第9話 主夫の勘

 修一と別れた日の夜。


「…姉ちゃん、飲みすぎじゃない?」


 弟のナオが振り返り、澪に忠告した。


 自宅リビングの中央、大きなモニターには、海外に住む両親が映し出されていた。正確には、母・京子きょうこのアップが。


 今も、京子がグラフの折線を指で示しながら、大声でナオと討論している。


 時折、京子の前を、茶色い大型犬の「にまめ」が横切り、ふさふさの毛が澪たち側の雰囲気を和ませつつ、


『にまめっ、ハウス!』


 と、京子をヒートアップさせていた。


『だから、ここ! この数値の減少は、加齢による代謝機能の衰えが考慮されてるのか聞いてるでしょう? あんた伽奈のことばっかり意識して、対象を若者に限定しすぎなのよ!』


「伽奈は関係ないだろ。加齢による変化も考慮してる。サンプルは80代まで見てるって。この検出方法だと、数値上は0.2違うけど、中和抗体との連携への影響は、どの年代でもメカニズムは同じ。さっき言った通り、マクロファージが…」


 アメリカにいる両親と回線が繋がると、ずっとこの調子だ。


 今は休学中とはいえ、医学生の弟・ナオと、「薬学界の頭脳」と称される新薬開発研究員の母・京子とのやりとりは、かれこれ3時間半にも及んでいる。


 機密事項が多いため、セキュリティには万全を期すが、澪がさらにリスクマネジメントを請け負っている。「結界」などの方法で。


(ええ、そうですね。『普通』じゃないですよ。『普通』の人は結界なんか張れないし、こんな、謎の専門用語を聞きまくったりはしませんよ)


 澪はヤケクソ気味に思いながら、家族の討論をBGMに、ソファに座ってビールを喉に流し込んだ。


『京子~! コーヒーブレイクしよう~』


 加熱する討論の最中、平和そうな声が割って入った。

 澪たちの父・きょう、無駄に高い家事力を備え持つ、スーパー主夫だ。


『えっ、もうそんな時間?』

『うん。ちょっと休憩しよ? チーズスフレが焼けたから。ほら』


 響はオーブンから出した、あつあつのチーズスフレを見せて、にっこり微笑んだ。


『…分かった。コーヒー淹れるわ。ナオ、ちょっと待ってなさい?』


「はいはい」


 京子は甘い匂いに懐柔され、声をトーンダウンさせると、パタパタと嬉しそうな足音を立て、画面から去った。


 京子は家事力ゼロだが、コーヒーだけは京子の淹れたものの方が美味い。

 響は、コーヒーだけは京子に任せていて、丁寧に淹れたコーヒーを楽しむ時間を大切にしている。辰巳家のルールだ。



 ナオはテーブルに散らばった書類を一旦かき集めながら、はぁ~っと、ため息を漏らした。


「いいなぁ、父さんのチーズスフレ…」

「焼きたて最高なのよね。おつまみに欲しいわぁ」


 澪も言うと、プシュッとビール缶を開けた。キッチンでも2本飲んでいるので、5本目だ。ワインも、すでに2本あけていた。


「姉ちゃん、さすがに飲みすぎだって。大丈夫? 何かあった?」


「何もない。ナオには関係ない」

 澪はナオの質問にかぶせて答えた。


「酔っ払って、姉ちゃんの結界壊れると、俺が帰宅してること、バレちゃうからさぁ…」

 ナオからは、気弱な声が漏れた。


(でしょうね。先週、元気に退院したもの)


