第7話 あの清玄昴と、××を食べた…らしい。
五感と記憶は、密接につながっている。
一番怖いのは、香り。
感覚器官が同じと判断すれば、否応なしに、記憶の沼に引きずり込まれてしまう――。
「まだ言うてへんの? はよう昴に言うたらええのに」
灰屋紅は、食前酒のロゼワインに口をつけ、何でもないことのように言った。
紅はあの夜の事情を知る、唯一の人物であり、澪の親友だ。
『美しすぎる小説家』と名を馳せるだけあって、東京灰屋ホテルの最上階レストラン、そのきらびやかな夜景を背負っても様になっていた。
「清玄相手に、隠し通せるはずあらへんやん。昨日も聞かれたで」
「聞かれたって、…何を?」
澪は、眉間にしわを寄せて聞いた。
「昴から、あの日の女性のこと、何でもええさかい、思い出してへんのか、ってな」
「で、紅は、なんて?」
澪は、さらに身を乗り出した。
「
「うそっ!」
澪は自分の口から出てしまった大声に驚き、ばっと口を手で覆った。
幸いにも、ここはバイキング会場。ざわついた空間に、澪の声はかき消されていた。
「うそや。うちからは、よう言わん。そやけど、…言いとなんで。あそこまで必死な昴、なかなか見ーひんさかいな。なぁ澪、まだ言うつもり、あらへんの?」
「…」
紅の問いに、澪は目線を下げて沈黙した。
自ら、昴に言い出すつもりはない。
それは確かだが、どう表現するのが適切か、まるで分からない。
「しゃあないなぁ。ええ、この話は終わりにして、食べよか」
紅はため息まじりにそう言って、カトラリーを手にしようとしたが、
「なんや、澪。ここのイチオシとってきてへんの。うち、取って来たるわ」
と、言うなり席を立った。
紅はすぐに戻って来ると、白いボウルを澪の右手前に置いた。
ふわっと香ったスパイスが、澪の鼻をかすめた瞬間、見る景色さえ覆りそうな、鮮烈な記憶が脳内に広がった。
『美味しそうに召し上がりますね。温めただけですが、作った甲斐があります』
昴は目を細めて、澪にそう言った。
穏やかなその微笑を見た途端、澪は心臓にわしづかみを食らった。
動転しまくった澪は、目の前のカレーを、訳も分からず「美味しいです」と繰り返しながら、たいらげたのだった。
あの夜、まさにこの香りが、ロッジのダイニングに立ち込めていた。
「これは…?」
「お豆さんのカレー。うちのお気に入りやで。ほら、澪にも、前に送ったやろ?」
紅はそう言うと、ナンにカレーをつけて、ぱくっと頬張った。
「それって…」
澪は言いかけて、口をつぐんだ。
紅の背後に、コックコートを着た恰幅の良い男性が、近づいて一礼したからだ。
「紅さま、いらっしゃいませ。当店の料理は、お楽しみいただいておりますでしょうか?」
「あぁ、料理長。邪魔してるで。ここのカレー、やっぱうまいな」
紅は上機嫌で答えた。
ここのホテルオーナーは、紅の叔母だ。スタッフは全員、紅の顔を熟知している。
「ありがとうございます。最近は、こちらの関連商品の売れ行きが好調でして」
「これやろ? レトルトのやつ、うちも買いだめしてんで」
紅は、テーブルの端にあったテイクアウトメニューを取り出し、左端の写真を指さした。
そのレトルトカレーのパッケージは、澪も何度か見たことがあった。
一度目は、紅から送られたギフトセットの中で。
二度目は、昴と過ごしたロッジの、ダイニングテーブルの上で…。
「こちらにお越しくだされば、できたてをご提供しますのに…」
「おおきに。けど、締め切り前は、手軽なんがええねん。また10ほど、お願いするわ」
「恐れ入ります。清玄家の皆さんからも、大量にご購入いただいております」
ぼんやりしていた澪は、「清玄」の響きにハッとして、やっと2人の会話に集中しだした。
「そうやろな。清玄のために作ったわけやし。辰巳にも、前に送ったんやで」
紅が、急に話を振ったため、
「当店のカレーは、澪さんのお口に合いましたか?」
と、料理長は、やわらかい物腰で尋ねてきた。
「ええ。…これって、清玄家のために?」
澪の言葉に、料理長は待ってましたとばかりに、眉をひょいと上げた。
「はい。清玄家の皆さんは、肉を召し上がらないので、スパイスを効かせたダルカレーを、私が考案しました。材料はすべてハラールで揃えまして、食感を楽しめるように、厳選した豆を数種類、使用しています」
「へぇ…」
料理長の勢いに圧倒されつつ、澪は手元のカレーをスプーンですくってみた。確かに、ひよこ豆やインゲン豆など、何種類も含まれていた。
「なんでハラールにしたん? 清玄はムスリムちゃうで」
紅が、横から質問した。
ハラールとは、イスラム教を信仰するムスリムが、宗教上の戒律により合法とされる物を指す。
