第10話 普通への渇望

 京子はコーヒーポット片手に、画面に入り込んだ。


『ごめん。コーヒー入ったから、ちょっと回線切る。また後でね。伽奈、そのナオって男、すぐ逃げるんだから、捕まえといて!』


「はい、承知いたしました」


 京子の命に、伽奈は軽やかに返事をすると、両手をひらひらと画面に振った。


 回線が切れるとすぐ、伽奈はナオを見てパッと目を輝かせた。


「ナオ、元気だった?」


「…うん。なに、こっち向かってんの?」

 ナオは、あからさまに顔をしかめた。


「そう。今お父さまが、車飛ばしてくださってるわ」


「…速度制限、軽く超えてそうだな」


 遠い目をしたナオに、伽奈はにっこり笑顔を向けた。


「もちろんよ。今回は、検査結果がすごく良かったの。ナオにも見てもらおうと思って。あと数分で着くわ」

「はぁ? 伽奈んちからここまで、何キロあると思ってんだ。計算おかしいだろ」

「ふふっ」


 可憐に微笑む伽奈を、かすむ視界で捉えながら、澪は『普通』について考えていた。


(母さんみたいに、伽奈の姿だって、普通は見えない、のよねぇ。そう、『普通』の人には。式神だもの…)


 ガチャン、と玄関の施錠を外した音がしたかと思うと、


「お邪魔致します」


 生身の伽奈が玄関で一礼し、靴を丁寧に揃えると、一目散にリビングへ飛び込んできた。


「ナオ、お待たせ!」


 ナオは、むっと機嫌を損ねたようにふるまい、


「うん、伽奈。…待ってない」


 と、そっけなく言ったものの、どことなく嬉しげな雰囲気が漂っていた。


(鍵を開錠できるのもそうだし、式神もそう。この生身本人の、化身。化身だから、本体と一体化すると…、ほら、消える。そんなこと、『普通』じゃない…わよねぇ…)


 澪はふわふわと消えかける意識の中、弟たちの会話を聞いていた。


「ひどいわ。そんな、冷たい言い方しなくたっていいじゃない」

 伽奈は、むくれて言った。


「結界はありがたいけど、わざわざ来なくていいって。検査結果は結弦に聞くし」


「だって、いつラボに来てくれるか、分からないんだもの。早く見て欲しくて…」


 伽奈はそう言って、四つ折りにした検査結果の紙を渡しつつ、自然にそっと、ナオの右手に触れた。


(あ…。今、つけたな)


 瞬間的に、澪は感じ取った。


 伽奈が「つけた」のは、『追紋』と呼ばれる、伽奈の血筋のみが使えて、常時監視カメラがつくような強烈な変態能力だ。


 澪と伽奈の能力は、現在拮抗する程度だが、追紋についていえば、格下の家柄である澪には、歯が立たない。


 もとより、解除しようとも思わないが。


「はいはい、分かったよ。血液検査?」

「うん!」

 ナオはいやいやながらに、用紙を受け取り開いたが、その数値に目を見張った。


「お、すげ。前回より、数値的にも格段良くなったじゃん。へぇ~…」


 伽奈は、白血病を患っている。

 良くなったり、悪くなったりを繰り返し、何度も生死の境をさまよってきた。


 伽奈はラボに入院することも多く、頻繁に接する澪にとっては、妹のような存在だ。


(あぁ、弟、イチャイチャするなら別の部屋へ行ってくれ。この傷心した三十手前の独り身には、こたえ…る…)


 澪は重だるいまぶたを下げて、全身の力をソファに預けた。


「あ、澪お姉さま、眠ってしまわれたのね。なにか、かけて差し上げましょう…」


 伽奈はソファ周りを見回し、ブランケットを見つけると軽やかに移動した。


「男に振られて、やけ酒飲んで倒れたんだ。放っとけばいいよ」


(聞こえてるっ! 私が護ってなきゃ、とっくにあの世行ってるわ!)

 澪は思ったが、こうも身体が重いと、口に出すのも面倒だ。


「ナオ、ひどい言い草だわ。ご多忙でいらっしゃるから、お疲れなのよ。…ごゆっくり、おやすみになってくださいね?」


 柔らかい声を乗せて、伽奈からブランケットをかけてもらった時、ふわっと花のような甘い香りがした。


(そうよね。普通、女の子って、こんな風に可愛くて、優しくて、いい香りがするのよね…)


 澪は、酔っ払いのオッサン思考に陥り、伽奈の残り香ににやにやしたが、無視しきれない気配に、意識が散漫となった。


(あぁ、結界の外で、何かものすっっっごい力が、ぶつかってるわ。きっと、篁のおばさ…あやさんが、ナオを嗅ぎつけた奴らを、むごたらしく潰し…スッキリお掃除してくれてるに決まってる。…きっと、ナオは伽奈ちゃんの結界に囲まれてるから、分かってないんだろうけど…)


 篁あやは、伽奈の母だ。

 何かと世話を焼いてくれ、ありがたい存在なのだが、なにしろ強い。様々な意味で最強の婦人だ。


(はぁ、『普通』は、こういうのも感じたりしないんだろうなぁ…。もぉ、やだ。あぁ、『普通』! 『普通』! 『普通』になりたいぃ!!! はぁ、…………寝よ)


 澪の意識は、秒速で飛んだ。

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