第一章 剣奴の少年①

 ──日の暮れかかった満ち潮の海辺で、大きな荷を背負った旅姿の男がひとり、ひどくろうばいしたようすで砂浜を行きつ戻りつしていた。

 目を離した隙に八つになる息子の姿が見えなくなってしまい、こどもたちが遊んでいそうな浜辺まで捜しにきた。そこで引き潮の間に沖の小島に渡り、満ち潮になって島に取り残された息子を、波越しに見つけて胸をでおろす。

 しかし、泳いで渡れる深さでも距離でもなく、助けを求めようにも、浜辺に人影はない。小島の浜から必死で手をふる息子の小さな姿に目をやっては、男は借りられる舟がないものかと、おろおろと浜を探し回った。

「おっと、おや、ごめんよ」

 つまずいて危うく転びかけた男は、足元を見おろした。数えで三つか四つと思われる小さな男の子をばしてしまったらしい。しりもちをついて自分を見上げている幼子の両脇に手を入れて立たせ、砂をはたいてやった。

 幼子は、こぼれそうに大きな目を見開いて、男を見上げている。

「こんなところをひとりで歩いてちゃだめだろう。親はどうしたんだ」

 南海のあまびとによく見られる、色黒の肌と大きなぱっちりした目に、漁師の親が近くにいれば、助けを求められるかと期待する。

 しかし、親はどこかとかれた幼子はまゆを曇らせ、いまにも泣きそうになった。よく見れば、衣はひどく汚れてすり切れ、せて目の大きさばかりが目立つ。親とはぐれたか、あるいは捨て児かと、男はあわてて話題を変えた。

「ところで、ぼうやはこのあたりで舟を貸してくれる漁師を知らないかね」

 男は沖の小島にあごをしゃくって、浜で立ち往生している息子を示した。まだ言葉も満足にしゃべれそうにない幼児を相手に無理な相談ではあったが、異郷ではわらにもすがる思いである。

 幼子は小島に目をやり、なにやら考え込んでいたようすだったが、やがて男に視線を戻した。おもむろに肩から斜めにさげていた革の袋に手を入れる。中から桃の実ほどの大きさの空色の玉をとりだし、波打ち際へと歩きだす。胸にそうぎよくをしっかりと抱きかかえると、小さな足を打ち寄せる波の上に乗せた。

「あ、こら、おぼれるぞ」

 いくら海人の子でも、こんな小さいうちから波を越えて泳げるはずがない。男が幼子を抱き上げようと手を出したとき、その怪異が起こった。

 寄せていた波が、沖へと退き始めたのだ。

 おおぅ、と声を上げる男のおどろきをよそに、幼子は退いてゆく波を追って、れた砂浜を裸足はだしで駆け出した。男は操られるように幼子の後を追う。濡れた砂に足をとられつつも、幼子と旅の男は、難なく小島にたどり着いた。そして、男は泣きべそをかく息子の手を引き、蒼玉を抱えた幼子を肩車し、干潮の浜を急いで戻った。

 男の肩の上から見渡す世界に興奮したらしき幼子は、きゃっきゃっと声を上げてはしゃぎながら、小さな足をぱたぱたと動かす。

 砂の乾いたところまで戻ると、男は小島をふり返った。海はもとどおりの満潮に夕陽を映し、島の影を黒々と浮かび上がらせていた。

 まるで、なにひとつ変わったことなど起こらなかったかのように、無限の波がかれらの足元に打ち寄せている。

 幼子を肩からおろした男は、の念を込めてその幼子のひとみをのぞきこみ、おそるおそる話しかける。

「ぼうやはかい?」

 とたんに、幼子から肩車を楽しんでいた無邪気な表情が消えせ、瞳は光を失った。おびえたようにあたりを見回し、蒼玉を革の袋に戻しながらじりじりとあとずさる。

 本来ならば、まだ親や子守のそばをかたときもはなれることなく、家族に守られているはずの年頃の子が、突然見せた警戒心と恐怖心に、男は胸を突かれた。

 改めて見れば、幼子のみすぼらしさ、瘦せ細り方は尋常ではない。ずいぶんと幼く見えるが、食べ物を充分に与えられていないために、育ちが遅れているのかもしれない。

「怖がらなくていい。ぼうやはお腹がいてないか。わしらもゆうにするところだったんだよ」

 荷物を開いて、笹の葉にくるまれたいいを分けてやる。男の厚意をどう受け取ってよいかわからぬように、緑色の塊と男の顔を見比べていた幼子であったが、それまでおとなしくようすを見ていた男の息子が「こうやって食うんだよ」と、笹の葉を広げて中の飯をほおばって見せた。

