最終話 魔の森

 雲が太陽の光を遮り、魔の森へ向かう道はどんよりと重たい空気に包まれていた。ときおり風が強く吹き、目に砂埃が入らないように、手で顔を覆いながら歩く必要があった。

「さあ、もうすぐ森に着くわね」

「シャルロッテ、僕は今でも迷っているんだ。こんなことに君を巻き込んでよかったのだろうかと」

「私とあなたは、もう運命共同体なのよ。困難は一緒に乗り越えていきましょう」

 私はそう話したものの、正直何も怖くないかと言えば嘘になる。せっかくオリバーと結婚して、パン屋もうまく軌道に乗りそうな今、魔物に襲われて命を失うなど決してあってはならないことだ。常識的に考えたら魔の森などに足を踏み入れるなんて、どうかしている。しかも、助けようとしている相手は、あの公爵夫人のモイラだ。モイラが私に言った言葉はまだ心の奥に突き刺さっている。彼女はこう言ったのだ。「平民でしかも魔法使いでもある女に近づくなんてもってのほかです。目を覚ましなさい。あなたは利用されているのよ」と。

 でも、そんな女性でも、オリバーの母親であることには間違いない。いや、母親だからこそ、息子を案じるあまり、あのようなこの上なく失礼で見当違いな言葉を述べたのだろう。

 私は母を病気で亡くしている。だから分かる。母が亡くなればどんなに寂しくなることか。

 私を幸せにすると誓ってくれたオリバーの悲しむ顔は見たくない。もしここで、治癒の実を取りに行こうとせずに、母親を見殺しにしたなら、オリバーは一生自分を責めることになるだろう。

 大丈夫。私には力になってくれる妖精たちがいる。それに、天国にいるお母さんも、きっと私を守ってくれているはず。

 そう考えた時、ふとこんなことを思った。

 もしかして、野生の勘って……。

 野生の勘って、天国にいるお母さんの声ではないのだろうか。お母さんの声が聞こえて、それを野生の勘と思い込んでいるのではないのだろうか。

 そんなことを考えていると、あっという間に私たちは魔の森の入り口へとたどり着いた。

 木の間の小道を眺めていると、なぜだか奥の闇へと吸い込まれてしまいそうな感じがする。ここだけ外界とは温度が違うのか、ひんやりとした空気が滲むように漂ってくる。

「さあ、行きましょう」

 私はそう言うと、オリバーと並んで森のほんの僅かに入った小道で立ち止まった。

 立ち止まって、じっと待つ。

 さあ、妖精さん、声をきかせて。

 そう念じていると、やがてその澄みきった声が耳に届いてきた。

「やあ、シャルロッテ」

「こんにちは、妖精さん」

「隣りにいるのは誰だい?」

「この人は私の旦那様よ」

「旦那様? ということはシャルロッテ、結婚したのかい?」

「ええ、そうよ」

「それは、おめでとう。でもその旦那様、どこかで会ったような」

「そうなの、ここで妖精さんたちに助けてもらったあの時の男の人よ」

「ああ、治癒の実を取りに来たあの人だね」

「あの時の縁で、こうして二人で暮らすことになったの」

「ふーん、で、今日は二人してどうしたんだい? 僕たちに結婚の挨拶にでもしにきたのかい?」

「うん、挨拶もあるのだけど、実はまた妖精さんたちに助けてほしいことがあるのよ」

「なんだい? 僕はシャルロッテのことは大好きだけど、結婚してしまったのなら、もう助けないかもよ」

「ええ? そうなの? もう助けてくれないの?」

「冗談だよ。僕たちでできることがあったら協力するよ。それで、どうしたいんだい?」

「また、治癒の実を取りたいの。この前のように魔物が襲ってこないように私たちを守ってくれない?」

「治癒の実か。そんな気がしたよ。でも、森の奥に入るのは止めておきな。今はかなり危険なんだ」

「どういうこと?」

「このところ、魔人ヨウサがうろついているんだ。ヨウサの力は強大で、とても僕たちではシャルロッテを守ることができないんだ」

「でも、必ず魔人ヨウサが現れるわけではないのでしょ?」

「まあ、そうだけど」

「だったら。私たちを森の奥に連れて行ってちょうだい。治癒の実がなっている場所は前に行っているので、だいたいは分かっているから」

「シャルロッテがどうしてもというのなら、仕方ないね。でも一つだけ注意しておくよ。もし、ヨウサが現れても、決して逃げては駄目だよ。逃げた時点で命が奪われてしまうから」