 澪は、ある女性を思い浮かべながら、


「じゃあ、自分でつよぉ~い結界、張れるようになんなさいよ」

 と、おどおどするナオを、冷たく突き放した。


 男に優しくできる気分ではなかった。


 澪の弟・ナオは今、実に様々な人から逃げ回っている。

 宗教団体や、難病の家族会、医療関係者、研究者、どこかで知り合った、うさんくさい女の数々、さらには、伽奈かなちゃんという、幼馴染の女性からも。


 ナオは、古代から続く治癒の能力を受け継いだ、辰巳家の『当代』だ。


 『奇跡の手』、『神の癒し』など、仰々しい二つ名は数えきれない。片や本人には、やる気があるんだかないんだか、もはや世捨て人のような状態ではあるのだが…。


 この特殊な力を強引に利用しようとする者たちから、澪は常に弟を護ってきた。


「無理。俺、何もかもできるほど器用じゃない…」


 ナオが、小さく愚痴をこぼしたとたん、


『ナオ! さっきの話だけど…!』


 片手にチーズスフレを持った京子が、またも、カメラワークの距離感を無視して、どでかく画面に映し出された。


(はぁ~、もぉ~、やだ…)


 顔面の迫力にやられたのか、アルコールのせいか、澪の視界がぼやけたかと思うと、ふっと全身の力が抜けた。


「姉ちゃん! わ、やばっ!!」


 ナオは、慌てて澪に駆け寄ったが、澪の意識は一瞬飛んで、こてっとそのままソファに横になってしまった。


 同時に、サッと気配が変わった。


 澪は、寝たくらいでは結界が解かれることはないが、酔いつぶれてしまうと、稀に結界に歪みを生じさせることがある。


(うわっ、まずいな…。来るぞ…)


 ナオがそう思ったと同時に、地響きのような振動がした。


 澪の歪んだ結界を覆うように、その周囲は別の、強固な結界で覆われていた。


「ナオ、おかえり。帰ってたのね?」


 声がした方向には、ふわりと白い影が現れ、すぐに黒い髪の女性の姿へと変貌した。


 彼女は篁伽奈たかむらかな。誰もが思わずキュンとなる、可憐な笑顔をナオに向けた。


『やぁ、伽奈ちゃん。久しぶりだね。元気?』


 モニター画面の奥、響の目線は、厳しく澪たちの様子をうかがっていたが、伽奈の姿を認めて、ひょこっと画面に現れた。


 響の言葉に、京子は怪訝そうに目を細めて、画面を見回した。


『伽奈? 伽奈が来てるの? …なによもう、見えないじゃない。来るなら生身で来てちょうだい。生身でって、いつも言ってるでしょう?』


 伽奈はカメラに向き直ると、微笑みを浮かべた。


「響おじさま、ご無沙汰しております。おかげさまで、先週末に退院できました。もうしばらくで、こちらに生身も参ります」


「え~、来るのぉ?!」


 ナオはすかざず悲鳴にも似た声を上げたが、伽奈は構わず、にこやかに続けた。


「おじさま、京子おばさまにも、そうお伝えいただけます?」


「無視かよ」


 けっ、とナオはぼやいた。

 伽奈が言いだしたら聞かないことなど、百も承知だ。


『分かったよ。伽奈ちゃん、無理しないようにね。どうしたんだ、珍しいな。澪が酔い潰れたのか?』


 響は、苦笑しながらナオに問いかけた。


「うん。やけ酒。ひどかったんだよ? さっきなんか、スマホもグーで叩き割っちゃってさぁ…。彼氏と喧嘩でもしたんじゃない?」


『あ~、修一くん? 一途で真面目な子だからなぁ。魔が差した浮気で、別れちゃったかな』


 響はにこにこと、しかしはっきりと言った。


「父さん…、それって何情報?」


『ん~、主夫の勘、かな』


 にこやかに言ったが、響の勘は侮れない。

 普段は変な柄のエプロンつけて、呑気に掃除などしているが、人を見抜き、危険を察知する能力には、人一倍長けている。


 父が言うならそうなんだろうと、ナオは少しだけホッとした。


 姉には、幸せになってもらいたい。


 弟である自分を筆頭に、他人優先の生き方が染みついていて、空気を吸うように、自分の気持ちを置き去りにする。


 そのことに、何の疑問も抱かないような姉には…。


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