第23話 黒の魔女
死竜に銃弾が効かないと悟った機動隊は手榴弾を投げた。死竜の身体で爆発したものの、腐肉の表皮が焦げ落ちるだけでダメージはほとんどなかった。
死竜は隅田川から上がり、ジリジリと距離を縮めて来る。目前に迫った巨大な生物に恐怖した機動隊員の一人が逃げ出した。叫声を上げながら逃げ惑った一人を皮切りに、部隊長は「撤退!」と指示を出す。
機動隊員たちが撤退し、死竜の前にいるのは寺田とキリエの二人のみとなった。
死竜は目の前の二人を無視して、逃げていく大勢の人間を追い始めた。
「そんな……ソバが。嫌……」
キリエはまだ眼前の事実を受け止めきれないでいた。
「ああ、なんて羨ましい。死竜の一部になれた彼は間違いなく幸運な人生だ」
微塵も嘘のない言葉を吐く寺田に、キリエは鎮火した怒りがまたごおっと燃え盛った。
「何が幸運だ」
キリエは寺田に銃口を再び向けて、引き金を引いた。一発の銃声が響いて寺田は尻餅を着いた。寺田の左肩から血が滲む。
「……あなたには撃てないと思ってたんですけどね」
「ソバを元に戻す方法を教えろ」
修羅の形相でキリエの殺意に当てられた寺田は変わらず口角を吊り上げる。
「残念ですが、自分は知りません。それに何故戻すのですか? 白夜の使徒となった彼は今や人類を、この星を救う役目を負った救世主になろうとしているのですよ? もっと喜んではどうですか?」
「ふざけるな! まだ十代の子どもを犠牲にしといて何を喜べってんだ!」
怒鳴り散らすキリエに当てられても、寺田は変わらず涼しい顔のまま笑っている。
「命は等しく平等で、そこに大人も子どもも関係ない。犠牲は恩恵のためにあるんですよ。吉浦警部補」
沸点を超過したキリエは寺田の腹に蹴りを入れる。唾液を吐いて地面に横倒れた寺田から堪えきれない笑いが漏れた。
「心配しなくても祝福はもうすぐです。果てなき深淵に白き光の死があらんことを……フッフフフフッ」
ここでこの狂信者をなぶっても何もならない。わずかに溜飲が下がったキリエは寺田の胸ぐらをぐっと掴み、噛み殺すような声で言った。
「黒の魔女の居場所を教えろ」
「申し訳ないがそれも知らない。ただ死竜を操作しているのは彼女だ。死竜を追えば、もしかすれば会えると思いますよ」
勝ち誇った笑みをする寺田に手錠を掛けて車に放り込む。キリエは死竜の背中を追って車を走らせた。
○
死竜は新東京の魔女祭会場に向かって進行していた。
勝鬨橋から半径五キロ圏内の住民は避難していたが、全員が逃げたわけではない。まばらにいる呑気な人間が、巨大な死竜を前に茫然自失となっている。
死竜は立ち尽くす彼らを熱感知の力で捉えた。灰色の煙を口からブワッと吐き、棒立ちの人間も必死に逃げる人間も津波のような煙に呑み込まれた。
煙が霧散すると、浴びた人たちは青白い肌のゾンビへと変貌した。
リアの血が混ざった煙は人をゾンビに変える力があった。さらにそのゾンビたちを引力の血で引き寄せ、自身の腐肉に接合させる。焦げ落ちた死竜の胴体の肉は新たにゾンビとなったもので修復された。
そのままゾンビを数体引き連れてまた進み始める。目指す先にあるのは先日完成したばかりの魔女の塔だった。
魔女の塔に辿り着いた死竜を近くのビルの屋上からリアは眺めていた。
「さて、辿り着く前にユリノが間に合うといいけど」
消防隊や警察官が死竜を止めようとするが、為す術なく彼らは次々に壊滅していく。悲鳴と叫声が入り混じり、必死に生きようと逃げる人々が虫けらよりも虫けらに殺され、ゾンビに噛まれていた。惨状というには生ぬるいむごい光景をリアは他人事のように見下ろしている。
そんな中、屋上の扉が勢いよく開いた。物騒な足音が響く扉の方に視線を移す。そこには武装した機動隊が突入してきていた。腕に刺繍されたシンボルマークは国家の近衛。第一機動隊のものだった。
「射撃開始」
容赦のない一斉射撃にリアの体は文字通り蜂の巣になる。わずか十秒にも満たない鉛の制裁は、彼女を一瞬で絶命させた。
「標的沈黙。遺体を回収します」
二人の機動隊員が倒れるリアに近づくと、死んでいるはずのリアの黄金の目が静かに動いた。
「壊して、死竜」
風に消されそうな声で呟かれた彼女の望みを死竜は確かに聞いた。
死竜の足の腐肉が風船のように破裂して大量の血が地面に飛び散ると、その血から絶対零度の氷結が地面を走り、第一機動隊のいるビルを凍り付かせた。
瞬く間に全てを氷像に変えた忠実な死竜にリアは微笑んだ。無数に空いたはずの風穴はすっかり塞がっていた。
