第20話 キスしてほしい

 脅迫動画が公開されてから四時間後。

 公安が動き出したという情報が白夜教に入った。冴島は部下を引き連れて勝鬨橋に向かった。

 リアの監視を別の者に任せるのは不安だったが、リアを現場に連れて行くことは避けたかった。彼女が珍しく同行を申し出てきたのが、冴島にとって不審だったからだ。だから連れて行かないことが、リアを抑えることに繋がると思った。さらに念を押して噴射装置のボタンも冴島が没収した。作戦中は山間部の隠れ家に押し込めることも決めた。

 そこには当然、ソバもいた。

 二人が地下室に閉じ込められてから二十分ほど経過していた。

 リアは甘い声音でソバに言う。

「ごめんねソバ君。何度も閉じ込めちゃって」

「リアさんと一緒ならへっちゃらですよ」

 子供のようにはしゃぐソバを見て、リアは軽い笑みを浮かべる。

「君は本当に良い子だね」

 リアに褒められて舞い上がるソバは、リアと一緒に暮らす妄想を膨らませた。家に帰ると必ずリアがいて、温かい料理を作って待っている。一緒に映画でも観ながら感想を互いに言い合うのだが、やはりリアが鋭い指摘をすると思う。駄弁っていると喉が渇いてくる。だからコーラが飲みたいと言われたら、台風の日でも雷鳴の日でもソバは嬉々として買いに行くのだ。

 リア以外の女とそうした生活は考えられない。何より自分とここまで一緒にいてくれるのだから、嫌いになることなんて絶対にできない。

「結構暇だし、映画でも見ようか」

 この部屋にはテレビとDVDプレイヤーがある。リアは棚から埃を被ったパッケージを手に取った。

「何見るんですか?」

「ゾンビものとサメもの、あとコメディも見よう」

 ソバとリアはベッドに腰掛けて映画を見た。

 船に乗った勇敢な男がサメと戦っているシーンで、リアは唐突に口を開いた。

「ソバ君はアリとキリギリス、どっちが好き?」

 映画からリアの方へソバは視線を移した。

「何ですかそれ?」


 イソップ寓話の一つ。

 夏の間、アリたちは冬の食糧を蓄えるため働き続ける。キリギリスはヴァイオリンを弾いて歌を歌う。やがて冬が来ると、食べ物が見つからないキリギリスはアリに食べ物を乞うけど、アリは「夏に歌っていたんだから冬なら踊れば良いんじゃない」と言って、食べ物を見つけられなかったキリギリスは飢えて死んでしまう。


 寓話を聞いたソバは少し考えた。

「オレはキリギリスがいいかな」

「キリギリスは冬に死んじゃうよ?」

「でも歌ってヴァイオリン弾いて、そっちの方が楽しそうです」

「君は生き残るより楽しい方を選ぶの?」

「楽しくないのに生きてもしょーがないんで」

 ニヤリと笑うソバにリアも同じように温かく笑った。

「じゃあそんな愉快なキリギリス君に最後の死竜の仕上げをしてもらうけど、その前に聞いておきたいことがあるんだ」

 ついに到来した役目に、ソバはわずかに心を躍らせた。

「なんですか? 準備ならいつでもオッケーですよ」

「まだしてほしいお礼を聞いてなかったと思ってね。決まった?」

 そうだったと、ソバは今思い出した。結局何をしてもらうか、漠然と思い付いたことがゆうに百個は越えていて先送りにしていた。

「まだです」

 いくつかある願望はまだ絞り込めない。

「なら少し歩こうか。考えるには歩くのが一番だから」

 この小さな地下室の中を歩き回るのかと思ったソバだったが、リアは徐に古びた本棚の前に立った。

「ソバ君、ちょっとここに来て。この本棚をずらしてくれる?」

 言われた通りにソバは本棚をずらした。コンクリートと本棚が擦れて砂利が削れる音が響く。埃が舞って、ずらした本棚の裏には真っ暗な穴がポッカリ空いていた。穴からは温く湿った風が吹いている。

