第31話 ダルカレーと返り討ち

「まだ、霧がはれませんので、何か食べましょうか」


 男は話題を変えるようにダイニングへ移動し、保存食の箱をいくつかテーブルに並べ、


「お好きなものは、ありますか?」


 と、澪を呼んで聞いた。澪はティッシュで鼻をおさえながら、


「あ、このダルカレー、好きです」


 と、右端の箱を指さし、こもった声で答えた。

 以前、紅から贈られたことがあり、ナオと一緒に食べたことがあった。


「そうですか。あまり見かけない商品なのですが、よくご存知ですね」


「ええ。以前、友人の勧めで食べたことがあって。私ヴィーガンではないけど、スパイスの効いたひよこ豆が、ビールに良く合…う…」


 澪は、そこまで言うとハッとして、ティッシュを鼻の下で持ったまま固った。


「確かに、ビールにも合いますよね」


 男はさらりと受け取って言うと、冷蔵庫を開け、


「宜しかったら、飲みますか?」


 と、いくつか缶ビールを出して、勧めてきた。

 澪の好きな銘柄ばかりをテーブルに並べて。


(風呂上がりに、ビールとスパイシーカレー! なにそれ。最高なんですけど!)


 澪はアル中のように、ゆるんだ顔の表情を抑えられず、つい手が伸びていた。


「これが、一番好きで…。い、いいんですか?」


 ものすごくお腹がすいていたせいもあるが、ビールの誘惑には抗えない。


「もちろんです。私は運転するので遠慮しますが。もしワインが良ければ…」


「いえ、ぜひビールで。お言葉に、甘えたいと思います」


 澪は、ビールだけなら6本以上飲まないと酔わない。普段、見知らぬ男の前で飲まないが、…いい、今日は特別2本まで、それ以上は飲まないと自分の良心に誓った。


「私も、このカレーにします」


 男は全く気にする様子なく、澪の前に冷えたビール2本とグラスを置き、沸き立つ湯の中にレトルトの袋を二つ入れ、テーブルにナンやカレー、ホットサラダ、チーズなどを並べていった。


 空腹も手伝ってか、特にダルカレーは格別に感じた。

 スパイシーなカレーと、冷えたビールの美味いこと!


 食事中に顔を上げると、男は必ずと言っていいほど、視線に気づいて澪を見た。


「美味しそうに召し上がりますね。温めただけですが、作った甲斐があります」


 などと、好意的に言われてはたまらない。

 澪は「美味しいです」と繰り返し、夢中で食事を進めた。


 食事をする男の所作には品があり、さりげなく美しかった。目が合うたび、澪はぐっと心臓にわしづかみを食らい、男に話しかけると、返答ごとに返り討ちにあう。


 思考が混乱し、どうしたらいいのか、いつもはスプーンをどう握っていたのかすら、分からなくなってしまう。


「あの…、それにしても、山岳救助って、素晴らしい技術ですね。ロープひとつで降りてこられたとき、神業みたいで驚きました」


「ありがとうございます。私は懸垂下降中、つい手元がもたついてしまうのですが、今日来てくださった特別救助隊員の手際の良さ、洗練されていて、まさに神業でしたね」


 何か話さなければと、澪が口を開けばこうだ。

 男には、驕れる部分をひた隠す様子も、誰かを押しのけようとする様子もない。


「確かに…。ヘリから降りてこられた隊員さん、ものすごくきびきびされてましたね」


「ええ、厳しいロープ訓練の賜物だと思います」


 心からの敬意を、男はさらっと口にした。


「また見てみたいぐらい…って、そんな何度も救助されてちゃ、ダメですけど」


「いえ。災害はいつ何時起こるか分からないので、救助するのもされるのも、お互いさまです」


「お互いさま…。そうですね。あなたが来てくださって、あぁ、本当にありがたいと、思ったんです」


「私もそうです。葵一人では、命こそ危うかったでしょうから。ますみさんがいてくださらなければ、一生後悔していたと思います」


 男からは、水の巡りのように、自ら発した言葉がすっと浸透するような心地よさで戻ってくる。ただ穏やかで、大きく包み込まれるような感覚と、それらに過剰に反応する熱が、澪の身体にこもっていくのだ。

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