第二章 戦奴の城邑③
見よう見まねの付け焼刃では、鷹士のように身軽に起き上がり、即座に反撃には移れないものの、勢いに回転を加えるだけで、隼人は自分でも驚くほど柔軟で素早い動きができることに驚いた。
すばしっこく逃げ回る隼人を、挟み撃ちにしようとした戦奴の脇を身を低くしてすり抜ける。隼人は、自分を捕まえ損ね、互いの額をひどくぶつけた戦奴たちに
「シシドが飯を粗末にするやつには罰を与えるって言ってたよな」
「誰か、さっきこいつがぶちまけた粥汁をすくってこい。このギョロ目がシシドに打たれないように、俺たちが食わせてやろうぜ」
戦奴がふたりがかりで隼人の体を押さえつけ、膝を地面につかせた。もうひとりの戦奴が髪をわしづかみにして、粥の混じった泥を、固く閉じた隼人の口に押し込もうとする。粥汁でべたべたになった泥水を顔になすりつけられても、隼人は歯を食いしばる。
「鼻をつまんだら、口を開くだろ」
うしろで見物していた別の戦奴が
なぜ、自分はこんなに弱いのだろう、と隼人は息苦しさの中で
たとえ年は若くても、鷹士のように強くなりたい、一目置かれるようになりたいと願わずにはいられない。しかし、戦奴になるということは、邦と邦との争いに駆り出されて、平和な邑や里を
鼻をふさがれた苦しさに、ゆるんだ唇の間から泥が押し込まれる。わずかに入ってきた空気に、反射的に息を吸い込んだ隼人は泥水が気管に入り込んで激しく
「自分より小さくて弱いやつを大勢で痛めつけるのが、そんなに面白いのか」
背後からうんざりしきった口調で投げかけられた問いに、戦奴たちは飛び上がる。
地面に放り出された隼人は、口内の泥を吐き捨てると、目に入った泥や埃、そして涙でぼやけた視界で声の主を見上げた。
気まずそうに立ち尽くす戦奴たちに、入り口の柱によりかかった鷹士が淡々と訊ねる。
「大甕を割ったのはおまえらだな」
「こいつがやったんだ」
隼人の口に泥粥を押し込んだ戦奴が、うずくまったままの隼人を指さして断言した。鷹士は首を傾けて、隼人に目を向けることもせずに言い返す。
「ずぶぬれのおまえが言っても説得力がない。壊したときに水をかぶったやつが張本人だってことくらい、誰にでもわかる」
鷹士がさらに声を低くして一歩前に出ると、戦奴たちは
「こ、こいつだって、ずぶぬれだぞ」
鷹士ににらみつけられた戦奴が、隼人を指さして反論した。隼人はシシドの前に引き出される恐ろしさに、心臓が縮み上がりそうになった。すがるような目で鷹士を見上げる。だが、童形の剣奴は、常と変わらず冷淡かつ無表情だ。
「そいつは泥だらけだ。おまえたちが水浸しの地面を引きずり回したんじゃないのか」
隼人は自分の耳を疑った。まるで、鷹士が自分をかばっているように聞こえる。
「それに、自分の罪を他人になすりつけるのは重罪だったな」
自分よりも年下の少年に横柄な態度で咎められ、戦奴はかえって激昂した。
「半人前のくせに威張りやがって。いくら剣奴だからって、ひとりで俺たち全員を相手にできると思っているのか。おい、かかれっ」
成人前というだけでなく、鷹士はその年齢にしては体格がよいわけではない。動きの俊敏さと技の鋭さで、おとなに負けない実力を示してはいるが、数人がかりでいちどに押さえ込めば勝てるかもしれないと、血気にはやる十七、八の戦奴が考えたとしても不思議はない。若い戦奴たちは、数を頼みに手に手に槍をとって鷹士に襲いかかった。
「やめろぉっ」
隼人の制止の叫びなど、誰も聞きはしない。鷹士は即座に銅剣を
隼人は地べたに散らかっていた割れ甕の破片を拾い上げては、戦奴たちに投げつけた。気を散らされた戦奴たちのふたりが、狭い炊き場の中で隼人を追い回す。床に並んだ
逃げ場のない竈並びの奥に追い詰められた隼人に、甕を割った戦奴が槍を短く持ち、隼人には意味の聞き取れない罵声をあげながらふりおろした。金属と底の深い大甕の打ち合う音がして、竈の間に身をすくめた隼人の髪の毛すれすれに、火花が飛んだ。
もういちど狙いをすまして、槍を隼人の頭上へとふり上げた若い戦奴の肘から先が突然消え
聞くに堪えない絶叫がほとばしる。隼人の目の前に、槍を握りしめた肘から先の腕がどさりと落ちた。隼人はのど元まで出かかった悲鳴を
地べたにはふたりの戦奴が、頭や脚から血を流して倒れ、ひとりが腹を抱えてうずくまっていた。隼人を追い回していたもうひとりの戦奴は、血濡れた剣先を突きつけられて腰を抜かしている。あとひとりは逃げ出したのだろうか。
「剣奴に逆らう戦奴は、その場で殺される。この邑の
鉄のように硬く冷たい鷹士の宣告と、のどにめり込む剣先に、戦奴はぶるぶると震えながら命乞いをする。