「どうゆう手品だ。それは?」
しゃがれた声が凍りついた第一機動隊の後ろからする。
冷たい屋上扉から出てきたのは、死んだはずの長谷川だった。
彼は片腕を失っており、血だらけで今にもくたばりそうなほど瀕死の状態だ。
「こちらが聞きたいですね。どうしてまだ生きているのですか? 長谷川」
悪戯な笑みを浮かべるリアは内心で少し驚いていた。
「なんだ、俺は死んでる予定だったか? なら初めてお前を出し抜けたらしいな」
「流石は公安の鬼と言ったところですが……」
長谷川の千切れた左腕の切り口からぼたぼたと血が滴る。ネクタイで縛り、止血をしているようだが、相当量の血を失っているのは明白だった。
「満身創痍ですね。それで今の私を捕らえられるとは思えませんが」
バンっと銃声が響く。リアの眉間に一発の鉛玉が貫通した。
長谷川の背後から銃を持った冴島が、足を引きずりながら現れた。全身が血に塗れており、呼吸も荒かったが、その夕日のように赤い目は鋭利な眼光を放っていた。
彼女に頭を撃ち抜かれたリア。しかし、二秒後にはまたすっかり元通りに治っていた。
「冴島も生きてたんだね」
「よくも橋を爆破してくれたな。目を離したこと、後悔しているぞ」
「私は死竜を完成させるために最善の手を打っただけだよ」
「あれのどこが最善だ。仲間を殺した上に、無関係な人を巻き込んで」
怒りに震える冴島はもう一度引き金を引く。
銃弾はリアの肩を射抜き、傷口から血潮が吹く。来ていた白い服は、リア自身の血で赤黒く染っている。冴島は二発、三発と発砲した。至近距離で何度撃たれてもリアから命が奪えない。
八発目から引き金を引いても弾は出なくなった。
「弾切れだね」
笑みを浮かべるリアに対して、冴島は「クソが」と苦虫を噛み締めたように顔を歪ませる。
「私を捕まえるために仲直りしたのかな?」
リアの挑発気味な言葉を長谷川は水のように受け流す。
「国家の利益に繋がるなら甘ちゃん女とも肩を組むさ。それよりあと何発撃ち込めりゃあ、くたばるんだ?」
「いくら私を殺しても意味がありませんよ。私にあった『死』は死竜が食べてしまいましたからね」
リアの言葉に、長谷川と冴島は目を大きく見開いた。
長谷川は重い声音で「どういうことだ」と問いただす。
「死竜は人の『死』を食べる。創った本人が食べられるのは当然でしょう?」
「ならあの臭えデカブツが踏み潰した俺の部下が生き返らないのは何故だ? 美女しか食わねえ面食いか?」
長谷川の疑問にリアは快く答える。
「死を食べるというのは伝承にある詩的な言い方です。言ってしまえば、今の私は死に到達しない状態にあります。どれだけ殺されても食べられた時点の体に戻るんです。私の魂も肉体も死がありませんから。しかし、すでに死んでしまった人間には『死』が消えているので、生き返ることはありません」
流暢に話すリアの言葉はまるで干からびているようだった。
「お前は、一体なんなんだ?」
「私? そうですね……」
少し間を開けてからリアは薄い雲がかかった陽光のようにぬるい微笑を作った。
「私は死竜のお嫁さんです」
「……は?」
あまりに拍子抜けな一言だった。リアが何を言っているのか、長谷川も冴島も一切理解ができなかった。リアにふざけた様子はなく、彼女はさらに言葉を続けた。
「黒の魔女の傑作、死竜。起源は百年以上前の伝承で今では御伽噺の架空の生き物。血が覚醒した魔女がなる黒の魔女は、死竜を創造する役割を得る。初代黒の魔女の断片的記憶を覗き見できる覚醒者たちは彼女が創った死竜を見て、歴代の誰もが虜になった。傑作と謳われるそれに感動したのは今でも覚えています」
リアの言葉に二人は唖然とした。
「私は死竜と一緒にこの世界をハッピーエンドにしたいんです」
長谷川は重い口を開く。
「人をゾンビにすることがか? お前の言うハッピーエンドは随分と生臭いぞ」
だがリアの表情は微動だにしない。リアの存在が段々と雲の上にあるような気がしてきた長谷川は、拳銃を握る手に自然と力がこもった。
「私から見れば、肉を求めて人を襲うゾンビと人間に大きな違いはありません。どちらも人を食べて当然のように消費していますから。ゾンビに噛まれた人間はゾンビになる。それだけでこの新東京には生きようとする生の意志が充満します。それが星の涙を落とす呼び鈴になるんです」
リアは悠然と覗き込むように二人の目を見た。彼女の張り付いた薄い笑みが、向けらる者に不穏を与える。雲がかかったガラスのような不透明な軽い言葉の数々。イカれた魔女の妄言として片付けることができなかった。
