第15話 京都こそ正義
――まずは、京都だ。
波立つ感情をゼロに戻したいときは、紅と美味しいものを食べ、談笑して、ひたすら飲むに限る。
これ以上の気の晴らし方を、澪は思いつかなかった。
灰屋紅は澪にとって、気兼ねなく話せる長年来の親友だ。休暇が取れたと知らせると、期待通り、真っ先に灰屋家へ誘われた。
澪は翌日早朝、新調した玄関のキーロックをかけ、シルバーのスーツケース片手に、京都へ旅立った。
紅葉シーズンを迎えた京都駅は、観光客でごった返していた。
普段であれば、目を閉じていようと、人の気配も流れも察知できるため、他人が不用意に澪に触れること自体できない。
しかし、その感覚を強制的に遮断された今、人混みという感覚は、あまりに新鮮だった。
新幹線を降りた後、紅との再会に気を取られた澪は、人混みに流された。
それだけではない。列に並ぶ乗客の、見るからに高級なキャリーケースに、お土産のワインをぶつける失態までやらかした。
ゴッ、と鈍い音で血の気が引き、焦って謝罪する澪に、男性乗客は、
「古いものです。お気になさらず」
と、低く優しい声で返してくれた。
普段なら考えられないが、そんなことすら、なんだか妙におかしかった。
「澪! こっちや」
改札を出て、澪が人ごみの中をきょろきょろと見回していると、紅が手を振り、駆け寄ってきた。
「よう来たなぁ。探したんやで? ほんまに分からへんねんなぁ」
若草色の着物を身につけた紅は、相変わらずの美人オーラで目立っていた。が、いつもなら感じる桁違いの気配はなかった。
「紅の気配が全然分からないって、すごく新鮮ね。まるで別人になったみたい。さっきなんて、他人のスーツケースにかばんぶつけちゃったのよ? 信じられない。こんなこと、十数年振りよ!」
澪が答えると、紅は周りも気にせず豪快に笑った。
「はははっ、ええで。もっと別人にしたるわ。ナオのお守りは大変やさかい、たまには休まな。つまらん男と別れたんも正解や」
紅はにっこり笑うと、色気たっぷりに顔を寄せ、
「ついでに、うちに心変わり、せんのんかぁ?」
と、耳打ちするのだからかなわない。
「紅…。あんたに本気で惚れたら、男となんか、恋愛していられなくなるでしょ?」
澪は軽口をたたいた。
「そらそうやぁ。子ども、とかもな」
「それよそれ。もうすぐ30となると、色々考えちゃう」
「そない言うても、澪はいっつもマスクしてもうて、白衣にメガネにクスリ漬け。もったいないわぁ」
「やだ、その言い方。誤解生むからやめて」
澪は苦笑して、さりげなく周りを見回した。
「間違うてへん。駅じゃ積もる話もできへんさかい、はようち移動しよか。澪のために、とびっきり美味しいチーズ取り寄せたんよ」
「愛してる、紅」
澪が胸をきゅんとさせて言うと、
「そやろ。惚れてええで?」
得意げな紅に、澪は背筋を伸ばして小さく一礼した。
「紅先生、先月の新刊、25万部突破おめでとうございます。ベストセラーお祝いしたくて、私もデザートワイン奮発したの」
澪はバッグから、フランス産の高級貴腐ワインを取り出して見せ、目配せした。
「好きや、澪」
紅も、心底きゅんとして言った。
「今作も最高だった。設定凝ってて、少しミステリーっぽい展開、のめり込ませてもらったわ。純文学の方は、受賞こそ逃したけど、読後感が切なくて、その夜なかなか寝つけなかった。紅なら次こそ、トップ狙える」
澪はバッグにワインを戻しながら、興奮気味に感想を伝えた。澪は、紅の小説の大ファンでもある。
「もちろん。次こそ獲る」
紅は、満足そうにうなずき、
「そやけど、まずはお腹満たさんと、ええ作品書けへんさかい…。なぁ、ここの焼き菓子美味しいんよ。買うていこか」
と、老舗洋菓子店の前で足を止めた。
「お決まりでしたら、お伺いいたします」
すぐさま、黒の制服を着こなした女性店員が声をかけてきた。
「すんまへん、こっからここまで全部」
紅がショーケースの上段、端から端を指さしながらそう言うと、店員は笑顔を引きつらせて、目を丸くした。
澪はかばんのひもを肩にかけ、大量の紙袋を持てるようにスタンバイした。
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