第26話 挙式
白んだ藍の空。
夜の太陽を背に死竜は産声をあげた。吐き気を催すような腐肉の皮を落とす。剥き出しの白い骨格が太陽に照らされた。
キリエが死竜を見上げていると、背後から足音が響いた。
「君も生き残ったんだね」
背中から声を掛けられたキリエは素早く振り返る。
ビルの谷間の隙間に白い光が射して、背後にいた人影がはっきりと見えた。
長いアッシュグレーの髪色と虎のような黄金の瞳。家族同然のソバを死竜の材料にした黒の魔女リアだった。
寺田は崇拝する彼女の名前を呼び、瞳を溢れ出る涙で輝かせた。
マグマのような怒りが腹の底から噴き上がってきた。キリエはすぐさま拳銃をリアに向けた。
「黒の魔女」
まずは肩を狙って撃つ。それからあの綺麗な顔面を右からぶん殴って、倒れた上に跨る。拳銃のグリップで頭を叩きつける。六回くらい叩いたら太ももを撃ち抜いて、死竜のことを洗いざらい吐いてもらったら、うざったらしいあの目をくり抜いてやる。
「怖い顔」
余裕の笑みを浮かべるリアにキリエは発砲した。撃ち抜かれた肩から血が吹き出す。
キッと睨むキリエは棘のある冷たい声を出した。
「のこのこ出て来てくれて助かったわ」
撃たれたリアを見た寺田は激昂した。
「貴様!」
キリエに体当たりしようとした寺田だったが、キリエは軽やかに躱して、寺田の背中を蹴り飛ばした。ドサッと無様に倒れる。
肩を撃たれ、キリエの怒気に当てられてもリアの笑みは崩れない。小さな子どもに向けるような柔らかい表情が、さらにキリエの神経を逆撫でした。
「あんたが死竜を操ってるんでしょ。今すぐあれをやめさせなさい」
全ての元凶が目の前にいる。
いざとなれば脳みそを吹き飛ばすことも厭わない。キリエは引き金に指を掛けて長谷川の仇であるリアに照準を合わせる。
しかし、いつの間にかリアの肩の傷口が塞がっていた。
「なんで……」
リアの血の力は人をゾンビに変える力のはず。魔女の血に不死身の力はないし、そういった能力のものは存在しない。
「私に死はないんだよ」
その言葉でキリエは合点がいった。
この女はすでに死を食われている。
「じゃあいくらでも殺せるってわけね」
キリエはマガジンの弾が尽きるまでリアを撃った。彼女のしなやかな体にいくつも穴が空いて、絶命して当然の致命傷を受けている。
その光景を寺田は目に焼き付ける。狂気と恍惚と崇拝が混じった、歪んだ笑い声が銃声の合間に響いた。
「素晴らしい、素晴らしい」
倒れたリアは起き上がる。血に染まった彼女は風に吹かれたかのような顔で、キリエを見た。
「今は私より死竜に集中した方がいいんじゃない? せっかく特等席まで来たんだから」
「いいからソバを元に戻す方法を教えろ」
憤りに燃えるキリエを面白がるようにリアは薄く笑った。
「さあ。私はわからない」
キリエの脳内は朝の海のように静かだった。いつも煩わしい掃除機の音が響かない。
「……嘘だ。知っているはずだ。死竜を創った張本人でしょ」
「残念だけど知らない。彼らは死竜のための贄だからね」
「嘘だ」
キリエの声がわずかに震えた。
「あなたは一度食べた料理を元の形で胃から戻せる?」
「嘘だ!」
リアは何一つ嘘を吐いていなかった。鳴ってほしい嘘の警笛が微塵も鳴らない。
「嘘かどうかはあなたが一番よくわってるんじゃない?」
だらりと力が抜けたように銃を下ろした。
憤怒に歪む顔が俯いた。焼き殺しそうな勢いの殺気はみるみる失せていく。
キリエの背に白夜の陽光が優しく射した。慈悲のような温もりに当てられながらぽつりと溢した。
「どうしてこんなことをするの?」
純然たる疑念。それを殺しても死なない魔女に問う。
「好きな人やモノに全てを捧げたくなるのは自然なことでしょ?」
「何よそれ……そんなことで人を殺していい理由になるわけないじゃない」
リアは透き通るような微笑みをキリエに向けた。
「私にとって都合の良いことは、他人とっては都合の悪いことなんだよ。納得できないのはわかるけど、あなたたちも同じことをしてきたんじゃないの?」
無駄に丁寧なその言葉にキリエは思わず笑ってしまった。笑うしかないといった壊れかけの人形のような笑い方だった。
「人を殺すことが? 馬鹿言わないでよ。この世に死んでいい人間なんて一人もいない」
「ふ——ん」
羽毛のように柔らかい声音を出して、リアは視線を魔女の塔に移す。頂上にいる死竜の身体が淡く発光していた。
「キリエちゃんはアリとキリギリス、どっちが好き?」
身も蓋もないことをリアは訊いてきた。キリエの頭は一瞬で真っ白になって、口を開けたままマヌケに固まった。リアは死竜を静かにじっと見つめる。
「私はどっちも好き」
