第22話 裏切り者
キリエたちは勝鬨橋の残骸を横目に、応援に駆けつけた消防隊と救助隊、警察と合流した。
白夜教が橋の向かい側に残っている可能性から一帯を包囲しているが、まだ誰一人として生存者は発見できていない。隅田川には死竜の頭が半分ほど浸かっていた。あの爆発で壊れていないのは、何か魔女の血で加工が施されているからだろう。消防隊がもうじきこれの引き上げ作業に移ろうとしていた。
橋が崩壊してから三十分が経過した。
「寺田副隊長、長谷川隊長はまだ見つかりませんか?」
キリエが沈んだ表情で訊いてくる。
「はい、まだ……橋にいた機動隊員の何人かは遺体として見つかりました。白夜教の魔女たちも数人、冴島は未だ発見できていません。昨晩の雨で増水したようで、ゾンビどもは上がってきていません」
キリエはこの報告を五分おきに訊いてきていた。その度にどんどん覇気が抜け消えていっている。寺田は笑顔を作って彼女に明朗に声をかけた。
「大丈夫ですよ。あの人はしぶとい。きっと生きていますよ」
寺田の気遣いの籠った言葉。彼の人の良い性格から出るその優しい励ましは、配属されてから何度も聞いた。
それなのに、彼女の脳内で掃除機の音が甲高く響いた。キリエは大きく目を見開く。
「えっ……」
微笑もうとした表情は無から動かない。何故、今嘘の警笛が鳴ったのだ。
「吉浦警部補? どうしました?」
心配そうな寺田の顔を見て、キリエの背中から刺すような痒みが走った。
寺田に対して荒唐無稽な想像が浮かんだ。悪いことを考えてしまうのが、すっかり癖づいてしまっているようだ。ただ、単純に長谷川の生存を諦めているだけかもしれない。言い掛かりで魔女裁判なんて、笑えない。
キリエは恐る恐る口を開いた。
「あの爆発って、橋に仕掛けられていたんですよね?」
「はい。機動隊員たちによると」
そんな馬鹿なことがあるわけがない。
「やっぱり、白夜教が仕掛けたんでしょうか?」
寺田は自分に優しい嘘を吐いただけ。憶測の域を出ないこんな邪推はするだけ無駄だ。キリエの白い頬を冷たい汗が伝った。
「現状はなんとも言えませんが、自分の意見としてはそうだと思っています」
嘘の警笛が鳴った。
本人が嘘を吐いていると自覚している時にわかるキリエの血の力。
「……寺田副隊長」
つまり寺田は今、自分が嘘を吐いていると思いながら口にした。
「白夜教がやったと思っていませんよね?」
努めて優しく訊いた。キリエの顔が不気味に引きつる。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう、己のチープな想像でも、あるかもしれない可能性は潰す。
「えっ? ……あっ、なるほど」
寺田は呆気に取られた後、すぐ平静に戻る。
「吉浦警部補は嘘がわかるんでしたね。すっかり気が抜けてました」
まるでずっと付けていた仮面を外したように、寺田はメガネを外して、ハンカチでレンズを丁寧に拭く。
「気が、抜けていた?」
目の前にいる男は本当に寺田なのか。そう疑わずにいられないほど、彼の様子が異様に、まるで水に絵の具が溶けたように平然と変わった気がした。
「長谷川隊長を消して、安堵していたようです。感情のコントロールは得意なんですが、大仕事を終えれば、やはり緩むものですね」
嘘の警笛は鳴らない。
寺田は何一つ、嘘を吐いていない。キリエは背筋がゾッとした。
「橋に爆弾を仕掛けたのは、寺田副隊長なんですか?」
寺田はメガネをかけて、狂気の潜んだ朗らかな笑みを浮かべた。
「はい。全て私が仕組みました。と言っても言われたことをこなしただけなんですけどね」
石で頭を殴られたような鈍重な衝撃がキリエを襲った。
「なんで……」
「あなたには嘘を言っても仕方ないので。恋人ができたら大変でしょう。本当に厄介な力です。横浜に捜査官を流すのにも一苦労でしたし、こっちはずっと気が休まらなかったんですよ。お礼に銀座で寿司を奢ってもらいたいほどね」