「隠し扉?」

 まさかの仕掛けにソバは目を見開いた。

「そう。これがないと地下室とは言えないよ」

 暗闇の通路に入る。リアの後ろにいたソバは何も見えない闇の中で思わず躓いてしまう。転びそうになった寸前でリアに手を取ってもらった。

「大丈夫?」

「あ、ありがとうございます」

「危ないから離さないでね」

 握る手に力がぎゅっと入る。不安だった足取りは途端に霧散して、ソバはこの先ずっと暗黒の路地が続けばいいと思った。

 安心する温かい手で引かれたソバの目に光明が映る。目を細めながらリアとともに光の方を目指した。

 赤みのある白く光る出口を抜けた。出た場所は奥深い山の中だった。鬱蒼と生い茂る木々は夕暮れの光で朱色に照らされていた。

「こっちだよ」

 リアに呼ばれたソバは彼女の隣まで歩く。山肌の下に麓が見えた。さらに奥には東京湾が一望できる。夕日で燃えてるようにきらきらと輝いた赤い海。水平線に沈みんでいく夕日は断末魔のような眩しい光を放っていた。

「綺麗ですね。初めて見ました」

「やることがなくなったらよくここに来るんだ。ここに来ると世界は相変わらず美しいんだって思えるから」


 緑の深い山肌を撫でる晩夏の風が吹く。オレンジ色に輝く梢が揺れて、自然がリアの言葉に頷くようにさえずっていた。

 東京湾を眺めていたリアはくるっと翻ってソバの顔を見た。落日を背負う彼女は、その逆光も相まって儚い光に包まれている。

「お礼はもう決まった?」

 聖なる権化がソバに問いかける。一歩、下がりそうな足をグッと地面に押さえつけた。

「まだ、あり過ぎて決まんないです。たぶん、オレ脳みその入り口が狭いんです。渋滞してるんだ」

 弱気なソバをリアは抱き締めるように声をかける。

「そんなに難しく考えなくていいよ。今私にして欲しいことを言ってくれれば良いんだ」

「でも、オレまだ手伝いとかちゃんとしてないのに、先にお礼もらって良いんですか?」

「君を随分振り回しちゃったからね。その分も含めて気持ちに応えたいの」

 リアの親身な言葉がソバの胸にじんわりと染み込んでくる。

 そういうことならもう何か、言ったほうがいいよな。ソバの脳内でその考えが反響した。貴重なお礼だ。何を言ってもソバにとってはご褒美になる。後悔することなんて何もない。

 それでも、やっぱり出てこない。頭の中では暴れ回ってるのに、いざ言おうとすると途端に萎んで幽霊みたいになって言葉にならない。

 選ばなければならない苦悶にソバの表情が歪む。それを見たリアが、徐にソバの手を握った。強くもなく弱くもない絶妙な力加減が言い知れぬ多幸感をもたらす。リアの顔が近づいてきた。

「そんな真剣にならなくていいんだよ? 思いつきでいいから」

「でもオレ後悔したくないから……真剣に、人生で一番真剣に決めたいんです」

 頬を赤らめるソバに、リアは薄い笑みをさらに薄くして微笑んだ。

「じゃあ一つアドバイス。人生で重要なことは二秒で決断しなさい」

「に、二秒で決めたらクソみたいな決断になるんじゃあ……」

「だから二秒で決めるの。ダイヤを買うのも河原の石を拾うのも同じ。たくさんあるなら最初に思いついた方を口にして」

 ソバの力が自然と抜ける。

 リアの瞳が真っ赤な日射しを受けて燦々と煌めいていた。その奥底のさらに深い黄金の奈落にソバは落ちて行く。そんな浮遊感に浸った後に出てきた言葉は、贅肉が削ぎ落ちたように純粋なものだった。

「キスしてほしい……リアさんに」

 静謐な空気が流れてリアが鮮やかな口をゆっくり開いた。

「……本当にそれでいいの?」

「はい。リアさんに、キスしてほしいです」

 もう一度、確かな言葉にした。間違いがないようにした。

 リアの顔に浮かんだその美しい微笑は、世界が滅んだ後でも覚えているような魅力的な顔だった。

 リアに握られていた手がソバの頬に滑らかに移って、生物を静止させる声が鼓膜に響く。

「じゃあ、目瞑って」

 ソバは瞼を下ろす。暴発しそうになる心臓の鼓動音が鳴り止まない。

 リアの爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。瞳を閉じてもわかる。段々と彼女の顔が近づいてきている。