「じゃあ、逃げずに戦うの?」

「いや、戦えないよ。ヨウサを相手に戦うなんて不可能だから」

「じゃあ、どうすれば……」

「じっと耐えるのさ」

「じっと耐える」

「そう、ヨウサは恐怖で人を殺す魔物なんだ。なので、ヨウサから発せられる恐怖の波から逃げようとした瞬間、その人間は恐怖に耐えきれなくなり命を落としてしまうんだ。だから、ヨウサと出会っても、恐怖をじっと耐えていかなければいけない。体験したことのない恐怖が襲ってくるけど、逃げずにその場でじっとしているんだ。そうすれば、ヨウサは何もせずに許してくれるかもしれない」

「かもしれない?」

「そう、許してくれるかもしれないし、許してくれないかもしれない。それはヨウサ次第だよ。どうだい? それでも魔の森の奥に入っていくのかい?」

 もうここまで来て引き返すわけにもいかない。

 私はきっぱりと答えた。

「行くわ。なので妖精さん、協力をお願い」

「よし、わかったよ。大好きなシャルロッテの願いだ。できる限りのことはするよ」

 妖精の案内を聞きながら私たちは一歩一歩前へと進んでいく。

 妖精から聞かされた魔人ヨウサのことは、オリバーにも伝えた。もし現れても決して逃げずにじっとしておかなければいけないこと、逃げた瞬間に命が失われてしまうこと、そしてヨウサの恐怖は今までに体験したことのないような強大なものだということを。オリバーはそんな私の説明を真剣な顔で聞いていた。

 鬱蒼と茂る木立の間を抜けていくと、まだなんとなくだが記憶に残っている場所へとたどり着いた。広がった草地の中に一本の巨木がそびえ立っている。

「ここは」

 オリバーもこの場に見覚えがあるのだろう。

「あなたが倒れていた場所ね。そしてこの木に治癒の実がなっていたのだわ」

「あっ!」

 オリバーが木の枝に一つだけぶら下がっている実を指さした。

「あれは、治癒の実だ」

「まちがいないわ。おそらく前に取った実と同じ場所だわ」

 オリバーは実の下に行き手をのばすが、背伸びしても飛び上がっても実に手が触れることはない。

「シャルロッテ、お願いだ。また肩車で取ってくれないか」

「えっ、また?」

 嫌なふりをしたが、オリバーと結婚した今は、前のときとは状況が全く違う。前は、顔から火が出るように恥ずかしかった肩車だが、今ではどうってことなかった。

「わかったわ。じゃあお願い」

 そう言うと私は自分の足を大きく開いた。その中にオリバーの頭が入る。オリバーが私を担ぎ、私は彼の肩の上に座った。

「届くかい?」

 下からオリバーの声がする。

「うーん、もう少し」

 指が届きそうで届かない。前のときのように身体を傾けて、できるだけ手を伸ばしてみる。

「もう少し、背伸びできない?」

「もうこれが限界だよ」

「では仕方ないわ。倒れるのを覚悟で取りに行くわよ」

 私は自分の体に反動を付け、治癒の実に向かって飛びつくように手を伸ばした。

「わっ!」

 その声とともに、私たち二人は草地へと倒れ込んだ。

「シャルロッテ、大丈夫かい?」

「うん、大丈夫」

 私はオリバーに引っ張られて起き上がる。

「で、どうだった? 治癒の実は取れたかい?」

 その言葉で、握っていた自分の右手をオリバーに差し出し、彼の目の前で手を開いてみせた。

 私の右手のひらの上には、栗を一回り大きくしたような治癒の実がしっかりと乗せられていたのだった。

「よかった。これで母さんが助かるかもしれないよ」

「ええ。魔物にも襲われずに済んだし、早く魔の森から出ていきましょう」

 そう話している時だった。

 妖精の慌てた声が耳に飛び込んできた。

「シャルロッテ、駄目だ。来てしまったよ!」

「来てしまった?」

「ヨウサだ! 魔人ヨウサがここに向かってきている!」

 妖精の声が終わるか終わらないうちに、目の前に一体の魔物が姿を見せた。熊が仁王立ちしているような姿をしたその魔物は、体全体を黒い炎に覆われ、めらめらと燃えていた。目は鋭く釣り上がり、そこだけは黄色い光を放っていた。

