第28話 少女時代の夢想
男は引き続き黙々と運転し、森の中に佇むログハウスの前で、車を停めた。
車中ゲロという、人生有数の失態を免れたことに心からホッとしながら、澪は車から降りた。
男が玄関ドアを開けて電気を灯したあと、澪は、恐縮しながら足を踏み入れた。
「素敵なログハウスですね。わぁ、薪ストーブまで!」
澪は、思わず歓声をあげた。
広く高さのあるリビングは木の香りで満たされ、釣具やピッケルが壁にかかり、寝袋やテントも、部屋の一角に大量に揃えてあった。
別荘での休暇など無縁だった澪にとって、別世界に来たような目新しさに胸が躍った。
「お手洗いは右手奥、電話はそちらです。ご自由にどうぞ」
男は手のひらをそれぞれに向け、穏やかに言った後、
「何か、温かい飲み物をご用意しますね」
と言って、一人キッチンへ向かった。
澪は清潔に整えられた洗面台で、丁寧に手を洗った。
正面の鏡には、泥がついたままの顔が映し出され、今すぐざぶざぶ洗いたい衝動にかられたが、ぐっと我慢した。
澪はリビングへ移動し、灰屋旅館へ電話をかけた。スタッフと話している間に、手に持つスマホの電池は切れた。
澪が電話の受話器を置いて振り返ると、男がテーブルに、湯気の立つマグカップを用意してくれていた。
「よかったら、どうぞ。ホットティーです。嫌いじゃなければ」
ゆったりとした様子で言った男の顔が目に入った途端、澪は息をのんだ。
これまで、薄暗い中キャップを深くかぶったままの男の顔は、正直よく見えていなかった。
(…なんで)
キャップをとって、ざっくりしたダークネイビーのジップセーターを着て目の前に座る人物には、見覚えがあった。
黒髪にスッキリとした輪郭、端正な顔立ち、穏やかで誠実そうな黒い瞳。
澪がまだ少女の頃、正確に言うならナオに印が出る十二歳の夏まで、もし本気で恋をして、初めて抱きしめられるなら…と繰り返し夢想した、まさにその人物だった。
成長し、大人になって、目の前に座っていた。
かつて理想の男として描いた人物が、泥まみれの自分のために、紅茶をいれてくれたと言う。
(こんな…)
澪は、内臓をひっつかまれでもしたような、鮮烈な衝撃を悟られないよう、理性を必死にかき集め、小さく頭を下げて視線を外した。
「…ありがとうございます」
澪は椅子に腰掛け、両手でマグカップを覆った。心臓が苦しいほどに高鳴った。
澪が紅茶を吹きながら、少しずつ飲む様子を、斜め正面に座る男は、何か言いたげにじっと見つめた。
澪は頭の先からつま先まで、一気に緊張して、紅茶の味も分からなかった。
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