「それが、清玄家の昴さんから、どうせならハラールで作れませんかと、ご相談いただきましてね。ご友人に、イスラム教徒の方がいらっしゃるそうで」
「あぁ、確か、ナビの1人がそうやな」
澪も紅に合わせて、相槌を打った。
「あの昴さんからのご提案ですからね。食材探しには苦労しましたが、定番化した今では、ムスリムのお客様が遠くからいらっしゃるほどです」
料理長は、ちらりと右奥のテーブルへ目線を投げ、にっこり笑った。
目線の先では、オシャレな布で髪の毛を覆った女性たちが、食事を楽しんでいた。
「昴らしいな。海外遠征も多いさかい」
「はい。私どもだけでは、思いつかなかったアイディアです」
料理長は、ゆっくりうなずいて言った。
「…そうだったんですか。スパイシーで、すごく美味しいです。あとでおかわりします」
澪は微笑むと、にこやかに言った。
「辰巳家の方にも気に入っていただけて、光栄です。では、ごゆっくり」
料理長は満足そうに言うと、丁寧に一礼して厨房へ下がって行った。
澪は、カレーをスプーンですくって口に運んだ。
同じだった。あの時の味と。
「このカレー、そないに気に入ったん? 澪がカレー食べとるイメージ、あらへんのやけど」
目を閉じて、ゆっくりと味わう澪に、紅がそう言うのも無理はない。確かに、そうなのだ。
カレーが好きかといえば、普通だ。
このホテルのディナーバイキングには、何度も訪れているが、澪がカレーに手を伸ばしたことは一度もなかった。
「あの夜、昴と食べたの。このレトルトカレーの箱が、パントリーの棚いっぱいに保管してあったわ。有事の際は、捜索隊にも提供できるように、って」
澪の口からは、すらすらと言葉が出てきていた。
「そうなん。清玄のロッジ、最近は行ってへんさけ、よう知らん」
「…」
あの日の昴のことを、澪が口にするのは、初めてだった。
ずっと、誰かに話したかったのかもしれない。
けれど、話した今は、ぐんと胸が苦しい。
「そんな、辛気臭い顔せんで。うまいもん食べて、元気出しぃな。うちとおる時くらい、リラックスしたらええ」
「…そうよね。ありがとう、紅」
2人が互いに微笑みを交わすと、紅はスタッフを呼んで、澪のためにグラスビールを注文した。
食事と会話が進み、澪がビールを半分飲んだところで、
「私、なにか、おかしいのかしら」
と、積もり積もったモヤモヤを、ついに吐き出した。
「仕事中ですら、異常に意識してしまうの。昴の噂や、車や、このカレーだってそう。日常生活に散らばる、昴の破片ばかりが目について、気になって、ひどく動揺する。自分が、これまでの自分じゃないみたいで、すごく嫌」
紅は鴨のパストラミを口にしながら、深刻な表情の澪を、じっと見た。
澪とは長年の付き合いだが、これほどに澪を揺さぶってきた男はいなかったなと、紅は思った。損な性格やな、とも。
「全然おかしないで。それこそ、恋愛の醍醐味やんか。自分が見えてた狭い世界を、一気にこじ開けられる感覚て、貴重や思う」
「貴重…、それは確かね。おかげでレーシングスーツの素材まで、調べるはめになったわ。狂ってる」
恐ろしく真面目な回答に、紅は小さく吹き出して苦笑した。
「それはまた、澪は凝り性ちゅうか…。そないな変化も、ぜーんぶ含めて、楽しんだらええやん」
紅の提案に、澪は首を横に振った。
「困るわ。私、常に冷静でいたいの。判断が鈍れば、大切なものが護れない」
「……真面目か」
真剣な眼差しの澪に、紅はあきれて言った。
「幸せになるのに、なんの犠牲も必要あらへんで」
「なにも犠牲にしてないわ。楽しむっていう感覚がピンとこないし、そもそも、恋愛したいわけじゃない。もっと気楽に考えたらいいのも、頭じゃ分かってるけど、…いいの。自分で決めたことだから。これが、私だもの」
「澪、どうせな?」
うつむきかけた澪に、紅は呼びかけ、再度目線を上げさせた。
「どう~せ、うもういくさかい、心配しいひんで?」
紅は、スプーンをくるくるっと回しながら、おどけて言った。
「…」
ありがたかった。紅が言うなら、きっとそうなんだろうと思えた。
目の奥が熱くなって、返答の代わりに、澪は何度もうなずいた。ダルカレーを口にして、
「美味しい」
と、ひたすら繰り返した。
ダルカレーは、スパイシーな香りが食欲をそそり、程よくピリッと舌を刺激するのがいい。豆の甘さが後をひいて、これがまた、冷えたビールによく合った。
――この香りと味に感動する。…泣き出しそうなくらいに。
【清玄昴とのエピソード6】
辰巳澪は、あの清玄昴と、ダル(豆)カレーを食べた…らしい。
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