第31話 白夜の晩餐
死竜に食べられたリアは黒い海を漂った。ぬるい風に吹かれて流されるままに辿り着いた場所は、一枚の畳の上だった。
その畳は少し傷んでおり硬くなっていた。
畳の外側は墨汁で染め上げられたように濃厚な黒い空間だった。背後には一台の映写機があって、漆黒の壁に純白の映像が投射された。
画面にモノクロで映っているのは、死竜の最後の素材となったソバだった。
「リアさん」
ノイズ混じりの音声と無表情の顔が荒涼とした雰囲気を感じる。リアは映像に向かって話し掛けた。
「どうしてまだ生きているの?」
そう聞かれることがわかっていたように、映像の中のソバは言った。
「オレ、リアさんに伝えてなかったことがあるんです」
ソバが抱いているであろう恨みつらみの怨嗟があるのは想像がついた。今に彼はリアを罵倒のナイフで滅多刺しにする。リアはそう思っていた。
「オレ、リアさんが好きです」
落雷のような衝撃が頭を殴った。
リアは映像にいるソバが何を言ったのか、理解できなかったが、それが綺麗な表情に出ることはない。リアは淡々と口を開く。
「殺したのに?」
「殺されてもいいぐらいに好きです」
嘘を見抜く力がなくても、ソバが本心をそのまま吐き出しているのは見てわかった。わかったが、わからなかった。いくら馬鹿でも殺されればわかるはずだ。
ソバが復讐の炎を持って死竜を乗っ取ろうとしたなら、彼は大きなる深淵に呑み込まれていたはずだ。しかし、そうはならなかった。彼にリアへの怨恨は一切なかった。
「君って馬鹿だね」
リアは一度俯いて顔を上げた。
「そんなことで私は君を好きになったりしない。私を好きでいるのは自由だけど、私の幸せは死竜であって君じゃない。早く消えて」
どれだけリアに拒絶されても画面に映るソバは平然としている。
「まだできない」
外界では今も降り続ける星の涙によって、人も都市も文明も等しく水没し始めていた。無慈悲に思える光景だったが、ゆっくりと眠りにつくような安息感があった。
「死竜の力で人に死は無くなった。でもそれと同時に生きる意志も失う。血の雨を被った人が起き上がらないのは眠っているからですよね。キリエたちには起きる理由が無い」
「そうだよ。だから星の涙で溺死もしない。彼女たちは今頃、幸せな夢の中で生きてる。君という犠牲があって、死竜の恩恵を受けられているんだよ。もうずっと起きなくていいという恩恵をね」
眠りから覚めることが辛い。そう思ったことはソバ自身、何度も味わった。特にあの事件があってからは永遠に目を閉じていたかった。ソバにとって現実は、ずっと背中をナイフで突きつけられているような恐怖と不安の結石だ。当然のように逃げ続けた。
「オレもできるなら毛布にくるまっていたいです」
「安心して。私がそうさせてあげる」
「でも——」
ソバは重く朗らかに澱んだ声色で言った。
「リアさんの顔を見られるならずっと眠らなくても良いなって思ったんです」
リアの澄んだ黄金の瞳が真っ直ぐ映像を見据えた。
そして、ぷつりとテレビの電源が切れるように映写機の映像が途切れた。その瞬間にリアの意識も外界へと戻る。目を瞑ったまま起きたように意識の目が覚めた。左半身は死竜(ソバ)に食われており、まだ体は再生してなかった。
死竜は右の後ろ足の骨が砕けていた。
よろよろと少し動いた後、近くにいたゾンビを引力の力で引き寄せて、翼の骨に肉付けした。
腐肉の翼を大きくはためかせる。風が巻き起こり、地面を蹴る。白夜に向かって骸の巨体が宙に飛び立った。
ぐんぐんと槍のように鋭く空に昇る。星の涙が降る天空を駆け抜けた。
リアは茫然と白夜を征く死竜を仰向けになって冷徹に見つめた。
負傷で動けないリアの下へ一つの足音が近付いた。
横目をやると、ダラダラと肩から血を垂らす冴島がおぼつかない足取りで向かってきていた。
「しぶといね」
リアがそう言うと、冴島は口角を吊り上げた。
「ああ……おかげで散々な目にあったよ」
何か憑き物が取れたような朗らかな表情だ。
「だが、まだ私にできることがあったからな」
冴島は倒れるリアのそばまで寄ると、腰を落として血で染まった鮮やかな赤い手をリアの頭に載せた。
「白夜教のリーダー、その当事者の一人としてケジメをつける」
死竜が完成するまでは全て順調だった。それなのに小さな綻びが、途轍もない埒外を起こしていた。
リアの目がわずかに開く。
「そんなことをしても意味はないよ」
「どうだかな。その状態では払いのけることもできない。今回はいつもみたいに澄ましてられないだろ」
これは冴島の持つ魔女の血の力。記憶操作の儀式だ。
「私への復讐?」
「言っただろ。私も加担した一人だ。結果として私たちの理想とする世界とは違うものになってしまった。だがこの景色に至るまで多くの犠牲を皆に強いた。その責任がある。少しでもそれを果たさないとな。それに、私には復讐する権利も資格もないよ。ただ、今できる最高のイタズラをしてやる。皆をこんな目に遭わせたんだ。せめて、それぐらいは受けないとフェアじゃないだろ」
冴島はリアの記憶操作を行う。彼女の膨大な記憶をパズルのように動かし、小さな捏造をする。植え込まれる記憶はソバと楽しそうに過ごすものばかりだ。
「……こんなもの」
