第35話 霧がはれなければ

 男はひとしきり笑った後で、


「自分のために怒っていただけるって、こうも嬉しいものなんですね…」


 と、小さく、独り言のようにつぶやいた。


「…」

 この人が喜ぶなら、さっきの笑顔が見られるなら、自分は狂ったように怒る。何時間でも、何日でも。


 そう思ったところで、男を縛る苦手意識さえ、どうすることもできないことが、澪にはひどく、口惜しく思った。



 そこで、ぷつんと会話が途切れた。


 2缶目のビールも飲み干してしまい、何か話さなければと澪が焦りを感じ始めた頃、


「ところで、…ますみさん」


 と、男は口を開いた。

 とにかく、この男の声に、澪の心臓は跳ね上がるように反応した。


「霧が、このままはれなければ、今夜はこちらに…泊まっていただけませんか?」


「えっ…」

 突然の提案に、全身に力が入った。


「もちろん、霧がはれたらすぐ、旅館へお送りします。ですが、ここまで深い霧では、朝まで身動きは無理かと…」


 澪は、男の背後、窓の奥に立ち込める白い霧に目をやり、そして困った様子の男へと目線を戻した。


「明朝は晴れる予報なので、車でお送りできるはずです。お引き止めするのは心苦しいのですが…、街灯もない険しい山道ですので、安全を第一に考えると、無理に動く方が危険かと思います」


 男の申し出に、澪は濃霧の中を運転しろとは、言えるはずもなかった。


「そう…ですよね」


「二階の寝室なら、鍵もかけられます。私は別室で寝ますので。どうでしょう?」


 ひどく気を遣っている話し方だった。


「はい。申し訳ないですが、お世話になります」


 澪は言うと、ぺこりと頭を下げた。


 先程の妄想のせいで、淡い期待が胸をかすめて、実を言うとかなりドキドキした。

 他意がなかったといえば、嘘になる。



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