「うぁ、た、助けてくれ、二度と逆らわない」
その戦奴から漂ってくる
「あいつらを、殺しちまったのか」
隼人はおそるおそる尋ねた。鷹士は、命乞いする戦奴ののどに剣の切っ先を向けたまま、あごだけを隼人のほうに向けた。
「死体を片づけるのが面倒だから、殺してはいない」
そして、おこりにかかったように震えている戦奴に話しかけた。
「死罪を減じてほしければ、今夜中におまえらが自分たちでここを片づけろ。もっとも、血と小便で炊き場を
戦奴は何度も激しくうなずいた。鷹士が剣をおろすと、大慌てで動けない仲間たちへと這い寄る。
剣の
「鷹士」
「まだいたのか」
ひどく冷たい鷹士の言い方に、一瞬ひるんだ隼人だが、勇気をふり絞って声を上げた。
「なんで、助けてくれたんだ」
隼人は鷹士がこの戦奴たちを見張っていたのかと、淡い期待を抱いてしまう。鷹士はうっとうしげに隼人を見下ろして答えた。
「たまたま通りかかっただけだ。おれよりでかいやつをぶちのめせる機会は、逃さないことにしている」
言い捨てて通り過ぎようとする鷹士を引き止め、言い募る。
「史人のときも、『たまたま』だったって言うのか。はじめからここであいつらを狙っていたんじゃないのか」
「おれはそんなに暇じゃない。炊屋が暇になった頃合いに、
冷淡に言い放つと、鷹士は炊き場の隅に積んであった薪の束を両方の肩に載せた。隼人は、その場を歩み去ろうとする鷹士に、なおも食い下がった。
「噓だ、この時間におまえ以外の剣奴がここに来るのを見たことないぞ」
鷹士の硬質な瞳がゆらりと揺れた。少し間をおいて答える。
「他の剣奴には雑用をする戦奴や雑奴がついている。おれは剣奴でもまだ見習いだから、自分の雑用は自分でしなきゃならない」
「賊に襲われたときは、おまえの武器を運んでいたやつがいたじゃないか」
鷹士は、立ち止まって隼人を見下ろした。いちど開きかけた口を閉じ、口角をぎゅっと引いた鷹士は、なにも言わずに外へと
同じ邑に住んでいても、邑の奥近くの区郭に居住する剣奴と、邑の外縁に住む雑奴では、めったに接することがない。水運びのときに見かける、広場での剣奴の鍛錬以外では、鷹士の姿を見ることはほとんどなかった。
この機会を逃すまいと、隼人は鷹士のあとをついてゆく。
「おまえが見習いなら、いつになったら一人前の剣奴になるんだ」
「この夏だ。夏至の日に髪を上げる」
こんども無視されるかと思っていた隼人は、鷹士が返答したことに
「おれをおまえの雑奴にしてくれよ」
鷹士は隼人の懇願に、すぐには応じなかった。肩の上の薪束に隠れた顔は、隼人からは見えない。どのような表情をしているのか、隼人には想像もつかない。無視されたかと隼人が思い始めたころ、鷹士は歩幅をゆるめてこう言った。
「剣奴づきになれば、いまより仕事が楽になると思ったら大間違いだ。しかも、ねたみがひどくなって、もっとひどい嫌がらせや仕打ちをうけるぞ」
「かまわないよ。おまえみたいに強くなりたいんだ。年がいかなくても、体が小さくても、ひとに馬鹿にされなくてもすむように」
「剣奴の雑用をして強くなった雑奴なんかいない。剣奴になりたかったら、まず戦奴になって人一倍訓練して、試合に勝つんだな」
隼人は剣奴になりたいわけではなかった。ただ、強くなりたかった。たとえそれが親の
「鷹士は試合に勝って剣奴になったんじゃない。なんでおまえだけが特別扱いなんだ」
鷹士は薪の束を担いだまま、隼人に向き直った。硬い表情、低い声になる。
「特別扱いじゃない。おれたちは生まれる前から、剣奴になることが決まっていた」
鷹士が『おれたち』と言った意味が隼人にはわからなかった。隼人と鷹士を指しているのでないことは見当がつく。だが、少年で見習いの剣奴は、ここには鷹士ひとりしかいない。
「どういうことだよ」
鷹士は隼人を見おろし、答える代わりに口を閉ざした。踵を返し、すたすたと邑の奥を目指して早足で歩み去る。星空の下にひとり取り残された隼人は、鷹士を怒らせたのだろうかと不安になってその後ろ姿を見送った。
数日後、隼人にからんできた戦奴たちは、棒で打たれてさらしものにされた。そのあと、もっとも過酷な雑奴の使役にまわされたという。鷹士に腕を切り落とされた戦奴がどうなったのかは、隼人が知ることはなかった。
一方、隼人は
遠目には巨大な茅束が歩いているような行列のなか、同じ年頃の雑奴たちと行動をともにすることで、隼人は血の気の多い戦奴たちの
天涯の楽土 篠原悠希/角川文庫 キャラクター文芸 @kadokawa_c_bun
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