大したことのない改ざんのはずが、次第にリアは鈍い頭痛を感じた。鼻の奥から鉄の匂いがして、脳はシェイクされたように気持ちの悪い酔いにさらされた。
「人の脳はハードディスクみたいに容量に限界があってな。パンクすると勝手に記憶を消していくんだ。面白いだろ」
リアの意識は混濁してきた。冴島の捏造と自身の本当の記憶、その境目が溶け合いソバとの思い出が脳の髄まで駆け巡る。
鼻血が流れて一瞬、濁流から抜け出れたリアは小さく口を開けた。
「ゾンビ」
近くにいるゾンビを呼び冴島に襲わせた。一体のゾンビが冴島の肩を背後から噛み付く。それでも冴島は記憶操作をやめない。それからもう一体、反対の肩を噛み付き覆いかぶさろうとする。
しかし、冴島の手は離れない。どくどくと注ぎ込まれる情報に脳が悲鳴を上げていた。
「いい加減、離れて」
冴島は意地の悪い笑みを浮かべた。
「……一度食らいついたら死んでも離すなと、教えられていてな」
ゾンビが冴島の肉を引きちぎって食べられるも、事切れる寸前まで冴島の手は離れなかった。
冴島の命が尽きた時、すでにリアの脳はもうぐちゃぐちゃになっていた。ぼんやりと空を眺めていると、頭の中身はどんどんと洗濯されているみたいになる。
しかし、大事なものを奪われたような喪失感が胸にあった。
大切な記憶を掘っても絡まった糸屑のような取り留めのないものばかりで、胸にぽっかりと穴が空いた寂寞さにリアは片目から音もなく涙を流した。瞳を縁取る哀憐の影に気付いたのは、頬を伝って出来たわだちから感じる清涼さと、雫となって顔から落ちるこそばゆさだった。
○
ソバは死竜を操って星の涙を避けながら大気圏を目指した。
このままでは多過ぎる星の涙で地球の大陸がなくなり、この星もリアも沈んでしまう。星の涙が内包するエネルギーは莫大だ。放っておけば、また宇宙から星の涙が引き寄せられる。
ソバはそれを阻止するために、地球にある星の涙のエネルギーを逃そうとしていた。
リアの言うハッピーエンドがどういったことを指すのかはわからない。ただ死竜と共にいることだけは確かだと思った。それもソバが消えた純然の死竜とだ。
きっとそれがリアにとっての幸せで、ソバがいる限りそれは叶わない。
ソバはリアが好きだが彼女の幸せが好きなわけではなった。
ただリアの顔がもたらす魅了をひたすらに享受したい。そのためならリアの幸福すら蔑ろにするのが彼だった。ソバは出会った時からリアのゾンビになっていたのだ。
大気圏に突入した死竜は血が滴る背と尾から細い氷柱を無数に伸ばした。
沈まぬ太陽の光が透き通って氷柱が鮮やかに煌めく。氷柱の根は『死』の果実が実った木まで伸びていき、千切れた赤紫色の茎と接合した。『死』の果実が実った木の根は血の雨を被った人間と繋がったままだ。彼らはまだ土壌の役目を負っており、もう星の涙で出来た泉に街と共に沈んでいた。
『死』の果実を実らせた木と氷柱が一体化した。そこから木の根は氷柱を伝って死竜のいる場所まで伸びた。死竜と木の根がまた繋がる。氷柱と果実の木、眠る人間の根が互いに握手をするように繋がり絡まっていく。氷柱を軸に木の根は幾重に巻き重なって、巨大な大樹となった。
大樹の中心にいる死竜の肉体から凄まじい数の枝が生えている。枝先の結晶化した葉は、惚れたあの魔女と同じ、見るものを奈落に抱き落とす愛おしい黄金の色だった。
星の涙のエネルギーが眠る人間たちを通して大樹に吸われていく。大樹の幹から目が痛くなるような白金の枝葉が伸びる。葉はすべて結晶化しており、エネルギーの許容量を超えた葉から飴のように静謐に割れていった。煌めきながら砕け落ちる白金の葉は粉雪のように星の涙がある大地へ散っていく。白夜に浮かぶ太陽おん光を受けた白金はソバを虜にした魔女に負けない鮮烈な美しさを放っていた。
白んだ深淵の奥底でふと、ソバは死のうとした日のことを思い出した。
八月のよく晴れた日で蝉がうるさかった。ソバのヘマで無用な犠牲となった女子高生の親は、ソバの両親が貢ぐお金で新しい車を買っていた。それを両親に言ったら、二人は悲しそうな、呆れたような顔をして「子どもの命はあんなモノでは釣り合わない。気にしなくていい」と言った。ソバは二人を苦しめていると思って泣きそうになったけど、ぐっと堪えた。
次に相手の家を見たら大きな毛並みの良い犬を三頭も買っていて、ソバは流石に頭がどうにかなりそうだった。相手の両親に「これ以上は許してください」と頭を下げに行ったら、「お前に奪われた分をこっちは奪っているだけだ」と相手の両親は臆面もなく言った。
それを言われた日に、どうしても死ななくてはいけない気がして、雨が降る廃墟のビルから飛び降りようと思ったけど、できなかった。死ぬのが怖かった。明らかに痛そうだった。一歩も動かない足が憎らしかった。死のうとする理由、生きなくていい理由をずっと頭でぐるぐると回していると、スマホから通知音が鳴った。アプリからの通知を見たソバは屋上から引き返した。ソバが死ぬ理由がその夜には消えてなくなった。
何故なら連載を追っていた漫画が更新したからだった。
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