天涯の楽土

篠原悠希/角川文庫 キャラクター文芸

序章

 誰もが寝入っていた夜半、異変を告げる警鐘が激しく鳴らされた。

 はやの父親と兄は飛び起き、外へと走り出した。隼人は寝ぼけてしがみついてくる妹のヒナノを起こし、開け放たれた戸口へと土の階段をうようにして登った。戸のすぐ外で、隼人とヒナノの名を呼ぶ母親の声を追って表に出たとたん、目のくらむ真昼のような明るさと、肺を焼く鎔鉱炉のごとき熱気に隼人は身がすくんだ。

 こざとの外縁に並ぶ、農奴らのふせが巨大ないくつもの松明たいまつとなって燃えさかり、あたりを照らしていた。方形に掘った地面の上に、厚いわらき屋根をかぶせた伏屋は、風に乗って飛んできた火の粉を浴びて、瞬く間に燃えさかる。

 混乱し逃げ惑う里人に声をかけても、立ち止まって隼人たちに状況を説明してくれる者はいない。多少の冷静さを保つ者は、早く避難するように隼人らに呼びかけ、山へと逃げてゆく。

 火の手はすでに里の内側に及んでいた。炎の起こす風に、すさまじい勢いで吹き上げられた火の粉が、あちらこちらの藁屋根に燃え移っていく。もはやどこが火元であったのかもわからない。木造の高床倉庫や、里のげきが祖神をまつる宮室は、高く掲げた巨大なかがりのように夜空を焦がしていた。

 隼人の家も、屋根に燃え移った火がぶすぶすと煙を上げ始めていた。よく乾いた藁は隼人の目の前でめらめらと燃え上がる。

 母は、ひとつ年下の妹を連れて、山中のいわうろに逃げ込むよう、隼人に言いつける。

「かあさんは? 一緒に行かないの?」

 隼人は不安のあまり叫び返した。

「工房を見に行ったお父さんたちと一緒に、あとを追うから、隼人はヒナノを連れてみんなと逃げなさい」

 妹の小さな手を握って、言われたとおりに山に向かって駆け出した隼人は、火災の届かぬ小高い森の縁に来て立ち止まった。そこには里の女やこどもが集まり、隼人のように未練がましく燃え落ちるの里を見つめている。

 隼人は父と兄の姿を求めて里の中心に建つ工房へと振り返った。しかし、かれの目に映ったのは、この日も父や兄とともに働いていた工房の藁屋根が、すでに火炎に包まれ、焼け落ちてゆくさまであった。

 そして、奇声を上げ、やりを振り回しながら、の里へとなだれ込む男たちの群れ。

 工房や高床の倉に納められた里の財産を、火災から守ろうと消火に奮闘する阿古の男たちは、突然襲ってきた『敵』から、身を守る防具も、戦うための武器もなにひとつ持ってはいない。立ち向かうことも、逃げることもできぬうちに、次々と倒されていく。

くしのくにせんどもだ。こどもと女は急いで山奥の岩洞に隠れろ。あいつらに捕まったら何をされるかわからんぞ!」

 避難を促す年寄りは、ついてこいと身振りして、先頭を切って森の細道へと踏み込んでゆく。

「とうさんっ!」

 里へ駆け戻りたい衝動をかろうじてこらえさせたのは、かれのてのひらを必死で握り返す、妹ヒナノの小さな手であった。いまや両親とはぐれた隼人とヒナノは、里人たちが集まる山の避難所へと向かうほかに、助かるすべを知らない。

「隼人! 無事だったか」

 隼人の頭上から声をかけてきたのは、おさなじみサザキ鷦鷯だ。今年のうちに成人するサザキは、隼人の遊び仲間では最年長で、少年というには背丈も幅もすでに一人前のおとなと変わらない。年寄りと女こどもばかりの避難組では、いかにも頼りがいがある。

 サザキは右手でひとりの少年のひじをつかんでいた。サザキが連れていたのは、隼人よりひとつ年上のふみだ。サザキに比べて、ひょろりと細い体つきの史人は、不安そうに唇をみ、両手で耳をふさいでいる。阿古のこどもたちの中では一番頭の良い史人は、として里の宮を預かるかんなぎに弟子入りしていた。優しい性格ではあるが、大きな音が嫌いで、恐ろしいことに出遭うと身も心も固まってしまい、判断力も行動力もなくしてしまう。

 兄たちがすべて成人し、守る弟妹のいないサザキは、警鐘を聞いてまっさきに史人を迎えに行ったのだろう。ふたりの背後から、年老いた里のかんなぎが、白く長い髪を振り乱し、息を切らしながらついてきていた。

 避難する里人に遅れがちな巫の手を取ろうと、隼人は妹とつないでいたのと反対の手を伸ばそうとした。

 巫はわずかに隼人の手の届かぬ先で、苦痛と恐怖に目を見張り、前のめりに倒れる。

 地に伏した巫の背後に立っていたのは、頰に三日月形の刺青いれずみをさし、くしも通したことのなさそうなボサボサの髪を、耳の上でに結った不潔そうなくしの戦奴だった。

 恐怖に立ちすくむ隼人の視界に同じような風体の戦奴が、次々に現れる。

 森に逃げ込もうとしていた里人たちに追いついた戦奴らは、村の女やこどもたちをひったくるようにして連れ去った。抵抗する女は、られたり殴られたりして泣き叫ぶ。母や娘を守ろうととりすがっては、戦奴らに殴り倒される少年や年寄りたちの悲鳴も加わり、隼人の周囲は大変な混乱となっていく。

 隼人はヒナノを強く抱き寄せて抵抗したが、戦奴が笑いながら振り下ろした槍の柄に頭を打たれた隙に、引きがされるようにして妹を奪われた。

「ヒナノ! ヒナノを返せっ」

 隼人を打った戦奴は、泣き叫ぶ妹の髪をつかんで引きずってゆく。妹の名を呼びながら後を追おうとする隼人を、背後から別の戦奴が殴りつける。

 頭を二度も槍の柄で打たれた隼人は、意識がもうろうとして前のめりに倒れた。地面に両手をつき、首を振りつつ顔を上げれば、さらに打ち下ろされる槍の柄が見えた。隼人が身をすくませるよりも早く、誰かに体当たりされて横へと転がりちようちやくを免れる。

 地面から見上げると、隼人の代わりにサザキが打たれていた。

 隼人の危険を見かねて、サザキが戦奴と隼人の間に入って助けてくれたのだ。腕で頭をかばうサザキを、津櫛の戦奴は何度か打擲してから、つばを吐いて立ち去った。その向こうで、亀のように身を丸めて地面に倒れ伏す史人が見える。

「サザキ、」

 ちゃんと礼を言いたかったのに、隼人は頭がぐらぐらして言葉が出せない。周囲がいまだ騒然とするなか、妹が連れ去られた先を目で追うこともできずに意識を失ってしまった。

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