第16話 橙華の赤ちゃん
いつ見ても豪華な、灰屋の邸宅へ到着した。
澪がゲストルームに荷物を置き、しばらくすると、ノックの音が聞こえた。
「あの…、澪。休んで来てるとこ悪いけど、お願いしてもええ?」
顔をのぞかせて、紅が遠慮がちに言った。
「メディカルチームが、どうしても澪の意見、聞きたいて…」
「もちろんよ。水臭いこと言わないで」
澪は早口に答えると、スーツケースから使い込んだ薬辞典と手帳をとった。
「なにかあった?」
「妹の
「えっ? 知らなかったわ。おめでとう!」
澪は、目を見開いた。本当に知らなかった。
「そやけど、切迫流産の危険があって、…その、薬の組み合わせについて、アドバイスもらえへんやろか?」
「すぐ行く」
澪は目つきを変えると、歯切れの悪い紅を急かして、ラボの姉妹病院・メディカルルームへ向かった。
澪は、女医の水凪などと意見交換した後、スタッフルームで待つ紅のもとに戻ってきた。
「澪、おおきに…」
「橙華さん、今が耐えどきね。ナオを呼んだから、安心して?」
澪は穏やかに言ったが、紅の顔には焦りがにじんだ。
「そない…。辰巳に頼らなあかんほどなん?」
「状況的には、…厳しいわね。強い薬で抑えてるけど、橙華さん、どうしても動いてしまうんじゃないかしら。このままでは流産の可能性が高い。すごく危険よ」
「あの子自身は元気やさかい…。本やテレビに興味のうて、子どもみたいに、じっとしていられへん。言うても聞かへんし…」
紅は困り果てた様子だった。天真爛漫な橙華の性格を、澪も分かっていた。
20歳をとうに過ぎているが、裸足で野山を馳け、薬はいややと駄々をこね、いつの間にか廊下で寝ていたりする。
そんな彼女が、何もせずじっとしていろと言われて、聞く耳を持たないことぐらい、察しはついた。
「うん。だから、これ以上の投薬よりも、ナオを選択した。そのための、辰巳だもの」
澪は、女医の水凪みのりが分かっていて、あえて自分を呼んだと勘づいていた。
すでに任務を外れたナオに、治療を依頼することは、本来のルートではできないことだからだ。
「おおきに」
「ナオは私に会いに、さっと京都に来るだけよ。お礼言われることじゃないわ」
「ちょうどええ。今、煌陽が東京におるさかい、気絶させてでも、さっと連れてくるわ」
「その予定よ。煌陽なら安心ね」
澪は笑顔で言った。
同じことを煌陽にも伝えてもらっており、改めて紅とは気が合うなと思った。
澪は橙華を見舞うため、そのまま病室へ足を運んだ。
紅がノックしてドアを開けたが、
「橙華、入るで…あぁ! あかん、あかん!」
紅は部屋に入るなり声を張り上げ、急いで駆け寄ると、橙華の手から大きな板を引き離した。
「もう、またキャンバスとってきたんか?」
「絵くらい…。まだあかんのぉ?」
橙華は、頬をぷくっとふくらませて言った。
「絵?」
澪は紅の後ろから顔を出して、橙華を見た。
橙華はピンクのネグリジェを、ところどころ絵の具で汚し、点滴されながらベッドを起こして座っていた。
小柄で、ふんわりした栗色の長い髪と、洗練されたお人形のような童顔の橙華は、澪の目にも、思わず守ってあげたくなる美少女に映った。
「橙華は油彩画が好きなん。絵筆をとろうとすると、どないしてもキャンバスやら水やら重いし、力も入るし、動いて点滴の針抜いてまう。ドクターストップかかっとっても、…やりよる」
紅がため息混じりにぼやく奥で、橙華はむぅっと眉間にシワを寄せて聞いていた。
「そう…」
澪は気落ちする橙華を見ながら、ハッと思いついた。
急いでバッグを開け、グリーンのスリーブケースを取り出した。
「ねぇ、橙華さん。しばらくは、これで描いてみるのはどう?」
「…あ。それええな。これまでタブレットで描いたことないやろ。やってみたらどうや?」
紅も賛同したので、澪は橙華のテーブルの上に、起動させたタブレットを斜めに立てて置いた。
「なんやぁ、これ?」
橙華は首をかしげて、立ち上がる画面をじっと見入った。
「絵が描けるアプリよ。こうして、これ押して、こうやって指でなぞるだけ」
澪は指で画面をタタッとタップしながら、使い方を説明すると、橙華はパァァと目を輝かせて、猫のように澪の指を顔で追った。
「ナオが来るまで、タブレットで描くのはどうかしら。私のでよければ、自由に使って?」
澪にすすめられるまま、橙華は指を動かして謎の物体を描き、いちいち「はわぁ!」と感動した。
「ほんま簡単に描けるな。楽しい。これええな。なるほど、これで消せるんか。便利や。これ、ええなぁ!」
橙華は夢中になって画面を指でなぞった。
その間、紅は後方で絵画用の水や筆を、ささっと片付けていた。
「気に入って貰えて良かったです。ただし、疲れない程度でお願いしますね?」
澪が優しく言うと、橙華は手を止め、しゅんと肩をすくめた。
「赤ちゃんのためなんは、分かるけど、一日なんもしーひんちゅうんは、きっつい…。いつも、あかん、あかんばっかりやさかい、ほんま…しんどかってん」
「しんどい…。確かに、何もせず動くなと言われるのは、しんどいわよね」
澪はうなずいて言った。
「そやけど、澪さんに、今日、いっこ『ええ』言われたんは、どないな薬より効きそうやなぁ」
橙華はそう言うと、ふわぁっと無邪気に笑った。
「良かった…。赤ちゃんも頑張ってる。橙華さん、ママも、すごく頑張ってる。動けないのはつらいことよね」
澪はそっと橙華の手をとり、包むように握ったあと、
「だからこそ今は、それが、あなたの戦いよ」
と、橙華をまっすぐに見て言った。
「…そうやな」
「私たち辰巳も、力になるわ。橙華さんなら、きっとお腹の赤ちゃんを守れるはずよ」
橙華は涙をためて小さくうなずき、
「おおきに」
と、微笑むと再度、おおきに、と口にした。
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