第19話 友人としてなら…

「はぁ~、生き返るぅ…」


 灰屋旅館は最高だ。

 この源泉かけ流し露天風呂なんか、全身シワシワになるくらい浸かっていたいと、澪は手を合わせて感謝した。


 昨夜は遅くまで紅と飲み食いし、灰屋家のふかふかベッドで一晩泊まった。


 目が覚めてからは、軽く運動し、朝食をとると、美容師がスタンバイしていた。腰まで長く伸ばした髪を、ばっさりショートボブに切り、切った髪をヘアドネーションの機関へ送る手配まで、紅は整えてくれた。

 『別人にしたる』の約束を守った形だ。


 その後、ダイニングへ行くと、眠そうなナオが座っていた。

 ナオの気配が全く分からないことに不安を覚えたが、いつもの気の抜けた顔のナオから、橙華の様子を聞いているうちに、鈍い感覚にも慣れてしまっていた。


 ランチの後、この右京区の高級旅館へ車で送ってもらい、今に至る。



 露天風呂からは、美しい山々が見渡せた。

 すでに紅葉が始まっている木々が、その色彩の深さで、澪を元気づけようとしてくれているように見えた。


「一人かぁ…」

 澪はつぶやいた。


 産みどき、適齢期と呼ばれる女の時限。澪にとっては、あまりに早い到来だ。

 ナオを護りつつ、薬学部で学び、国家試験を受けた。薬剤師としてラボに入り、ようやく仕事のペースをつかみかけていた。


 とたんに、三十という年齢の壁が迫る。


 辰巳の子を、いつ産むのか、いつまでに産むのかと、強迫観念のように澪を締め上げてくる。


「はぁ。修一の精子もらって、凍結保存でもしとけば、良かったのかなぁ…」


 彼氏という存在がいることで、得られていた安心感は、脆く崩れ去った。


 結婚したかったのかと問われると、答えは「ノー」だ。子どもは欲しい。欲しいというより、迫りくる義務感だ。

 辰巳の血を途絶えさせるわけにはいかない。けれど、今ではない気がするし、今しかないような気もする。


 修一は、優しかった。

 多忙な澪にとことん合わせ、酒好きな澪のために、ビアソムリエの資格もとり、いつも笑顔で澪の話に耳を傾けた。


「私より、もっと付き合いがいのある女性のほうが、修一にとっていいと思うわ。別れない?」


「無理」

 酔っぱらった澪が口にした言葉に、修一は即答してきた。


「別れない。短くても、澪との時間が愛おしすぎて、無理」


 ナオや母、家庭教師を引き受けていた司のためにした、デートのキャンセルは数えきれない。地方公務員となり、残業地獄に陥る中でも、修一は文句も言わずにリスケに応じた。


「澪に、会えるだけでいいんだ。一緒にいると、幸せだから」


 埋め合わせるようにセックスしたあと、修一は、よくそう言って照れ笑いした。

 耳元で好きだと繰り返し、優しく抱きしめ、別れる時は、決まって瞳を潤ませた。


 それらが、すべて嘘だったとは思えない。確かに愛されていた。好意を抱いてくれることは、後ろめたくも嬉しく感じていた。


 けれど、…自分は?


 今、むしろホッとしている自分がいることに驚く。


 思えば最近レスだったし、何か歯車がかみ合わなくなっていた気がする。それより、もっと重要なことを見落としている自覚すら、見て見ぬ振りを続けていたことに、沈むような虚しさを感じた。


(…私の気持ちは、いったいどこに入り込めてた?)


 澪は自分自身に問いかけ、そして思い知る。


「何も、出てきやしない。最初から、ダメだったんじゃん。ごめん、ナオ。あんたの方が、よほど真剣だわ…」


 澪は、スウっと大きく息を吸うと、勢いよく温泉の中に頭ごと潜り込んだ。


 周りの音がすべて、くぐもって聞こえた。



「澪さん。最後のお願いです。友人からで構いません。私と、付き合っていただけませんか?」


 修一は澪の研究室に、ダークグレーのスーツ姿で現れ、玉砕覚悟でそう言った。


 修一が工学部博士課程を、澪が薬学部学士課程を卒業する、その当日だった。


 告白されたのは、三度目。

 断ろうと目線を上げたとき、卒業証書を持つ修一の、唇が震えているのを、澪は見てしまった。


 その約1年前、澪のゼミ研究室へ、修一は治験者募集に応募してきた。

 自ら応募したというより、構内でたまたま見た澪に一目惚れして、ふらっと後について入った部屋が、ちょうど治験者への説明会場だった。


「ベータグルカン耐性研究の、治験希望の方ですか?」


 白衣を着た澪に問われ、舞い上がった修一は咄嗟に「はいっ」と、答えていた。


 修一は、澪が世界的な薬学研究者・勝木京子の娘だと知らなかった。

 同級生たちからは、やめとけ、頭の作りからして違う、と揶揄された。それでも、一貫して距離感の変わらない、純朴さがあった。


(嫌い、ではない…)


 少なくともそう思える男性は、澪にとって珍しい存在だった。



「私、本当に忙しくて。ほとんど時間とれないですけど、『友人』としてなら…」


 澪は約四年前、艶やかな袴姿でそう答えた。


(『友人』か。あの時、断っていたら…)


 考えても仕方のないことばかりが浮かんでは渦巻く。


 卒業後しばらくは、確かに友人としての付き合いが続いた。

 澪が、他の男と付き合っていた期間もあったし、修一も、ごく短期間だが、別の彼女がいたこともあった。

 飲み友達としての居心地の良さと、あまりの一途さに情がわいて、修一と付き合うようになった。


 なにが悪かったのか。

 おそらく、曖昧にしたすべてだ。



 このお湯に、つまらないもの全て溶けてしまえばいい――


 勢いよく温泉に吐き出した空気は、泡となり、ゆらいで消えた。

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