 見よう見まねで笹飯を開いた幼子は、鼻をくすぐるひしおの甘辛い匂いに、はじかれたような勢いで蒸し飯を口に押し込み始めた。

 男の住むきたでは、神秘の力を授かったこどもは、神子として大切に養育されるものだが、地方や部族によっては鬼子として忌まれることもあると聞く。男は南久慈に数の多いという海人族の風習には詳しくなかったが、うしおを操る力を持つこの幼子が、なんらかの理由で放逐されたことはあり得ると想像した。親なし児の所有物には似つかわしくない玉の説明はつきかねたが、日没時になっても誰も捜しに来ない瘦せこけた幼子、不安そうに立ち尽くす息子の恩人を置き去りにして、旅を続けることはできなかった。

「わしらはきん師でな。行くところがないなら、わしらと来るといい。工房には男の子は何人いてもいいからな」

 善意に満ちた申し出に、幼子はいっそう目を見開いて男を見上げた。幼子らしくない反応に、男は途方に暮れて頭をかいた。

「ぼうや、名はなんというんだ」

 幼子はひたすら目をみはったまま、困ったように男を見つめるばかりである。

「名がないのか。とりあえず、そうだな。うちに来てちゃんと飯を食ってだな、強い男になれるよう、この久慈の大島でも、一番たけだけしいという海人族のはやの民にちなんで、隼人と呼ぼうか」

 男の申し出と純粋な厚意を理解したのか、幼子はまばたきを繰り返し、米粒のついた口元をぎゅっとゆがめると、ひくひくと肩を震わせ、声を出さずに涙をこぼしはじめた──


 隼人の両の目尻から、それぞれひと筋ずつの涙がこぼれて、こめかみをぬらした。

 ──ああ、おれはうちの子じゃなかったんだよな──

 隼人はしみじみと夢で見た光景を思い返す。

 両親に引き取られてきたいきさつは、まったく記憶に残っていなかったが、隼人の浅黒い肌の色や、彫りの深い顔立ちは、両親や兄妹きようだいはもちろん、阿古の里のだれにも似ていない。隼人が北久慈の生まれではないことは、口さがない里人の噂を耳にするまでもなく、あきらかなことだ。

 隼人がもらい子であるということも、どこで生まれてどこから来たのかということも、家で話題になることはなかった。兄や両親に訊けば答えてくれただろうが、そんなことは問題にならないほど、隼人の両親はかれを実の息子同様にかわいがり、育ててくれたのだ。

 ──ごめん、とうさん、かあさん、ヒナノを守れなかったよ。せっかく育ててもらったのに、なんの役にも立たなくて──

 目覚めの夢は、記憶の底に封印されていた、父と兄との出会い。

 ちゃんと覚えていたのだ。どうして忘れていたのだろう。初めて体験した肩車、笹の葉の香る、蒸し飯の味。眠りの中、あるいはぼんやりしていると、どこからともなく聞こえてくる耳鳴りの正体、大洋から押し寄せる、やむことのないしおさいの音。

 ぼんやりと意識が戻り、目の痛みを覚える。痛みを感じたのは煙のためではなく、光のせいであった。

 まぶたを上げれば、燃え尽きた阿古の里を朝日が照らしている。

 昨夜の災厄は夢や幻ではなく、現実にあったことだ。

「ヒナノ!」

 隼人は飛び起き、立ち上がろうとしたが、首と後頭部に走った激痛に目がくらみ、足首にわだかまる縄に足を取られて前のめりに倒れた。地面でひざをしたたかに打つ。

「隼人、起きたか」

 サザキの声に、隼人は我に返る。足下の縄はおおまたで歩いたり走ったりできないように、短い遊びを残して、隼人の両足に結びつけられていた。

「なんだよ、これ」

「おれたち、くしの奴隷にされるんだよ。おまえの頭、大丈夫か」

 サザキが忌々しげに吐き捨て、隼人の頭に手を伸ばす。

「痛っ」

「たんこぶができてる。あんまり暴れるなよ。冷やしてやりたくても、おれらみんな足を縛られてて、動けない」

 言われてあたりを見回すと、里の男児が集められていた。こうじんの家の子も、農奴の子もひとまとめにされて、勝手に歩き回れないように細長い縄で足をくくられている。そのうえ、ふたりの戦奴がこどもたちを見張り、ささやき合う隼人とサザキを、ろんな目でにらみつけていた。

「とうさんたちは、どうなった」

「老人は殺されて、おとなたちは夜明け前にどこかへ連れて行かれた。たぶん津櫛のおおさとへ連れて行かれたんだと思う」

 久慈大島の集落は、人口と規模が大きくなるにつれて、こざとむらさと、大郷と名前が変わっていくが、その明確な基準は阿古の里から出たことのない隼人にはわからない。

 隼人の知っていることは、久慈大島には五つのくにがあるということ。それぞれの邦にひとつの大郷があるということ。諸邦の大郷には、祖神をまつさいの宮があり、そこには久慈四神の直系の子孫であり、ゆえにげきおさであるるのくらが住んでいるということ。そして、その大郷にはたくさんの人々が住んでいて、阿古の里の何倍もの家や倉庫が並んでいるということだ。

