第11話 弟ナオの遺言

――弟から、遺言を受け取った。


 澪がソファで酔いつぶれた2日後。

 和歌山で行われた、血液学会のホール会場奥に、ナオの姿はあった。

 最終日の研究発表を、ナオは密かに聞いていたが、伽奈かなの治療に光明を差すような収穫はなかった。


 よせばいいものを、ナオは新幹線から降りたその足で、伽奈が眠るラボの病室へ忍び込んだ。

 ほんの数日前、会ったときは元気だったが、昨夜から急に発熱し、再び入院することになったのだ。


 辰巳たつみの治癒力をもってしても、伽奈が患う病は、治せない。


 ナオが伽奈にできることなど、限られていた。

 ずれた酸素マスクの位置を直して、ほんの少し過剰な熱を下げる。その程度だ。


 能力で治せない以上、伽奈の体力と、命を削るような抗がん剤治療に賭けるしかない。

 ナオは唇を噛んで、そっと病室を後にした。



 仕事から澪が帰宅すると、ナオはリビングのソファに倒れ込んでいた。

 ビール缶が床にも転がっており、飲めるだけ飲んで、酔いつぶれたようだ。


 澪はため息をひとつ吐き、バッグを置いて、ナオに毛布をかけようとした時。


「…姉ちゃん」

 と、小さな声で呼び止められた。


 いつになく切迫した声に、澪は心臓を素手でつかまれた気がして、鳥肌が立った。


「あのさ…。もし、伽奈が死んだら…」

「それ以上、言葉にしないで」

 澪は、すかさずナオの言葉を遮った。


「分かってる。…ごめん。でも、俺の中だけじゃ、持ってらんなくて。聞き流していいから聞いて?」


 ナオは、ゆっくり上体を押し上げ、目を薄く開いて言った。


「伽奈がもし死んだら…、自分はきっと、生きてない気がして。でも、万が一の話、俺が先に死んだとしても、伽奈には生きてて欲しいんだ」


「…そう」

 そっけなく答えたわりに、毛布を抱える澪の手は震えた。


 どんな顔して聞けばいいのか分からなかったし、そもそも聞きたくない。

 自分が、命かけて護ってる対象から、そんなこと。


 笑えない冗談であって欲しい。が、そうでないことを、澪はとうに気づいていた。


 以前、ナオの部屋で偶然見つけた、大量のサプリメント。

 ビタミン剤の大瓶に入ったそれを見た瞬間、嫌な予感がした。


 持ち出して、こっそり成分を調べた。――成分分布図を見て、澪は愕然とした。


 どうやって手に入れたのかは知らないが、睡眠薬の他に、抗不安薬や、劇物に分類される薬品が念入りに配合されていた。成人1人が、確実に死に至る分量で。


 思い詰めている重さと言葉は、条件さえ揃えば真実になり得た。


 薬は、同じ形状のプラセボにすり替えた。

 それでも、その時が来たら、ほんの少し命を延ばす効果でしかないだろう。


 ナオが死ぬ。


 伽奈が死ねば後を追う。辰巳当代が、弟が、ナオが、いなくなる…。


 ずっと、不安しかなかった。

 不安だけならよかった。曖昧だったナオの遺言が、濃厚に形作られ、脅迫めいた絶望に変わっていった。



「ねぇ…。お願いがあるんだけどさ」

 ナオは続けて言った。潤んだ目を、真っ赤にして。


 そんな瞳で、これ以上懇願しないでと叫ぶ代わりに、

「なに?」

 と、なんでもない日常会話くらいの声量で、澪は返した。


「俺のって、凍結保存、してる…じゃん?」


「…そうね」


 言葉尻とは裏腹に、澪の心は拒絶を繰り返していた。



 伽奈の卵子は、ある場所に凍結保存している。

 抗がん剤治療に入る前に、母・京子の勧めで採取した。


 実は、ナオの精子もだ。


 ナオが自ら望んで保管を決めたことは、辰巳家以外の人間は誰も知らない。


 場所は別だが、きちんと管理された場所で、凍らせられたことを忘れて眠っている。



「俺が万一、伽奈より先に死んだとして、…もし、どうしてもそれしか、伽奈の生きる道がないとしたら…。伽奈に、俺の…あげて」


「…」

 太いロープで、澪の喉が、締め上げられているようだった。

 ナオは、そこで遺言を止めてはくれなかった。


「でもその時、伽奈が、子どもを産めるような身体じゃなければ、姉ちゃん、お願い…」


 ナオは、一瞬ためらったものの、せがむような瞳で澪を見上げて言った。


「俺たちに、子宮を貸してくれない?」


『俺たち』という言葉が、あまりに必死で、若気の至りで、笑える冗談で済めばいいのに、その必死さが、これ以上ないほど、澪に迫っていた。

 

「いいわよ」


 澪は反射的に答えていた。


 方法論とか、倫理的にどうとか、すべてすっとばして。


 それ以外に今、何を言えばいいのか分からなかった。


 弟が、明日を生きてくれるためには。


 澪の返事を聞いて、ナオは少しだけホッとしたような表情を見せると、


「ありがと…。ごめん。…俺、伽奈さえ、生きててくれたら…」


 と、小さくこぼしてゆっくり目を閉じた。


「ばか。ビール、飲みすぎよ」


「うん…。だね。あ~、さすがにネガすぎだよな…。ごめん、忘れて? …俺、寝るわ」


 ナオはそう言うだけ言って、眠りについてしまったけれど、澪はその夜、酒の力を借りても眠れなかった。


 澪は言えなかった。

 私は、あんたに生きて欲しい、と。


 伽奈ちゃんにも、もちろん生きて欲しい。でも、あんたが生きてなきゃ、生きてなきゃ…!


 ナオと伽奈ちゃんの子どもを、姉の自分が産むなんてこと、非現実的で、そんな日は一生、来なくていい。


 ナオがいないなら自分だって、まともに生きてられるかどうか、分からない。そんなの全然、分からないっ…!!


 2階の自室、ベッドの上で、澪は声なく、ただ泣いた。

 次から次に、涙がこぼれた。


『…澪。さっきの話、僕も聞いてた』


 しばらくして、父・響の式神が澪に優しく語りかけ、実体のない手で背中を撫でた。


『自分の無力さが悔しい…。もう、誰も失いたくない。ナオは、僕が死なせない。澪がすべてを背負う必要は、ないんだからね』


 そう響は言って、声を殺して泣く澪に、夜明けまでずっと寄り添っていた。


 何をしても、全身が鉛のように重かった。


 身体を縛られ、空気に溺れて、息が吸えない。細いストローで、かろうじて酸素を吸っているような感覚。


 差し迫る閉塞感が、澪を取り巻いていた――。

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