第24話 夕暮れ

 崖の陰となる澪の付近では、陰が押し寄せ始めていた。のどの奥が渇き始め、澪を不安に突き立てた。


 葵の腕をさすりながらうずくまっていると、かすかに遠くで、警告音かクラクションか、人工的な音が聞こえた気がした。


 澪は起き上がり、防犯ブザーを鳴らして崖の近くまで駆けた。


(気づいて! お願い…!!)


 崖上から、揺れる光が一瞬見えたとたん、ついに防犯ブザーは電池が切れた。澪は顔を上げて、あらん限りの声で叫んだ。


「助けてくださぁぁーい! 崖下です! 助けてくださぁぁーい!!」


 叫び続けていると、人の声が、澪の耳にも確かに届いた。


 さらに叫び続けると、ついに崖上から、


「大丈夫ですか?」


 と、男の声がはっきり聞き取れた。


「山岳救助ボランティアの者です」


 顔は見えなかったが、ハスキーでよく通る、男の人の声だった。


「こちら、2名。女の子が、足を、骨折しています!!」


 澪は、言葉をひとつひとつ区切りながら叫んだ。


「今、ロープでそちらへ降りますから、離れてお待ちください」


 澪は男の声を聞き取り、はぁぁと、胸をなでおろした。叫びすぎて声がかすれ、息切れを起こしていた。


 澪は、すぐさま葵のそばへ駆け寄った。


「葵ちゃん、救助の方が来てくれたわ。でもまだ動かないで。頑張ったわね。もう少しの辛抱よ。必ず助かるからね」


 耳元でそう言うと、葵は小さくうなずいた。

 健気な姿に、澪がそっと頬をなでると、


「ママぁ…」


 と、葵は初めて母を呼んだ。



 崖上から長いロープが落ちてきたあと、救助ボランティアを名乗った男は、タンッ、タンッ、と軽い身のこなしでロープを伝い、崖上から降りてきた。


 長身の、がっしりとした体格の男性で、キャップを目深にかぶった上に、ヘッドライトを装着していた。


「お怪我はありませんか?」


 穏やかだが、きびきびとした態度で、男は尋ねてきた。

 ぐっと胸をとらえる、低い声をしていた。


 澪の顔を見て、男は一瞬息を飲んだ。澪はそのことに気づかないまま、


「私に怪我はありません。それより、骨折した女の子が向こうに…」


 と、澪が指を差して歩き出すと、男は、はい、と頷いて葵の横たわる方向へ駆けた。


「葵! よかった…」


 男性は膝をつくと、葵の手を取った。


「救助要請を聞いて心配した…! 無事でよかった。よく頑張ったな」


「ごめっ…。し、心配かけて、ごめんね…」


 葵は、しゃくりあげながら答えると、せきを切ったように大声で泣いた。


 この方は、知り合いだったのねとホッとしつつ、


「すみませんが、救助ヘリの要請は可能ですか?」


 澪は男に詰め寄って尋ね、崖上を指さしながらさらに畳みかけた。


「向こうの崖から滑落しました。彼女の右足は固定しましたが、完全に骨折しています。目も開けられない状態ですし、他にも…もしかしたら、頭を打っているかもしれません。できるだけ早く、動かさずに移動させてあげたいのです」


 澪は強い眼差しで訴えた。もし、自分に能力があれば、あなたの大切な少女は無傷でいられたと思うと、言葉尻が強くなった。


「救助ヘリは、すでに出動していますから、すぐに連携をとれます。あなたは? 本当にどこも、怪我していらっしゃらない?」


 男は落ち着いた様子で、穏やかに尋ね返してきた。


「私は大丈夫です。あの、…体は、丈夫なので」


「…そうですか」


 男は、自分のジャンパーを脱いで胸ポケットから無線を取り出し、


「大きいでしょうが、こちらを着て」


 と言って、ジャンパーを澪に羽織らせるとすぐ、『救助要請のあった女児を崖下で発見…』などと、無線で連絡を取り始めた。


 思いがけない対応に、澪は、袖が破れ、脚をもさらす自分のひどい格好に今さら気づいて、顔が真っ赤になった。とはいえ、今さら仕方がない。


 澪は、小さく嗚咽を上げる葵に声をかけた。


「葵ちゃん、頑張ったわね。もうすぐ、病院で診てもらえるからね」


 言うと、葵は二度うなずいた。

 本当に、我慢強い子だと思った。


「ひっ…、うん」

「水筒は木に引っかかって取れなかったけど、麦わら帽子は拾っておいたわ」


「うん。ありがとう、お姉ちゃん」


 泥の付いた顔、目元を覆うタオルで表情はあまり分からなかったが、葵は初めて口角を上げた。

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