 阿古の里は、久慈大島の東海に面し、工芸の盛んなとよのくにに属する、やまあいの小さな集落だ。豊邦は東に海峡を隔てたあきしまや、内海の対岸にあるよのしまとの交易も盛んだ。

 しかし、交易においては、西海の彼方かなたから来るらいの民とも取引きをし、近隣にくにの民も多く住む北岸のくしのくにがより富み栄えていると、いつか父と兄が話していた。稲作に適した平野に恵まれ、人口は久慈大島でもっとも多いという。

 豊邦よりも豊かだという津櫛邦が、どうして小さな阿古の里を襲う必要があったのだろう。豊邦の日留座は老齢の巫女みこで、争う理由も思いつかない。

 隼人が爪をかみながら、どうしたらこの場を逃げ出して、さらわれた両親と兄妹を津櫛邦から助け出すことができるのか考え込んでいると、五、六人の戦奴が長い縄を持ってきて、こどもたちに立ち上がって三列に並ぶように怒鳴りつけた。

 怯えと疲労のために、こどもたちの反応は鈍かった。気の短い戦奴が近くのこどもを蹴飛ばすと、みな一斉に立ち上がって言われたとおりにした。

 縦に三列に並ばせたこどもたちの首に、戦奴は縄をかけていった。指が二本はいるかというくらいに締めて、同じ縄で同列の二番め、三番めのこどもたちの首に、順番に縄をかけてゆく。隼人は真ん中から少しうしろあたりに立たされた。首に触れる戦奴の汚れた爪に身震いをこらえる。

 先頭の戦奴が、最前列のこどもたちの首から伸びた縄を束ねて持ち、軽くひっぱった。

 ダミ声で出発を告げる。

 どこへ、なんのために連れ去られるのか、まったく説明もされないまま、歩調を合わせなければ一斉に転んでしまう危険を避けるため、隼人たちはなすすべもなくただ左右の足を交互に前に出すしかない。


 じりじりと焼けつくような初夏の陽射しの下、やりを持った戦奴に囲まれ、首を縄でゆるやかにつながれた、七歳から十五歳くらいまでの裸足の捕虜たちが、足を引きずりながら歩き続ける。

 朝から何も食べていない。水は与えられたが、中空に昇りきった太陽に、全部吸い取られたのではと思うほど、のども肌もからからだ。

 隼人が口で息をするたびに、熱く乾いた空気とほこりが口の中に入り込み、のどにはりつく。下を向けば目に流れ込んでいた汗もいつしか止まり、つばれてしまったようで、のどの奥がひりひりと痛んだ。足は傷だらけで、もももふくらはぎもこわばり、いまにも足がってたおれそうだ。いちどでもたおれてしまったら、そのまま道ばたに打ち捨てられてしまいそうな恐怖に、幼い捕虜たちはただひたすらに右足と左足を交互に前へ出し続ける。

 もうろうとした隼人の意識のなかで、平和な里を襲った昨夜の悪夢が繰り返される。

 父母と兄妹と暮らした家も、ついその日の夕刻まで、隼人が父と兄とともに働いていた冶金工房も、翌朝には煙のくすぶるかいじんとなっていた。隼人が精魂を込めて何日もかけて磨き上げた、豊邦のるのくらに献納するはずだった銅鏡も、新苗の祭りに、舞娘に選ばれた妹の腕を飾るため、初めてひとりで彫り上げたすずくしろの鋳型も、家族がそろって生きてきた日々もみな、燃え尽きてしまったのだ。

 恐ろしい形相の津櫛の戦奴に、引きはがされるように連れ去られた妹、無事を確かめられなかった両親と兄を思って、隼人が胃の絞られるような痛みに耐えていたときだった。

 前を歩いていたこどもがよろけた。ひとりひとりの首が、一本の長い縄でつながれているために、ひとりが転べば、並べた積み木がたおれるように行列が崩れる。

 幼い捕虜たちは立ち上がる気力もなく、そのまま地面に座り込む。

 前後を見張っていた津櫛の戦奴らが、つながれたこどもたちを寄せ集めた。

 みなと同じように、疲れ切ってしゃがみこんでしまった隼人は、手に細長いものを押しつけられるのを感じて、重いまぶたを上げた。それは竹の水筒だった。隼人は反射的に口へもってゆき、あっという間に中の水を飲み干してしまう。

「全部飲むな」

 水筒を渡してくれた者の声を聞いたが、間に合わない。その声の主は、隼人の手から水筒を奪い返すと腰の水袋から水を足し、ほかのこどもたちに回し飲むように命じる。

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