氷のように硬直するキリエにリアは手解きをするように語りかけた。
「キリギリスは夏を謳歌して、アリは冬に備えて働く。愚かなキリギリスと賢明なアリ。でも食べ物を分けないアリはとても卑しくて狭量。きっと遊んでばかりのキリギリスに食べ物をあげるのが嫌だったんだろうね。都合の良いように使われてるように感じるから。どっちも人間をよく表している。キリギリスはアリに歌を聴かせ、アリは食べ物を分けてあげる。そうやって助け合えば良いのに助け合わない。そこがとても好き」
キリエは俯いていた顔を上げた。
呆然とする彼女に、リアは口から滑らかに言葉を紡いだ。
「少し前に友達が会社を辞めたんだ。まだ入社して五年も経ってないんだけど、辞めた夜、他の友達も呼んで一緒にお酒を飲んだ。手首を切るぐらい色々辛いことがあったらしいけど、会話の半分以上は上司や同僚の悪口と憂さ晴らしだった。少しでも負担が減ればと思って聞いてたけど、その娘は今までで一番、嬉しそうに喋ってたし、他の娘たちは彼女が吐く悪態を何度も欲しがった」
独白ともつかない脈絡のない話に、呆気にとられるキリエは消え入りそうな声で呟く。
「さっきから、何の話をしてるの?」
「どうしようもないほど可愛い話」
すると、淡麗な笑みを浮かべるリアの背後から不気味な人影が見えた。ざっと数十はいるその影の正体はリアの手によって無慈悲に変えられた哀れなゾンビたちだ。
「この世の美しさは残酷の中にある。理不尽のコートが着れない人にはぬくもりをあげないとね」
「……意味、わかんない」
気づけばゾンビは四方からぞろぞろと行進して魔女の塔へ集まってきている。
キリエや寺田を無視して魔女の塔へと群がっていった。一体何が起こっているのか判然としないキリエだったが、このゾンビたちはリアの命令で動いているのは明らかだ。
ゾンビの数はどんどん膨れ上がってくる。前にいたゾンビを乗り越え、その後ろがさらに乗り越える。そうして塔の頂上に向かってゾンビがゾンビを伝って這い上がり、累積していく。
数百体にのぼる壮大な屍の群勢によって、死竜へ渡れる山のような坂道が構築された。
「それじゃ、私は行くから」
リアは淑やかに歩み始める。
茫然自失となるキリエはただただ目の前の現実を瞳に映した。一体、こんな自分に何ができるのだろう。誰よりも早くリアの存在や、ソバに迫る危険を察知したのに、結果何もできなかった。腸が煮え繰り返る。キリエのやり場のない怒りがさらに怒りを増幅させて、やがて潮が引くように諦念が胸に押し寄せてきた。
夜空の雲間から射す太陽がリアを祝福するように照らした。築かれた屍の上を血塗られた魔女が歩く光景は神聖的な狂気を孕んでいて、寺田は胸が張り裂けそうなほど感極まった。
今、自分は奇跡を見ている。
爛々と瞳を輝かせて、寺田は仰ぎ見る。積み重なった醜悪なゾンビの上を悠々と歩く姿を後世に残せないことが歯痒かった。世界が待ち侘びた奇跡を実現させているリアの背中は、残酷に彩られた美しさを放っていた。その時に、魔女の塔の放送機から壮麗なクラシック音楽『パッヘルベル・カノン』が流れた。
リアの指示で舞台を鮮やかに飾るためにユリノが放送室で流したのだ。
ゾンビの坂道を森の清流を渡るかのように歩き始めて真ん中を過ぎた。
その途端に、二台の戦闘機が空を切って飛んだ。魔女の塔の上空をぐるぐると旋回する。そして二台の戦闘機が死竜を狙ってミサイルを発射した。
死竜が立つ塔の頂上にミサイルが直撃する。展望室の窓ガラスが弾け飛び、硝煙が立ち昇った。パラパラとガラス片が落下し、太陽の光を受けてキラキラと宝石のように煌めいた。
幸い、塔は崩壊を免れた。黒い煙に覆われて死竜の姿は見えない。
戦闘機は上空を旋回して、目標の状態を確認する。
第一機動部隊との連絡がつかなくなり、死竜の報告を受けた政府が自衛隊を動員したのか。そうリアは推測した。
威圧的なエンジン音を空間に響かせて、戦闘機は蝿のように飛び回る。それを刺し殺すように、硝煙の中から尖った氷柱が二つ突出した。流麗な剣士の刺突のような一撃が、戦闘機の堅い機体を貫き撃墜させる。無骨な花火のように二つの戦闘機は爆発した。
一陣の爆風が吹き、火薬の染みた黒煙が晴れる。
死竜は無傷だった。
己の存在を誇示する雄叫びを上げる。まるで絵本の世界から飛び出して来たようなデタラメな竜に、リアはクスっと笑った。
白夜の太陽を睨む死竜にそっと触れたリアは透徹な声で言った。
「そんなんじゃ私たちの幸せは奪えないよ」
リアが死竜の下へ辿り着いた。
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