第26話 律儀

 日が沈み、辺りは暗くなってきていた。


 男は、必要以上に干渉してこなかった。

 世間話など一切ない代わりに、危険な要所では、振り返って注意を促した。


 男が誘導するまま、澪はゴツゴツした岩が広がる川沿いを、ひたすらに歩いた。


「ここは滑りますので、手を」


 行く手を遮る、小川の流れる岩の上から、男は振り返って澪に初めて手を伸ばした。


「だぃ…」

 反射的に断ろうと口が動いたが、澪の右手は男の手をとっていた。


 大きく温かい手が、鍛えられた体幹と相まって、苔むす岩でぐらついた澪の身体をがっしりと支えた。


(…反則だわ。こんなの)


 日ごろから鍛えているので、バランス感覚に自信はあった。悔しくもあるが、これほど素直に、男性を頼ったのはいつぶりだろうか。


 1時間ほど歩いたあと、二人は木陰で休憩した。男からシリアルバーと水をもらって食べ、またしばらく川沿いを歩いた。

 微妙にペースダウンした澪に合わせて、男は歩みを進めていった。


 岩の斜面に作りつけられた階段を、二人はロープをつかみながら登り、またしばらく草道を歩くと、整備された山道に出た。


「こちらが登山ルートCコースの折り返し地点です。今夜は、近隣にお泊りのご予定でしたか?」


 男は澪を振り返り、腕時計を確認しながら穏やかな口調で聞いた。


「はい。灰屋旅館に」


 澪は少し息をあげながら答えた。


「暗いので、歩いてお戻りになるのは危険です。私の車で、旅館までお送りします」


 澪はそう言われて初めて、ここから帰る手段など全く考えていなかったことに気がついた。

 足元は男のライトが照らすだけで、街灯もなく、懐中電灯も持っていない。考え無しとはこのことだ。澪自身驚きだった。


 しばらく沈黙していた澪だったが、


「すみません、お願いします。なんの装備もなしに夜の山道なんて、また遭難しそうですから」


 澪は頭を下げ、男の厚意に甘えることにした。


「灰屋旅館は…、そうですね、車だと山を1つ迂回することになるので、二時間半ほどでしょうか。向こうに停車している車です」


 男の指差す方向には、黒のオフロードSUVが停まっていた。


「どうぞ」


 男は後部座席のドアを開けて、乗るよう促した。澪は乗り込もうとして足を止め、振り返ってあわあわと男を見た。


「私…あの、すみません…」

「奥のチャイルドシートが邪魔ですか?」

「いえ、そうじゃなくて。私、全身泥だらけで…。この綺麗なシート、汚しちゃいます」


 慌てる澪に、男は口元に笑みを浮かべた。


「内装を替えたばかりで綺麗に見えますが、車自体は古いものです。お気になさらず」


 男の言葉に、澪はデジャヴのような記憶の交錯が脳内をかすめた。


「こちら、お持ちください」


 低い声でそう言われてハッとすると、男が黒い機器を、澪の胸の前に差し出していた。


「無線…?」


 澪は、ズシリと重量のあるその機器を受け取って聞いた。


「よく知らない男と、車中二人きりというのは、ご不安でしょう? 山中の電波は圏外なので、そちらをお持ちください。赤いボタンを押しながら話せば、京都府の山岳レスキューに連絡できます」


 男は声色一つ変えずに言った。


「あぁ…。律儀でいらっしゃいますね」


「山道なので、かなり揺れます。前方が見える助手席の方が、比較的酔いにくいかもしれませんね。どうぞ、お好きな席へ」


「ありがとうございます。…じゃあ、助手席でもいいですか?」


「はい」


 澪は無線機をポケットにしまい、パンパンッと服に付着した土を丁寧に払い落とした。


 男は助手席に置いてあった救護用品を後部座席へ移動させ、ブーツを脱いでスリッポンに履き替えた。

 左ハンドルのため、助手席は右側だったのだが、やはり革張りのシートは綺麗で、清潔な香りがした。


(こんな律儀な人、初めて会った…)


 澪はひどく恐縮しながら、車内へと乗り込んだ。

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