第29話 雄弁なハラ

 互いに紅茶を飲むだけの、しばらくの沈黙が続いた後、


「大変、申し上げにくいのですが…」


 視線を落としながら、男は重く口を開いた。


「しばらく、こちらで霧がはれるのを待ってから、旅館へ出発しても、構いませんか?」


 澪は、車を降りた際、霧がより深くなっていたことを思い出した。ヘッドライトが霧に反射して、数メートル先の視界も閉ざされていた。


 街灯もない山道を、男があまりに易々と運転するのと、車酔いの気持ち悪さに、考えが及んでいなかった。冷静に考えると確かに、あの山道を運転させるのは、危険が伴う。


「あ…はい、もちろんです。真っ白で、何も見えませんもんね」


 と、澪は答えた。他意はなかった。


「すみません。山道の運転は慣れているのですが、濃霧の中、他人を同乗させるのは、ちょっと…。すぐに部屋を暖めますし、良かったら服も、男物しかありませんが、そのままでは風邪をひいて…」


 気をつかってか、早口に男が話しかける中、


『ぐぅ~…きゅるぅぅ~』


 と、澪のお腹が鳴った。

 静かなログハウスに、その音は盛大に響き渡り、男は瞬きしたあと、苦笑した。


「お腹…も、すきましたよね。私もです」


「…はい」


 澪は泣き出したいほど恥ずかしかった。なんと雄弁な腹であろうかと、澪はうつむいて自分の腹を思いきり睨んだ。


「ちょっと、お待ちくださいね」


 男は穏やかに言うと、立ち上がってパントリーを開け、小袋のクッキーやドライフルーツを木の器に盛って、目の前に差し出してくれた。


「何から、何まで…」


 男が開けたパントリーには、保存食がぎっしりと詰まっていた。この人は、魔法使いなんじゃないかと、澪には思えたほどだ。


「ここは登山ルートに近いので、非常時には捜索隊が寄ることもあります。保存食は多めに用意してあるんですよ」


 澪の心を見透かすように、男は説明した。


「向こうにあった、たくさんの寝袋は、そのためなんですね」


「はい。自然豊かで、アウトドアを楽しむには最適な場所です。客人は珍しくないので気兼ねなく…、というのは難しいかもしれませんが、霧がはれるまで、少しゆっくりしていただけたら」


 男は、微笑みを浮かべて、穏やかに言った。


 その男の表情に、色気ある低い声に、澪はいちいち全身の肌が逆立った。その感覚を必死に押し殺し、


「ありがとうございます」


 澪は振る舞える限り平然と、しかし丁寧に礼を言った。


 この動揺が伝わってしまうんじゃないかと、さらに動悸する胸を抑えながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る