 なんだかお腹のあたりも焼けるように熱い。全身から力が抜かれているような虚脱感があった。しかしその薄れそうになる暗い意識の中で、確かに唇と唇が触れた。

 ソバは目をゆっくりと開ける。

 沈み切った夕日の名残で水平線が燦然としたオレンジに光っていた。

 一瞬の接触なのに、尾を引く余韻は永遠のように残留している。

「どうだった?」

 小首を傾げて、彼女は大人のように笑う。

「た、たぶん、一生忘れないと思いまっ……ごふっ⁈ ボファアア……っ!」

 ソバの口からいきなり大量の血が流れ出た。がくっと膝が折れる。倒れそうになった体を地面に手を突いて支える。視界には赤黒い血溜まりが広がっていった。地面を縦断する数匹の蟻が血に溺れている。今の自分の状態がわからない。

「リ、ア、さん……?」

 リアの微笑みは何も揺らいでいない。表情が何も変わっていない。

 さっきから胸がじんじんと熱い。むしろ痛い。痛いと思ってからどんどん痛くなってきた。

 視線を自身の胸に向けると信じられないことに、銀色のナイフが胸に突き刺さっていた。

「あっ……これ、いつ……」

 体の内側は燃えるように熱いのに、外側は氷でも押し当てられているように寒かった。

 ソバが必死で状況を理解しようとしていると、リアがしゃがんでソバと目線を合わせた。

「私が刺したの」

 私が刺したの。私が刺したの。私が刺したの。私が刺したの……呆然と反芻していたらリアは今まで見たことがないほど、声高らかに笑っていた。

 闇夜の山中に広がる彼女の笑い声が快活に響いた。堪えきれずに漏れ出た笑い声に、ソバは押し潰されそうな気持ちになった。翳りが出たソバの表情とは裏腹にリアの大笑は眩しく、憎らしいほどに貴重だった。

「はあ……あ、笑った笑った」

 目尻を擦って頬を紅潮させたリアは、ソバを抱き寄せて膝の上に彼の頭を置いた。ソバの視線の先には笑い疲れたリアの顔があった。

「なん、で……」

「こんなことするのかって? もちろんソバ君が必要だったからだよ」

 しかしソバは口をぱくぱくと動かすだけで、理解に追いついていなかった。

「死竜を創るのに必要なのは魔血とその人の魂。それも死にゆく状態のものが要るんだ。素材にするコツは喜びと悲壮感を与え、最後に奪う罪悪感と奪われる怒りで味付けをする。君の魂は今、混沌とした星の輝きに溢れているの。……ふふ、言葉にするとなんだか御伽噺みたい。でも本当のことだからね。君は最後の素材、十三番目の核に選ばれた。お礼はその細やかな当選プレゼント」

 流暢に話すリア。ソバはどんどんと意識が海底へ沈んでいくような感覚になる。

「あっ、の……これ、ユメ、夢です、か……」

 震えるソバの瞳はうるうるとはち切れそうな感情が潤沢している。頬は引き攣って必死に笑いを堪えていた。

「オレ……役に、立ちたくて」

 切実なソバの言葉に、リアもまた誠実な声で口を開いた。

「私、ソバ君が公安に捕まっていた時に君のことを色々調べたんだ」

 ソバの慟哭は緩やかに静まって行った。リアはそれから言葉を続ける。

「君は都内に住んでいた普通の高校生。高校にはすぐ馴染んだけど、クラス内でいじめが起きた。いじめられていた子はある日、耐え続けた苦痛が限界に達して、教室内でカッターを振り回した。君は魔血持ちだから彼を抑えようとして近づいて、でもカッターが目に刺さりそうになって転んだ。その時近くにいた女の子も巻き込んじゃって、気が付くとカッターが女の子の胸に刺さっていた」

 蓋をしたはずの記憶が抉り出される。その事件が起きたのは、一年前の雲一つない晴天の青い日だった。

「なんとかしようとしたんだよね。君は力もあったし、みんなとも仲が良かったから。でもだからって許されるわけじゃなかった。友達からの慰めと女の子の友達からの批難と罵声。女の子の親に今もお金を払い続ける両親を見て、何度死のうとしたんだっけ。不登校になった後でもバイトを続けた。私のゾンビ化の装置をあの日、熱心に運んで、それでたくさんの人がゾンビになった。見ないようにしてたんだよね? もう耐えられないから。でも、もう大丈夫。君は死ねるよ」

 ソバの黒い目から爛々と輝いていた光が失せていく。

「本当に良い子だったよ……都合のね」

 リアの黒い生気に満ちた微笑みは、もうソバには見えていなかった。

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