第36話「魔女とミチミチに詰まった筋肉」

 まるで釜の底が抜けたかのように、地面の一部が完全に崩壊し、沈下してしまった練兵場。

 その上空から、まだ無事な地面にいくつかの虹色のボールがゆっくりと降りてくる。


「『泡の牢獄サボンカルテル』解除、と……」


 マリスが魔術を解くと、ぱりんぱりんとボールが割れ、中からルシオラたちが転がり出てきた。


「もーマリスちゃんそういうことするならちゃんと言ってくださいよー」


「急に天井が崩れてきたからね。言ってる暇なかったんだよ。こうでもしないとみんな死んじゃってたでしょ」


「はい。おかげで助かりました。胸のむかむかはまだ消えていませんが……」


 ルシオラ、ノーラ、トミーの三人の無事を確認し、ほっと息をつく。シィラの無事は確認しない。どうせ怪我などしていないだろう。


「にしてもびっくりっすよあのシャボン玉! 急に閉じ込められたから驚いて割ろうとしちゃったんすけど、ヒビしか入んなくて! 壊そうと思って壊れなかったの初めてです!」


 解除してしまったので確認できないが、罅を入れたのか。

 あの魔術は『泡の牢獄』というだけあって、本来は牢獄として使うためのものだ。深層の突然変異体相手では短時間しかもたないが、そうでもなければ魔力の続く限り半永久的に捕らえ続けることも出来る完成度の高い魔術である。外部からの干渉もシャットアウトするため、今のようにごく狭い簡易結界としても使えるので重宝しているが、これまで破壊されたことはなかった。

 たまたま人間型をしているというだけで、実はシィラは深層で生まれた魔物の一種なのでは、という疑惑が浮かぶ。


「ところでディプラノス伯爵は? 伯爵もこの魔術で?」


 ルシオラが胸をさすりながら問う。


「いや、さすがにそこまでやる暇はなかったよ。天井が崩れたの、伯爵の頭の上からだったしね」


 暇があっても助けたかどうかはわからない。伯爵を始末する理由はすでにないが、助ける理由もまたないからだ。理由もなく助けてやるほど、辺境の人間と魔女の関係はウェットなものではない。


「それより、まだ気分悪いの治らないの? もしかして、今頃毒が回ってきたとか?」


「治りませんね。……毒? もしかして、ディナーの毒ですか? それなら大丈夫です。わたくし、毒で気分が悪くなることはありませんから」


「いや毒って普通気分が悪くなるとかってレベルじゃ済まないと思うんだけど」


 やはりルシオラは毒が効かない体質とかなのだろうか。しかし人間という生物的な縛りというかルールがある以上、同じ人間に効くはずの毒が効かないというのは考えにくい。シィラのように明らかに人間を逸脱した身体能力があるというのなら話は別だが、ルシオラは肉体的には普通の人間に見える。

 あるいは魔術や法術が使えれば毒を予防したり解毒したりといったことは可能だ。しかし法術適正がない人間であるルシオラでは難しいはずである。

 あと考えられるすれば、荒唐無稽な話だが、法術でも魔術でもない全く別の何らかの特殊技能によるもの、だろうか。

『領域外』に魔素が満ち、『人類領域』に法素が満ちているという常識は、魔女がその蓄積された技術によって解き明かしたものである。

 魔女の技術が完璧なものだとはマリスも思っていない。この世にはまだ、魔女でさえ認識していない第三のエネルギーが存在している可能性もある。

 そうした第三のエネルギーを用いた特殊技能をルシオラが持っているとすれば、毒程度いくら無効化しても驚くには値しない。


 しかしだとすると、人間に効くはずの毒素さえ無効化するルシオラの気分を害しているのは、一体何だというのか。


「──お、お嬢さんがた! 見てくだせえ! 瓦礫が……!」


 沈下した窪みの縁から下を覗いていたトミーが叫ぶ。

 マリスたちが駆け寄ると、窪みの底に堆積していた瓦礫が震えだし、ガラガラと崩れ始めていた。


「うぷっ……。エレエレエレエレ……」


 気分の悪さがマックスになったらしいルシオラが窪みの中にキラキラしたものを戻していた。ノーラが甲斐甲斐しく背中をさすっている。お嬢様が見せていい姿じゃない。


「うわ! 何あれ!」


 崩れた瓦礫の中から何かが姿を現した。

 人型をしているが、通常の人間のサイズではない。崩れた瓦礫を足場にし、練兵場の地面に手をかけている。

 それだけで、身長が建物一階分を超えていることは明らかだ。


「離れるんだ!」


 窪みに最も近づいていたのは吐いていたルシオラだ。ノーラがそのルシオラの首根っこをひっつかみ、引きずりながら後ずさっていく。お嬢様が見せていい姿じゃない。


 窪みから這い上がり、その全貌が明らかになった人型は、一言で言うと毛のないゴリラだった。つい先日始末した猩猩の突然変異体から全ての体毛を取り除き、眼球をくり抜けばこのような姿になるだろうか。

 さらにこの異形は、嗅いだことのないほど強烈な死臭をあたりにまき散らしていた。

 生命力に満ちているように見えるが、その気配は完全にアンデッド──生物の死体が魔素の影響を受けて擬似的な生命を持つにいたった魔物──のそれだった。

 違うとすれば、あたりに魔素の匂いは全くしないが法素の匂いは非常に濃い、ということである。


「……暴走した法術によって誕生したアンデッド、ってこと……? 暴走した法術……濃縮された法素……状況からすると、あれが踊る伯爵の成れの果て、ってところかな」


「──オオオ! コノ世カラ消シ去ッテヤルゾ! 魔女メェ!」


 ミチミチに詰まった筋肉の塊ながら、なんとなく新品らしい初々しさがある右腕が振り上げられ、マリスのいるあたりを目掛けて叩きつけられた。



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