お兄さんのほうが賢いということにしましょう


 学校も終わり、特に部活に入っているわけでもない俺は、この辺りでは一番大きな図書館に来ていた。

 中に入って勉強などができるスペースにいくと、受験シーズンということもあってか、席が埋まるほどとはいかずとも、普段より多くの人にあふれている。

 

 人の中をくぐり抜け、奥の方に進んでいくと、机に座り、何やら参考書を見つめながら唸っている小柄な姿を見つけた。

 

「よう、咲ちゃん」

「あ、お兄さん」


 近づいて声を掛けると、こちらに気づいてぱっと顔を上げ、可愛らしく微笑んで見せた。

 咲ちゃんが横を指差し、ささ、こちらに!という通りに隣に座ると、早速と言わんばかりに用件を話し始めた。


「ここにお兄さんを呼んだ理由が……これなんです」


 咲ちゃんは鞄の中ならテストの結果を取り出す。それは模試の結果で、学校順位は一位と書かれている。しかし……


「数学志望校順位、二百六十位か……」

「はい。国語は一位だったんです。社会も咲ちゃんがいないから一位で……でも数学が、ちょっとまずくって」


 うちの学校は基本一学年九十人ほどが入学する。確かに咲ちゃんは国語と社会は志望者の中でもかなりの実力をもっている上、英語は十三位、理科も十六位と悪くないが、なんといってもうちの学校の競争率は並大抵のものではない。数学の成績がネックになって落ちてしまう可能性もある。そういう結果であった。


「うん。……数学の結果から見ればあんまり良くはないよ。でも、その他はいいね。数学さえ克服できれば、それこそ安心できるくらいじゃない?」

「はい……でも、私数学あんまり得意じゃなくって、後入試までの数週間で克服できる気がしないんです」

「それで俺を呼んだってことか」

「そうです。ひまりちゃんでも良いかなって思ったんですけど、ひまりちゃん感覚派だから、数学教えるのは正直あんまり上手くないし、今回の模試で私がひまりちゃんより国語で高得点だったから、拗ねちゃって……」


 ひまりは、今まで基本学力で負けたことはないため、誰かに負けるとそれはそれは拗ねる。そして、咲ちゃんは国語に関して、ひまりに負けることはほぼ無いくらいの学力、センスをもっている。そのため、なにかのテストの後は必ず「国語で咲ちゃんに負けた!」と拗ねてしまうのだ。

 

「まあ、そういうことなら全然みるよ。中学数学だったらオッケーだ」


 その言葉を聞いて、「本当ですか!?」と、喜々とした表情を浮かべた咲ちゃんは椅子を近づけ、参考書を二人の間においた。

 ここなんですけど……と指を差す。そのときにちょこっと肩が俺に当たり、思ったより華奢なその体にちょっと驚く。髪からはひまりとは違う、ふわっと柔らかな匂いが漂っている。うーん……これはちょっと恥ずかしいかも。妹の友達に何意識してるんだ。って言われたらそれまでだが。


「咲ちゃん、咲ちゃん。ちょっと肩が……」

「え?……あっ!ごめんなさい!」


 俺の顔を見て、自分の態勢を客観的にみることができたのか、恥ずかしそうにぱっと離れてしまう。


「す、すいません……!嫌、でしたよね……」

「そんなことはないけど!」


 頬を染めつつ、ちょっと落ち込んだような声のトーンでそう言ってくる咲ちゃんに、思わず返してしまったその言葉に、咲ちゃんはびっくりした様な表情を俺に向ける。


「嫌じゃない、ってことは嬉しかったということ!?い、いや、ひまりちゃんの手前、私はお兄さんのことそういう目では見れません!」

「ちょっと落ち着こうか!」


 突然パニックになったように焦り始める咲ちゃん。ただ、俺にはこの様子が見覚えあるものに見えてならない。……そう。我が妹が錯乱したときによく似ている。

 と、いうことは、妹を落ちつけるのと同じ手法で落ち着くかもしれないということである。


 俺は焦っている咲ちゃんの顔を抱き、落ち着くように頭を撫でた。すると、咲ちゃんはだんだん落ち着いてきて、やがて「お兄……さん?」と言って、落ち着いた顔を上げる。抱いていた手を退かせ、目を見る。


「落ち着いた?」

「は、はい。びっくりしちゃって……」


 前まではこんなことなかったんですけどね……と、恥ずかしそうに頬を掻く。というか、前まではこんなことなかった、って、ほぼ間違いなくひまりのせいだろ!


