第32話 一人旅

「霧が…、はれませんね」


 男は澪の奥の窓に目をやり、つぶやくと、席を立った。


 男は暖炉に薪を足し、窓を開けて外の様子を確認すると、ダイニングテーブルに戻って座った。


「送ると言っておきながら、足止めしてしまって…。灰屋旅館では、どなたか、お待ちですよね」


 男が申し訳なさそうに言ったので、


「いいえ。一人旅です」


 と、澪は答えた。


「先程は、旅館に夕飯のキャンセルをお願いしただけです。問題ありません」


「あの高級旅館に、お一人…?」


 これまで表情に変化なく、常に穏やかだった男が、目を見開いて澪を見返していた。相当な驚きであったと思われた。


「ええ。何かおかしい、です…かね?」


 澪は、言ったあとで、確かにおかしいわ、と思い直した。


 灰屋旅館は、一泊数十万する人気高級宿。もちろん、シングルルームなどない。

 オーナーの灰屋日向ひなたが融通をきかせてくれなければ、こんな泥だらけのすっぴん女が一人で泊まるなんて、おかしいどころか、相当怪しい。


「あ、いえ…。あの旅館の夕食と、このレトルトカレーでは、あまりに落差がありすぎて…」


 男は目をそらして、所在なさげに言った。その姿がなんだか可愛らしく見え、


「あなたのような素敵な方と食べるカレーの方が、一人で食べるご馳走より美味しいです」


 と、澪は嬉しそうに口走っていた。


「…」


 男は即答できず、澪を見たまま無言で固まっていた。


「あ、あの。というか、私の方こそ、ご厚意に甘えてばかりで、すみません…。あなたの方こそ、お待ちになってる方がいるでしょうから、申し訳ないです。奥さまか、彼女さんにですね…」


 澪は焦って、全身から火が出るような勢いで謝罪した。

 ビールは1本半しか飲んでいないが、目の前の男が好みすぎた。

 舞い上がっていたことを大いに反省しているところへ、


「そのような女性はいないので、お気になさらず」


 男は苦笑いしつつ、穏やかに言った。


「…え。なぜ?」


「なぜ、って…。不甲斐ない私には、そういった、ご縁がないのだと思います」


 男がそう言いながら、穏やかに微笑んだのを見て、


「…の、…だわ」


 ボソッと、澪は心の声を漏らしていた。


「え? 何とおっしゃいました?」


「そんなの、不条理だわ!」


 澪は身を乗り出し、声を張り上げた。

 勝手にものすごく、納得がいかなかった。


「は?」


「あなたのような、できた方が不甲斐ないとか、ご縁がないなんて。相応の方が、隣にいて然るべきよ。私なんか、助けてる場合じゃないわ!」


「え…、あの?」


 男は恐縮して、落ち着いてくださいと言わんばかりに両手を軽く澪に向けた。


 澪は、ハッとして、乗り上げた身体を縮こませながら椅子に戻した。今のは、酔っぱらいのオッサンが言うセリフだ。


「すみません。初対面なのに、押し付けがましくて…」


 穴があったら入りたかった。

 普段、他人のプライベートに意見などしないのに、自分でも今の自分が何をしでかすか分からない。


「…ますみさんこそ。崖から滑落したにもかかわらず無傷という、その運の強さ。見ず知らずの葵を助ける度胸。灰屋旅館にお一人とはもったいない。素晴らしいパートナーの方と、泊まって然るべきだと思いますが?」


 男は、柔らかに切り返してきた。


(この人は、きっと相手に、恥をかかせない人なのね…)


 男が気を悪くしなかっただけでもありがたかったが、軽く頬杖をつき、笑みを浮かべながら言ってくれたことで、澪は赤面しつつもホッとした。

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