「もうすぐ死竜が人間の『死』を食べ始めます。そうすれば人類は根源的な呪縛から自由になり、星の涙の祝福を受けることができます。この星はずっと、その長い歴史を常に他の星々に見せてきました。喜劇や悲劇、復讐劇や愛と奇跡の物語。幾星霜と紡がれた人類史は目を瞑りたくなるほど残酷で、目が離せないくらい美しかった。ですが枯れた星たちはどうやら人類に飽きたようですけど」
リアはわずかに俯いてから二人を見直した。
「お二人は地球についてどう思いますか?」
長谷川も冴島も冷徹な目で沈黙していた。脈絡のない話題を真面目に考える余裕はない。
リアは小動物を愛でるように頬を緩ませて言った。
「生命が存続するのに、条件が整っているこの星は宇宙の中でも希少な惑星です。私たち人類はこの星から資源を奪い、その糧の上で生きている。天然ガス、石油に石炭。全ては人類の繁栄のためと言って、有るところから根こそぎ奪う。この世界の最上の快楽は他から奪うことであり、それは生きる上で避け難い真実の一つです」
冴島は声をわずかに震わせて言った。
「じゃあ、なんだ……星の涙の正体は……」
微笑みながらリアは答えを口にした。
「『生』に満ちた地球からその生、つまり生きようとする意志を奪うこと。枯れた星たちの罪悪感の塊が星の涙だよ」
死が無くなり、生きようとする意志も奪うものが、星の涙。そう聞いた冴島は上手く飲み込めなかった。祝福と呼んでいたものが、全く得体の知れないものに変わった。
リアは重たくも清澄な声色で言った。
「私は死竜を使って人類から死を奪い、枯れた星々から涙を落とさせて、この宇宙で一番のハッピーエンドを迎えたいんです」
長谷川は腰から拳銃を抜き、銃口をリアに向けた。
「馬鹿みたいなプレゼンはありがたいが、それまであんな物騒なもんをハロウィンでもねえのに野放しにしとくと思ったか? 死竜はすぐに処理される。日本はもちろん、世界各国が意地でもな。黒の魔女様でも軍には勝てねえだろ」
「何があってもそうはなりませんよ。言ったでしょ? 私は死竜のお嫁さんなんです」
確固たる意志のこもったぬるい声が二人の耳に透き通る。巨人の王に押されても、一歩も動かないと思わされるほど、リアからは神妙な不動の凄みを感じた。
薄く微笑むリアに冴島はか細く呟いた。
「今、魔女の塔に向かっているあの死竜はお前が操っているんだろ……」
「そうだよ」
「こうしてる今も、被害は出続けている。白夜教はほぼ壊滅。公安も警察も機能していない。ハッピーエンドだと宣っているが、本当に、ここまでやる必要があったのか?」
疑念と怒りが混ざった言葉に、「うーん」と可愛く唸ったあとリアは口を開いた。
「あったよ。だから死竜は完成した」
心底簡単にリアは答えた。無機質な声色には当惑も猜疑心もない。
「どうして冴島はそんなに戸惑っているの? 念願の死竜が完成して、私たちから『死』は無くなり、生に満ちたこの世界はもうすぐ星の涙は降る。もっと喜んだらどう?」
冗談のような口調だが、彼女は本気で言っていた。幽霊も退くほどの薄氷の笑みを浮かべるリアに、冴島はゾッと背筋が凍った。
「悪いがこの惨状を見て喜ぶほど、私は狂っていない。私は、この世の理不尽を一掃するため、もう誰も、泣かなくていいように……だがお前がやっていることは……」
否定の念を丸め込んだ冴島の言葉に、リアは感情が抜け落ちたように口角が下がった。
「私は冴島が結構好きだったんだよ。純真で真っ直ぐ。人のことを考えて、時には犠牲を強いる判断もできる理性と決断力。そして強い信念がある理想的リーダー。出会った中で一番、ゾンビに食べられて欲しくない人」
次の瞬間、冴島は自分の背後に黒い気配を感じた。呻き声をあげる二体のゾンビが階段を上がってきていた。
ゾンビは長谷川と冴島にかぶりつく。獰猛な黄銅の目と強い腕力で冴島は押し倒された。
「冴島!」
ゾンビと取っ組み合いをする長谷川が叫ぶ。
冴島は噛まれないように顔を抑えつけるので精一杯だった。
危機に瀕した二人の間をリアは一瞥もせずに涼しい顔で通り過ぎる。
「あれで生き残ったのは凄いけど、邪魔をするなら二人はもう要らない。ここで死んでね」
呼び寄せたゾンビに二人を食い殺すように命じたリアは優雅に屋上から立ち去った。
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