潤滑油を差したかのように、つらつらと軽い言葉が湧いてくる。
「……自分で何を言っているのか、わかってるんですか?」
瞳孔は開き、キリエの頭は真っ白になっていた。寺田が橋を爆破した。長谷川たちを部下で仲間であるはずの、彼が殺した。
「長谷川隊長を、殺したんですよ? 私は配属されて日が浅かったけど、尊敬できる人でした。寺田さんは、ずっとあの人の部下だったんじゃないですか!」
押し返す波のような勢いで、憤りが隆起してキリエの頭に血が上る。
「ええ、仕事上はね。私の心は別の人に捧げているんですよ」
今までの寺田からは想像できないほど、どす黒い愉悦の笑みが浮かんだ。
「リア。現世に降り立った黒の魔女の再来。そして白夜教の教義を完遂する唯一の魔女。自分は今、崇高な使命の一端を果たしているんですよ」
狂気に歪み恍惚とする寺田に、キリエは言い知れぬ悍ましさを感じた。彼に近づきたくないと思うほど、嫌悪の虫が体を這いずった。
「あの女に言われて橋を爆破したんですか……」
ぐるっと寺田の首が回って、キリエを睨み付ける。怒気に染まった彼は悪鬼の剣幕になった。
「死竜の創造主たる黒の魔女を、あの女?」
そして、彼はにこやかに笑う。
「まあ、何も知らないのは仕方ありません。それを責めるつもりはありませんが、教養が無いにも程がある」
「寺田!」
キリエはホルスターの拳銃を引き抜き、銃口を寺田に向けた。
「裏切り者がっ! 知っていることを話せ。話さなければ撃つ」
今にも引き金を引きそうなキリエは拳銃の安全装置を解除する。
「大方の予想はついてるんじゃないですか? それにあなたには撃てない」
「黙れ。さっさと話せ」
怒鳴るキリエに対して寺田は風のように優雅だった。
「自分もネタバラしを披露するのは構わないんですが、そうも言ってられなくなりましたよ?」
寺田が首を横に振るう。お前も見てみろという目に、恐る恐るキリエも彼と同じ方向を見た。
北西の山間部の方から何か大きなモノが土煙をあげてこっちに向かってきていた。地響きもする上に、奇妙な振動が伝わってくる。周囲の隊員たちも気付き始めた。
「あれは……」
ぼんやりだった黒い影の輪郭がうっすら形になってきた。
歪な骨格。爛れた腐肉と横に広がった不細工な翼もどき。頭の無い長い首。クソ映画に出てくるクソモンスターのような化け物が、街を破壊して進んできている。
「この事件の全ての中心、死竜ですよ」
恍惚と喜びに打ち震える寺田。その隣で真っ直ぐ突っ切って来る死竜を見ているキリエはハッとした。
「死竜……」
死竜には魔血持ちが必要。今目の前にいる怪物が死竜なら……
「ソバ……」
障害物にならない街を突っ切って行軍する死竜はあっという間に勝鬨橋に辿り着いた。キリエたちとは向かい側にいる死竜はそのまま進んでくると、途切れた橋から無様に落ちた。増水した隅田川が水飛沫を上げる。
消防隊や警察は悲鳴をあげて逃げ惑う中、機動隊が隊列を組む。
「後藤班、発砲。十秒後、三岳班と交代」
部隊長の合図で射撃を開始する。
距離がまだある分、命中率は低い。しかし、何発かは死竜の腐肉に撃ち込まれる。川の水に足を取られスピードは落ちるも、死竜は着実に近づいてきていた。距離が縮まって、銃弾も当たる。だが死竜はびくともしない。
そして、死竜は自身の頭がある場所まで到る。
長い首を頭に擦りつける死竜は恋する乙女のようにもぞもぞと身体を揺さぶった。少しだけ愛らしいその数秒後、引力の血の力で接続された頭はゆっくりと持ち上がる。観覧車が回るようにゆっくりと。頭の水滴がぼたぼたと滴り落ちた。
身体の腐肉が手を伸ばすように頭蓋を覆い、口から灰色の煙を吐く。ねちょりと開いた蛇のような瞳は、混濁した黄金だった。
月下に轟く咆哮が鼓膜を劈いた。
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