「これは!」

 オリバーが愕然としながら魔物に目を向ける。

「魔人ヨウサよ。逃げましょう!」

 私は反射的にそう言って逃げようとした。

 するとすぐさま妖精の声が聞こえてきた。

「シャルロッテ、逃げては駄目だ。逃げてもすぐに殺されるだけだ。ここでじっとヨウサがいなくなるのを待つしかないんだ」

「じっとしているったって……」

 私の身体の中に得体のしれない恐怖が雪崩のように流れ込んできた。ここから逃げ出し、自分の存在を消してしまいたいという思考が頭の中で次々と自動的に浮かんできた。

 どうせ私には親も兄弟もいない。もともと一人ぼっちなんだし、私一人の存在が消えてしまってもどうってことない……。そんな思いが次々とあふれ出てきた。

「こんなの……、耐えられない……」

「シャルロッテ、負けたら駄目だ。前を見るんだ。

 妖精の言葉通り、つぶっていた目を開き、前を見た。

 するとそこには、魔人ヨウサの前で立ちはだかるように立っているオリバーがいた。オリバーは私をヨウサから隠すように手を広げ、両足で大地をしっかりと踏みつけて立っている。

 どうして?

 オリバーだって、この恐怖を味わっているはずなのに、彼はどうしてこんな平気な様子で立ち続けていられるの?

 そう思っている時、妖精の声が頭に飛び込んできた。

「シャルロッテ、君の夫はすごい人だよ。君に、夫の頭の中の声を聞かせてあげるよ」

「オリバーの頭の中の声を?」

「ああ、よく耳をすませて聞くんだよ」

 私は恐怖で頭がどうにかなりそうな中、じっと耳を澄ませてみた。

 すると遠くから何かが聞こえてくる。

(……まも……た)

 何?

「オリバーの心の声だ。よく聞いてみて」

 割れんばかりの恐怖が押し寄せ流れくる中を、オリバーのつぶやくような言葉が頭にこだました。

 彼は念仏のようにずっと同じ言葉を繰り返していた。

(まもりたい、まもりたい、シャルロッテをまもりたい、まもりたい、シャルロッテをまもりたい、まもりたい、まもりたい、シャルロッテをまもりたい……)

 え?

 オリバーは私を守ろうとしているの?

 この恐怖を、そんなことを力にして耐えようとしているの?

 じっと立っているオリバーの手足が小刻みに震えてきている。そして、私の手足も情けないくらいに震えている。

 私はそのまま前に進み、オリバーの背中から手を回し彼に抱きついた。

 二人とも身体がぶるぶると震えている。けれど、こうして二人がピッタリとひっついているとその震えも小さくなっていくような気がした。

(まもりたい、まもりたい、シャルロッテをまもりたい、まもりたい、シャルロッテをまもりたい、まもりたい、まもりたい、シャルロッテをまもりたい……)

 言葉が繰り返し耳に届いている中、私も自分の心にある言葉をつぶやき始めた。

(負けない、負けない、負けない、私はここで消えるわけにはいかない。負けない、負けない、負けない……)

 じっと二人でヨウサの恐怖に耐え続けた。恐ろしい考えが自動的に湧き上がってくるたびに、私は心の中で負けないとつぶやき続け、意識を死へと向けないようにした。

 どれくらい経ったのだろうか、一時間ほどは耐え続けていたように思えるが、実際はそれ程経過していなかったのかもしれない。

 気がつくと押しつぶされそうになっていた心が、軽くなっていくのが分った。

 私はオリバーの背中にしっかりと腕を回したまま彼に声をかけた。

「恐怖が、消えている」

 私の声を聞いたオリバーが答える。

「うん、たった今、魔人ヨウサの姿が一瞬にして消えた」

「そうなの?」

 私はオリバーの背中に引っ付けていた自分の顔をヨウサのいた方へ恐る恐る向けてみた。

 いない。

 確かにオリバーの言葉通り、ヨウサの姿がその場から消えていた。

「シャルロッテ、やったよ」

 妖精の明るい声が届いた。

「ヨウサがシャルロッテたちを許してくれたよ」

「私たち、助かったのね」

「そうだよ。さあ、今のうちにここから離れよう」

 私とオリバーは、妖精の誘導に従い、来た道を急いで戻っていった。やがて、薄暗い森の先に明るい光が入り込んでいる口が見えた。間違いなかった。私たちは、魔の森の出口にたどり着いたのだった。


