保ちつつ、クロエの元へと急ぐのだった。
(今日も今日とて面倒くさいわぁ)
「アネット嬢、先日の詫びだ」
「まあ、お気遣いなく。リシャール様からの贈り物など恐れ多いですわ。―お姉様、本日の付け合わせのトマト、召し上がりました?甘くてとても美味しいですわ」
さらりと受け流せば、リシャールが呻き声を漏らすがアネットの知ったことではない。
そんなことよりも、トマトを口にすべきかどうか迷っているクロエに有益な情報を届けることのほうが大事だった。クロエが密かに苦手にしているものは酸味の強いトマトと調理していないピーマンだ。
「アネット嬢、一応受け取ってやってくれないか。気に入らなければ返品していいから」
セルジュの取り成しに仕方なく受け取り、包みを開くと艶やかで美しいチョコレートが出てきた。形に残らない物なら受け取ってもいいだろう。
「ありがとうございます、リシャール様。それでは遠慮なくいただきますわ。お姉様、お一つどうぞ」
アネットが勧めるがクロエは小さく首を横に振る。
「私は結構よ。それよりも何があったのですか?」
クロエに心配を掛けたくないからと昨日の呼び出しについて、曖昧に伝えていたがこうして目の前でお詫びの品を差し出されたことで、気になってしまったようだ。
クロエの視線がリシャール、アネット、セルジュの順番に移動する。クロエに嘘を吐きたくないが、あまり公言したいことでもない。
「俺がアネット嬢の髪を掴んでしまったんだ。それで――」
「お姉様、あくまでも事故のようなものでしたし、きちんと謝罪していただきましたわ」
反省を示すつもりか正直に打ち明けるリシャールの言葉に被せるように、アネットは慌ててフォローを入れる。クロエの雰囲気が冷ややかなものに変わったことを敏感に察したからだったが、少々遅かったようだ。
「リシャール様、アネットが謝罪を受け入れたのであれば、その事についてわたくしから申し上げることはございません。ですが、わたくしの妹に二度と関わらないでくださいませ。アネット、行きましょう」
「はい!」
淡々と感情を見せずに言い切ったクロエに、アネットは勢いよく返事する。呆然とするリシャールとセルジュを置いて、アネットはクロエに続いて王族専用の食事スペースを後にした。
人通りのない廊下に出るとクロエは静かにアネットに向き合った。思わず視線が下を向いてしまうのはクロエの心情を正しく理解しているからである。
(あう、お姉様珍しく怒っていらっしゃるわ)
「アネット、どうして言わなかったの?」
「ごめんなさい。リシャール様も悪気があったわけではないし、そんなに大したことではなかったので…」
「大したことでしょう。こんなに綺麗な髪を乱暴に扱うなんて、信じられないわ…」
頭を優しく撫でられて久しぶりの感触に心が温かくなる。
「……わたくしは貴女の姉なのよ。酷いことをされたら守ってあげたいの。頼りないかもしれないけど、今度からちゃんと教えてちょうだい」
顔を上げると悲しそうなクロエの瞳と目が合った。
良かれと思って口にしなかったことが、逆にクロエに嫌な思いをさせる結果になってしまったことをアネットは反省した。あんなに一方的な物言いはクロエにしては珍しく、それだけ自分のことを思ってくれたのだと思うと、涙が出そうなほど嬉しい。
「お姉様、心配かけてごめんなさい。それから庇ってくれて嬉しいです」
そう告げればクロエの口元は綻び、空気が緩む。よしよしと撫でられる感触にアネットはすっかりリシャールのことを忘れてしまった。
「随分と下手を打ったものだね。クロエがあんな風に怒りを露わにするのは珍しいことだよ」
何事もそつなくこなす従弟にしては珍しい失態に、セルジュが漏らすとリシャールはますます居心地が悪そうに肩を落としている。
「分かっている…。だが誤魔化すわけにもいかないだろう。あれは俺が悪い」
「そもそも何で最初からあんなに攻撃的だったんだ?アネット嬢のことは以前から伝えていただろう」
権力に媚びる人間関係に煩わしさを覚え、基本的に冷淡な対応をするのはいつものことだが、リシャールはアネットに対して特に冷ややかな目を向けていることにセルジュは気づいていた。
「……お前狙いだと思ったんだ」
遠慮のない口調が馴れ馴れし過ぎると感じたリシャールはアネットを警戒していた。
セルジュがクロエを大切にしていることは分かっていたが、その妹にも随分と気を許しているのが気にかかった。セルジュがそういう対象に思っていなくても、勘違いして王家の定めた婚約に余計な邪魔が入らないようと警戒を強めていたが、リボンをきっかけにアネットがあの時の少女だと分かったのだ。
「アネット嬢が初恋の相手だなんて、難儀なことだね。彼女はよくも悪くもクロエしか興味がない」
リシャールの弁解を聞いたセルジュが呆れたような口調で言った。
「違っ、初恋とかそんなんじゃない。ただもう一度会いたいと思っていただけで……」
ただ親切にしてもらった相手にそこまで普通は気に掛けない、そう思うがセルジュは口にしなかった。
家柄も容姿も申し分ない従弟は幼い頃から、女性から好意を向けられることが多く、純粋な好意もあったのだろうが打算や駆け引き、ドロドロとした嫉妬などが原因で女性不振の面がある。
たった一度、安い揚げ菓子を分けてもらった少女にお気に入りのリボンを渡し、街に行くたびにその姿を探していた従弟の初恋を心から応援してあげたい。
(とはいえ、クロエもあれで随分と過保護だからね。道のりは険しそうだ)
傷心の従弟を慰めながら、セルジュは自分の大切な婚約者への取り成しについて頭を悩ませていた。
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