「妹がすまん……」

「なんのことですか!?」


 突然謝った俺に焦りつつ、咲ちゃんは不思議そうな顔をしている。

 まあ、意地悪はこのへんで置いといて、さっき指さしていた問題の解説を始める。咲ちゃんも切り替えて真剣な表情でその話を聞いている。この様子なら、きっと成績もすぐ好転するだろう、と思った。

 なんだかんだ結局、勉強なんて基礎が簡単にできるくらいのセンスがあるやつにとっては、うまく吸収できるかどうかなのだ。


 

 ●●●


 

「今日はありがとうございました。ココアまでもらっちゃって……」

「いいっていいって。頑張ってね」

「はい!今日教えてもらったの、すごくわかりやすかったです!」


 俺達は今、図書館から帰る途中にある自販機の前で話していた。

 咲ちゃんは俺が買ったあたたかいココアの缶を頬に当て、あったかい、と嬉しそうな顔をしていた。


 咲ちゃんは俺が教えたことを次々吸収していき、終わった頃にはすっかり苦手意識も改善されたようで、笑顔で感謝してくれた。


「それにしても、あんなに吸収が良いのに、なんであんな点数だったんだ?」


 学校的には悪くはないが、志望校的にはかなり低いあの水準。きちんと努力ができる彼女からすれば、あのようなことになるのは無いのでは、と思った。


「それが、私達の学年の数学の先生がちょっと……」

「あー、なるほど。それは気の毒に」


 そう言えば思い出した。ひまりがキレながら帰ってきて、「あんの糞教師がー!」と叫んでいたことを。たしかその時も数学の教師がどうという話だった気がする。むちゃくちゃに言っていたので記憶に残っているのだ。俺が卒業してからなので、まだ赴任して一年目の先生だろう。


「私には合わないみたいで……」

「そういうこともあるよなー。ひまりも愚痴言ってたよ」


 そう言えば、ひまりちゃんらしい、と小さく笑んだ。しばらく沈黙が辺りを支配し、咲ちゃんは気を取り直したように俺に向き直る。


「お兄さん。今日は本当にありがとうございました。今まで教えてくれたどんな人よりもわかりやすかったです。」

「そんなでもないさ。俺は咲ちゃんやひまりみたいな頭の良さはしてない」

「そうですか?ひまりちゃんはまだしも、私よりは賢そうなものですけど」

「うーん……正しくはわからないな」

「じゃあ、お兄さんの方が賢いってことにしましょう」


 えへへ、とはにかむように笑う顔が自販機の光に照らされ、輝いて見える。


「嬉しかったんですよ?本当にそう深い仲でもない私なんかのために来てくれて」

「そう深くない、ねえ。俺はもう十分深い仲だと思ってるよ。うん。俺からしてみれば、咲ちゃんは大切な人の一員であることは確かだ」


 まだ知り合って数日ではあるが、咲ちゃんと過ごした時間は大切なものとなっている。勉強しているときに見せる真面目な顔や、ふとした拍子の笑みだとか、そうした表情は、両親やひまり、斗真、それに佐山と同じくらい記憶に残っていて、それだけ思考を割いている。


「会わないときだって、考える事があるくらいなんだから」

「……え?」

「他には家族や斗真、佐山くらいだな……あ、斗真と佐山っていうのは学校の友人で……」

「ああ、そういう。……なんだか、将来、女たぶらかしそうですね。お兄さんって」


 俺の言い方がまずかったのか、ほんの少し不機嫌になって前に進んでいく。それを追いかけるように歩き出した咲ちゃんを追いかけると、突然くるっと振り返り、口を開いた。


「さっきはああいいましたけど、ほんとは私だってお兄さんのこと大切に思ってますからね」


 小悪魔に悪戯が成功したような表情でこちらを見てくる咲ちゃんを、俺はただぼうっと見ていた。

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