第6話 あの清玄昴は、どうしても××たい…らしい。
残業が終わった、20:45。
静かな研究室で一人、澪はスマホの電話帳をじっと見ていた。傍にある手書きのメモと菓子箱が、無言の圧をかけていた。
何度も迷った指で、電話のアイコンをタップすると、コール音が鳴った。
「お世話になっております。ラボ薬剤師の…」
「おい、澪。ナオが逃げたぞ。そっち行ってないか?」
つながったと同時に、澪の挨拶にかぶせて、みのりが威圧的に聞いてきた。
電話の相手は、水凪みのり。京都メディカルチームの女医だ。
現在、弟のナオが、みのりの世話になっている…はずだった。
「…いえ、見ていないです。私もまだ、ラボにいるので分かりませんが」
「めし行くつったきり、戻ってこんぞ…。たかだか138名で、なに音を上げてんだか…」
「ナオに診察させたんですか? 今、任務は降りていますよ」
澪は、みのりの言葉に眉を寄せた。
「いや、頼んだのはシュレッダー係だ。患者の近くに配置したがな。働かざるもの食うべからず、だ」
みのりは、しれっと答えた。
患者記録のシュレッダーであるならば、いやでもナオの目に入る。診察室の近くならば、いやでも病状を察知する。逃れる術は、物理的に離れるしかない。それが弟・ナオに課された宿命だ。
「それは、酷ですよ。本人に診る気がなくても、患者がいれば、みえてしまうんですから」
「あまっちょろいな。お前ら、ナオを甘やかしすぎだ」
みのりの厳しい口調に、
「…そうかもしれませんね」
と、澪は目を閉じて言った。悔しいが言い返せない。ナオに甘いのは確かだ。
「まぁ、いい。ところで、タブレットは受け取ったのか?」
「はい。ありがとうございました」
澪が穏やかに言うと、電話口からは長いため息が聞こえた。
「なんだ、つまらんな。昴には、直接手渡すよう言ったんだが?」
「…お気遣いいただかなくて、結構です」
澪が淡々と言葉を返すと、くくっと、小さく耳に障る声がした。
「聞かれたぞ。ノルレボ錠、処方していないかってな。診察が2週間前と限定されたんじゃ、思いつく女は一人だけ。野暮だと思って聞かなかったが、まさか、お前の相手があの昴とはな…」
「みのり先生、しゃべったりしてませんよね?」
スマホをぎゅっと握り、澪は誘導と知りつつ、尋ねていた。
「やはりか…。こじらせるな。巻き込むな。面倒くさい」
みのりは、いら立ちを声に乗せて言った。
「それで、…昴には?」
「言うか、ボケ」
みのりが吐き捨てるように言ったことで、澪は心底ほっとした。
「ありがとうございます」
「なぜ避ける? 一晩で飽きたか?」
「そういうわけでは、ない…です」
「はっ、じゃあ、ナオのためか。つまらん意地だな」
みのりの高圧的な口の悪さに、澪もさすがに喉の奥がカッとなった。
「違います。…なんだっていいじゃないですか。プライベートに、口挟まないでいただけますか」
「はぁ~? 上司への態度がなってないな。お前らがどうなろうと、知ったこっちゃないが、私を巻き込むな。煩わしい」
「大丈夫です。これ以上はご迷惑おかけしませんし、ちゃんと、分をわきまえていますから」
澪は、早口に言い返した。
「そうか。分かった。…だが、一つだけ言っておく」
澪は一呼吸して脚を組み、みのりの言葉を待った。
「会いたいんだと、お前に。どうしても」
思いがけないみのりの言葉に、澪は一瞬混乱した。
「昴が、そう言っていたぞ。それだけだ。じゃあな」
「…みのり先生っ」
電話を切ろうとするみのりを、澪は咄嗟に引き留めた。
言い争うつもりはなかった。他に言うべきことが、たくさんあった。
「なんだ」
「あ、ありがとうございます。…あの、わざわざ、お菓子もいただいて…」
「菓子? それは知らんな。昴じゃないのか?」
澪は、えっ、と小さくつぶやいて、ステンレスのテーブルに置かれた菓子箱を見た。
若草色の上品な和紙に包まれたお菓子が、右端に3つ残されていた。
「…そうですか」
「それと、…悪かったな。ノルレボと一緒に、ナウゼリンも渡せばよかった」
みのりが口にした「ナウゼリン」とは、酔い止めや吐気止めに処方される薬だ。
「いえ。処方依頼していませんし、体質的に、ナウゼリンも合わないので」
澪は恐縮して言ったが、事務的な響きだった。みのりが謝罪するのを、初めて聞いた気がするのに、急にはうまく、素直になれない。
「そうか。まぁ、病み上がりなんだ。無理をするな。体調には気をつけろ。…だが、働け」
みのりは、ねぎらいの言葉まで高圧的に、最後の言葉をぐっと強調して言った。
「みのり先生、おっしゃることが矛盾してます」
澪が苦笑して言うと、みのりは電話口で、けけけと笑い、
「じゃあな」
と言って、通話は切れた。
澪は、若草色の和紙に包まれた菓子を1つ、手に取った。
――「会いたいんだと。どうしても」
みのりの言葉が、頭の中でリフレインし続けていた。
【清玄昴とのエピソード5】
あの清玄昴は、どうしても澪に会いたい…らしい。
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