  ※ ※ ※


 魔の森から取ってきた治癒の実を、無事にウィンリー家へ届けて一ヶ月が過ぎた。

 治癒の実を食べたモイラ公爵夫人は、みるみる元気を取り戻していったらしい。らしいというのは、私たちは直接会ってその元気な姿を確かめたわけではないからだ。時々パン屋に遊びに来る妹のサラからその事実を聞かされていたのだ。

 勘当中のオリバーは屋敷に帰ることもないし、私にしたって過去にあのような失礼なことを言ってきたモイラに正直会いたいとは思わなかった。だから、モイラの様子は、サラから伝え聞いたことしか知る由もなかった。

 私とオリバーは、また元のパンを売る生活に戻り、日々忙しく働きながらも、楽しく充実した日々を送っていた。

 そんなある日、小さな事件と呼べることが起こった。

 日中ののんびりとした時間帯に、パン屋のドアを開け、一人の人物が入ってきたのだ。

 その人物を、私が見間違えるはずもない。入ってきた人物というのは、オリバーの母親であるモイラだったのである。

 モイラは私の姿をみつけると、足早に近づいてきた。

 なんだろう。また何か失礼なことでも言いに来たのだろうか。

 そう思った時だった。

 私の目の前にまで来たモイラが突然膝を付き、その場で屈み始めたのだ。

 何が起こったのか私にはとっさに理解できなかった。

 私の足元で小さくかがんだモイラはこう言った。

「シャルロッテさん、あなたにはなんとお礼をいっていいのか言葉が見つかりません。あなたに対し、私はあんな失礼なことを言ってしまいました。そんな私を、あなたは命をかけて助けてくださった……。いったい私はどうしたらいいのか。ほんとうにごめんなさい。ほんとうにごめんなさい……」

 モイラは床に頭を擦り付けるようにして謝り続けている。

 貴族が平民にひざまずき、こうして頭を下げるなんて、常識では考えられないことだ。

 そんな姿を見せられると、私のモイラに対する恨みなど一瞬で消え去ってしまった。

 私はすぐに小さくかがんでいるモイラの横に寄り添った。

「どうかお母様、顔を上げてください。そして、頭を下げずにどうぞ立ち上がってください」

 一時は寝たきりになったためであろう、細くなってしまったモイラの腕を引き上げ、何とかその場から立ち上がらせる。

 モイラは下を向きそっとこんなことを言った。

「私を、お母様と言ってくれるんだね」

「失礼でしたでしょうか?」

「失礼だなんて……、こんなに嬉しいことはありません」

「では、お母様、私から一つお願いがあるのですが……」

「なんでしょう。こんな私でできることなら、どんなことでも言ってください」

 いつの間にか作業場から出てきたオリバーが、私たちの様子を部屋の隅からじっと見つめていた。

「お母様、ご存知かもわかりませんが、私とオリバーは入籍しています。近々、私たちは結婚式をあげようと計画しています。もしお母様さえよろしければ、その結婚式に出席していただけませんか?」

「……」

「やはり、出席は難しいですか?」

「とんでもない」

 そう言うとモイラは涙を流し始めた。

「私が出席してもいいのかい、こんな私を招待してくれるのかい、ありがとう、ありがとう」

 モイラは鼻声でそう返事を続けた。

 オリバーが母親の側に来て、そっとその背中に手をあてた。

「お母さん、どうだい? 僕の妻はとても素敵な女性だろ」

「ええ。あなたの目に狂いはなかったわ。逆に私は人を見る目を失ってしまっていた。でも、ようやく私にも見えるようになったわ。ここにいるシャルロッテさんがどんなに素晴らしい娘さんか、ようやく、ちゃんと見えるようになりました」


 雲から姿を見せた太陽の光が、窓を通過し、私たち三人を照らし始めた。

 その光は植物を成長させ、動物を元気にしてくれる。太陽の光は、すべての生き物に力を与えてくれる天からの贈り物だ。

「お母さん、オリバーも素敵だけど、オリバーのお母様もなかなか素敵な人だわ」

 私は太陽の光の向こう側にある、天国にいる本当のお母さんに向かってそう報告したのだった。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

公爵家嫡男とパン屋さんをはじめました 銀野きりん @shimoyamada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