第30話 ぶれない人

 男がストーブや夕飯を準備する間、澪は浴室を借りることになった。


 当初はさすがに断るつもりだったが、手渡された女性用のアメニティセットは、昨夜使ったものと同じで、灰屋旅館のロゴがついていた。


 宿泊客の捜索を手掛けることもあるため、旅館から譲られるそうだ。


 灰屋家が信頼するとは、余程のことだ。妙な勘繰りは必要ない。そう澪は判断し、厚意に甘えることにした。


 本音を言えば、とにかく風呂に入りたかった。

 髪の毛から服の中まで、砂がまとわりついており、ザラザラと気持ちが悪かった。


 見上げると、浴室の上部にある小さな窓からは、白い霧が立ちこめているのが見えた。


(…ったら、いいのに…)


 澪はハッとして、一瞬よぎった思いを、首を横に振って、頭から追い出した。


(バカバカ、なに血迷ってるの。いろいろあって、頭がパニクってるのよ!)


 澪は自分に言い聞かせ、もう一度勢いよくシャンプーした。


 気を抜けば、足が震えだしそうだった。男の姿も、声も、手の力強さも、澪の神経を逆撫でしては、ゾクゾクと全身を這うように埋め尽くしていく…。



 澪は髪を乾かして浴室を出ると、薪ストーブの前にいる男に近づき、礼を言った。


「お風呂も服も、ありがとうございました。さすがに砂だらけで…。さっぱりしました」


 とはいえ、シャンプーしすぎて髪が悲惨なことになっているし、もちろんすっぴんだ。

 泥だらけよりはマシだが、女子力は落ちるところまで落ちた。今日は崖からも落ちたしと、澪は半ばヤケクソ気味に思っていると、


「見覚えのない、あざや傷などは、なかったですか?」


 男は薪をくべる手を止め、澪の目を見て尋ねてきた。

 いたわるということを、よく知った人の目だった。


「…はい。それは、なかったです」


 澪がそう答えると、男は柔らかく微笑みながら、うなずいた。


 ぶれない人だなと、澪は思った。


 ストーブの火が、パチパチと小さく音をたてて、柔らかな暖かさを灯していた。


「服、大きいですね。小柄な弟のものですが、今はそれぐらいしかなくて…」


 澪は、男が用意してくれたスウェットを身につけていた。裾などを破いた服の見た目が、雑巾よりも悲惨だったからだ。


「いえ、ゆったりしてるから、楽ちんです。今度、洗ってお返しします」


 澪の言葉に、男は小さく首を振った。


「もう使っていないので、構わず捨ててください。それより、あなたのお名前、うかがっても宜しいですか?」


「私ですか? た…」


 澪は名乗ろうとして、ぐっと喉を詰まらせた。


「た?」


 男が聞き返した。本名は名乗れないと咄嗟に思い、


「た…なか、です」


 澪は苦し紛れに、思いついた苗字を口にした。嘘を言うのは、あまりに心臓に悪かった。


「たなかさん。下の名前は?」


「ま、み…、ますみです」


 澪は焦りすぎて、どもってしまった。『ますみ』だなんて苦しすぎると、自分でも思ったが、口から出たものは取り消せない。


「みますみさん?」

 男は聞き返した。澪は心の中で悲鳴をあげた。


「ますみ、…です」


 澪は苦しいのと恥ずかしいのとで、男の顔をまともに見られずうつむいた。


「…『たなかますみ』さん。先ほど、葵の母親から連絡がありまして、葵は右足の骨折のみで、大事には至らずすんだそうです」


「っ…!」


 その言葉に、澪はばっと顔を上げた。

 男が柔らかく微笑んでいるのを見て、先程まで心臓を貫いていた、太いつかえが瞬時にとれた。


「…っっ。本当ですかっ! 良かった…。あぁ、良かっ…良かったです」


 男は続けて、葵の骨折はあなたのせいではないので、気に病まないで欲しいと言った。


「葵を守ってくださり、ありがとうございます。葵の両親に代わり、心から御礼申し上げます」


 男は、心をこめた言葉を口にした。


 澪は全身の力が抜けるような心地がして、目からは涙が勝手に溢れた。骨折させたことは決して良いことではないが、他に言葉が思い浮かばなかった。


「あなたの応急処置が的確と、救急救命士が褒め…」


 男は言葉を切って立ち上がると、箱ティッシュを手に取り、澪の前に差し出した。


「どうぞ」

「すみません。ちょっと…、はぁ…、すみません」


 澪は箱ごと受け取り、涙を拭いた。


「…いえ。葵を心配してくださり、ありがたく思います。骨折もたいしたことなく、明日には退院できるそうです」


 男は優しい声で言った。


「葵ちゃん、よかった…」


 葵が必死に痛みをこらえた時の顔が思い浮かび、次々涙があふれ出てきた。


 澪の見立てでは、最低でも一週間の入院と、ボルト固定の手術が必要だろうと踏んでいた。翌日退院とは、なんという不幸中の幸いだろう。


 澪は涙を拭き、鼻水もかんだ。

 不恰好だろうが、もう仕方なかった。

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