第2話 あの清玄昴の××が、世界一美味しいと思った…らしい。

 パンッ、…パンッ、…パンッ、…パンッ


 一定のリズムで響く音。

 熱く激しく弾む息。

 全身をほとばしる汗。


 身体の限界まで、追い込むほどにハイになっていく。

 みおにとって、最高に気持ちいい瞬間だ。


「…ハッ! ハッ!」

 声は抑えない。

 しかし、力まず、思いきり出す。


 そうしないと、いいパフォーマンスは引き出せない。

 ポイントとなるのは軸足だ。

 体幹を保ったまま、腰の動きに合わせて回転する脚を素早く、繰り出す。


「ハァッ!」

 ラスト一発。

 澪は、赤いサンドバッグを思い切り蹴り上げた。


 ミドルキック50連発。

 澪がこのボクシングジムに来ると、必ず行うトレーニングメニューだ。



「澪さん、お疲れさまでした♡ 今日も素晴らしい動きでしたね!」


 揺れ動く赤いサンドバッグを支える澪に、女性トレーナーのひとり、梨花りかがタオルを持って駆け寄ってきた。


「ありがとうございます。2週連続でサボったので、…ちょっと、キレが悪いですね」

 澪は肩で息をしながら答え、タオルを受け取った。


 毎週土曜日、澪はこのボクシングジムで身体を鍛え上げている。

 日ごろのストレス解消にもなって、一石二鳥だ。


 2年前、澪が施設見学にやって来たその日、ガラの悪さに入会はやめようと振り向いたリングの奥で、梨花りかが男性会員数名にからまれているのを、目撃してしまった。


 梨花は当時からスタイルが良く、露出度の高いヨガウエアは、確かにセクシーすぎて目のやり場に困るのだが、…それはそれ。

 セクハラは、ダメぜったい、だ。


 男たちは、嫌がる梨花の肩や腰に触り、強引に腕まで引いたのを見て、澪はキレた。


「すみません。これ、持っててもらえます?」


 と、着ていたダウンコートを、隣にいた見学者に渡してからは、一瞬だった。


 1分もかからず、澪はその男たちを、のした。


 澪は空手、合気道、ともに黒帯。

 流れるような動きと素早さで、自分よりも大きな男たちを、床に次々倒していった。


 女性たちからの賞賛は欲しいままにしたが、実害として、ジムの会員数を減らしてしまった。

 心苦しさを感じ、澪はジムに入会するとともに、週に1時間だけ、ここで護身術を教えることにした。


 美人揃いだった女性トレーナーも、こぞってレッスンに参加。

 実用的すぎると口コミで話題となり、今やこのジム、会員のほとんどが女性だ。


 特に、澪が教える護身術土曜クラスの枠は、若い女性で常にキャンセル待ちだという。

 澪は講師を引き受ける代わりに、無料でこのジムを使わせてもらっている。


 ジムでも澪は、モテる。女性トレーナーから。

 澪のトレーナーに誰がつくか、毎週のじゃんけん大会は白熱するらしい。



「澪さーん♡ ドリンク、いかがですか?」

 今週のじゃんけん大会勝者・梨花りかは、ビニール袋に何本か入った、ペットボトル飲料を勧めてきた。

 澪は、何気なく1本手に取り礼を言ったが、


「…あら? それを選ぶなんて、珍しいですね」


 と、梨花が聞いてきた。


「え?」

「だって澪さん、いつもこの、ビタミンドリンク選ばれるじゃないですか。変えてもいいですよ♡」


 黄色いパッケージのドリンクを手に取って、梨花は笑顔で提案した。


「…」

 澪はハッとして、手に持ったスポーツドリンクの、ブルーのパッケージを見つめた。



『よかったらこちら、どうぞ』


 すばるはあの日、そう言って、澪にこの青いスポーツドリンクを差し出した。

 昴とは、清玄昴だ。


 さらに、低く惹きつけるその声で、


『声が少し、枯れていますね。水の方が良いですか?』


 と、優しく澪に尋ねたのだ。


 澪の声が枯れてしまったのは、仕方がないことだった。

 その直前まで、叫ぶように声を出し続けていたのだから。


 あの時飲んだこのスポーツドリンクが、世界で一番美味しいと思ったことも、澪は思い出していた。



 澪はうつむき、水滴で濡れたスポーツドリンクを、ぎゅっと強く握りしめた。

 気を抜けば、全身の力が抜けてしまいそうだった。


「…澪さん? あの、どちらでも構いませんよ。いっそ、両方飲んでも…」


 いつもと違う澪の様子に、梨花は戸惑いながら、ビタミンドリンクを差し出してきた。


「いえ」

 澪は顔をあげ、いつもの笑顔で梨花を見た。


「ありがとうございます。こちらだけ、いただきます」


 澪はそう言って、梨花の手にあるドリンクと交換すると、黄色いキャップをひねって開栓した。



――思いがけずに食らうパンチを、かわせる方法が知りたい。



【清玄昴とのエピソード2】

辰巳澪は、清玄昴の手から受け取ったスポーツドリンクが、世界一美味しいと思った…らしい。



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