第8話 あの清玄昴から徹底して逃げる、3週間前の午後

 辰巳澪は、清玄昴から徹底して逃げている。


 それは確かなことで、その起点も、確かに存在する。


――始まりは、今から遡ること3週間。


 本気で誰かを愛しいと、泣き叫ぶほどに恋しいと、澪が思えるまであと1週間に迫った午後のこと。



(………飲もう。とにかく、飲もう)


 辰巳澪は、心の中でそう吐き捨てながら、速足で大手町駅のコンコースを歩いていた。


 ささくれているのは、5分前、澪が彼氏と別れたからだ。三年も付き合ったのに、だ。


 澪はもうすぐ29歳。

 正確には、あと4ヶ月と3日で。


 この妙齢も相まって、澪は漠然と、付き合っていた田辺修一たなべしゅういちと、このまま結婚するのかもしれないと、ぼんやり思い描いていた。


 互いの両親には会っていたし、一緒にいても苦痛ではない。それ以上の理由はなかった。


 祝日だったこの日、『大事な話がある』と、修一から珍しく連絡を受けていた。

 

 澪は、いつも利用するカフェのカウンターでコーヒーを受け取り、恋人の正面の席に座った。


「お待たせ」

 と、声をかけたが、修一は澪の顔を一向に見ようとしなかった。


 いつもなら、澪がカフェのガラス扉を開ける前から、満面の笑みで手を振る修一が、だ。


 数秒間の沈黙のあと、うつむいたまま修一は告げた。


「…ごめん、澪。…別れてほしい」


 そのたった一言で、澪の三年間は終わった。

 あまりにあっけなく、そうか、とだけ澪は思った。


 澪が黙ったままでいると、


「俺みたいな『普通』の男と、付き合ってくれて、…ありがとう。本当に、ごめん…」


 修一は肩を震わせ、のどから絞り出すような声を口にした。

『普通』という言葉がやけに引っ掛かりつつ、


(どうせ別れるなら、もっと早く言ってくれたらよかったのに…)


 澪の心からは、冷ややかなぼやきが沸いて出た。しかし、それらをそのまま吐き出すのは、プライドが許さなかった。


 別れ話は、すでに澪から切り出していたが、その度に、笑顔で「無理」と返された。


 澪側にも差し迫った別れる理由を見いだせず、付き合いが続いていたわけだが、それが今、なぜ拒絶の言葉を口にするのか、せめて理由が聞きたかった。


 しかし、それを問うたところで現状は変わらない。


 澪は数秒目を閉じたあと、


「分かったわ。…これまで、ありがとう」


 と言って、カフェを出た。

 澪はクールに潔く、恋人と別れた。


 修一の過去と未来へ、せめてものはなむけに――。


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