第20話 ゆっくりって、怖くないよ。

 翌朝、澪はロビーで、ふと目に入った登山マップを手にした。

 山登はしたことがないが、思い立ったらいられなくなっていた。


 澪は部屋に戻り、リュックを担ぐと、すぐさまフロントへ声をかけた。とにかく、普段と違うことがしたかった。


「ええ、分かったわ。ありがとう」


 旅館スタッフの由紀乃ゆきのは、にこやかに登山ルートを案内したが、澪がそのまま出発したのを見て、慌てて澪を呼び止めた。

 由紀乃は、自分の帽子とグローブ、虫除け、まかない用のおにぎりなどを、半ば強引に澪に持たせたのだった。


 エントランスを抜けると、晴れ渡った朝の空気が清々しく、澪はぐっと伸びをした。



 一人登山を開始して2時間。

 最初は順調だったが、アップダウンが思いのほかきつく、澪の息は上がり、足元がふらついた。


「はぁ…、はぁっ。なにこれ、きっつ…」


 それもそのはず。澪がしたのはトレーニングであって、山登りではなかった。1日がかりのBコース、木の根が露出した急坂を、超ハイペースで登ってきたのだった。


 澪には、行楽としての旅行経験がほとんどない。ナオか母に同行する護送、もしくは仕事の出張や視察ばかりで、旅行はそのついでだった。


 肺が苦しい。しかし、引き返すのは悔しすぎた。

 澪は道脇の岩に腰かけ、しばらく休むことにした。


 澪がペットボトルの水を飲んでいると、


「姉ちゃん、大丈夫?」


 と、横から声をかけられた。

 見ると、十歳くらいの少年が立っていた。


「大丈夫って、なにが?」


「忍者みたいに駆け抜けてくから、…その、大丈夫かなって」


 少年は、表情と言葉尻はぶっきらぼうだが、明らかに優しさがにじんでいた。


「心配してくれたの? ありがとう」

「いや、あの…。ほら、山岳救助って大変らしいし」

「そうよね。ペース配分間違えたみたい。気をつけるわ」


 澪が笑顔を向けると、少年は見透かすように、真っ直ぐ澪の目を見た。


「ゆっくりって、別に怖くないよ。それに、1つずつ見て歩けば、岩も草木も、きっと喜ぶから」


 少年の発する言葉の響きに、澪は思わず少年の顔を見返した。切れ長の目が印象的な少年だった。


 家族以外の男性の顔を、焦点を合わせてちゃんと見たのは、いつぶりだろうか。


「なに。俺、変なこと言った?」


「ううん。あなたの感性が、素敵だなぁと思って」


 澪の言葉に、少年はむっとしつつも、分かりやすく照れた。


「はぁ? フツーだよ。こっから山頂まで、まだ2時間以上あんだからな。大人なら、体力温存して歩けよ」


「うん、そうする。どうもありがとう」


 澪が丁寧に頭を下がると、少年は赤い顔で小さくうなずき、すぐに山道を歩き出した。


 小さい頃のナオが、その少年の背中に重なり、澪の口元は、なんとなしにゆるんでいた。



 その後、山慣れしていそうな老夫婦が、ゆっくりと澪の前を通りすぎた。

 熊避けのすずを鳴らし、同じリズムで歩みを進めていたが、先のおじいちゃんがスッと右手人差し指を斜め下に指した。


 そこには、山吹色の花が咲いており、後ろのおばあちゃんは、にこにこしながらうなずいた。


(あぁ、山って、こんな風に歩くのね…。ゆっくりは怖くない。…その通りだわ)


 澪は、息を吐いて、もう一口水を飲んだ。


 次に、カラフルな登山服に身を包んだ、山ガールの三人組がおしゃべりしながら通過していった。


「…でね、その崖崩れでぇ、子犬を救助した男性! もう、すっごいかっこよかったんだからぁ! …それとね、…」


 山ガールたちのキャピキャピした声に、澪の耳が珍しく反応していた。

 他人の話など、これまで意図的に盗み聞きすることがなかった澪は、なんとなくうしろめたさを感じた。


「女子力…」


 澪は誰にも聞こえないよう、自分には皆無である能力を小さくつぶやいた。


 山登り相応のこなれた着こなしと、強力な男センサーを備えた、その女子的能力。脱帽しかなかった。


 澪はスポーツウェアにスニーカー姿だ。トレッキングポールなどなく手ぶらで、由紀乃が貸してくれなければ、帽子さえなかった。女子力は皆無。さすがに軽装すぎたかもしれないと、澪はうつむいた。


「もぉ、遅い遅い! 早く来て!」


 次に通過したのは、ファミリー。女児とその母親だった。


「お兄ちゃん、もうあんな向こうまで行っちゃったよぉ!」

「そんな、せかさないで。急ぐと後でバテるわよ」


 澪は、通り過ぎる二人の足元ばかり、見てしまっていた。


(私って、常識知らずなのかしら…)


 小さい子どもすら、ちゃんと登山靴とゲイターを装備していたからだ。澪は自分の足を覆う、ぺらっとしたスニーカーと見比べた。


「…行こう!」


 澪は小さくつぶやき、ペットボトルのキャップをぐっと閉めると、立ち上がった。


 女子力なかろうがスニーカーだろうが、自ら踏み出した初めの一歩を、無駄にしたくはなかった。


 目の前には、紅葉した木々が風に揺れ、赤く染まった葉を、空へ空へと散らしていた。

 岩も草木も、世界は一つひとつ、美しかった。


(ゆっくりは、怖くない)


 何度も心の中で反芻しながら、澪は山道を踏みしめて歩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る