次元解放〜澪の物語〜

kei

第1話 あの清玄昴と、××あった…らしい。

 『清玄昴せいげんすばる』という男を語るとき。


 名前の前に「」を、冠することがやけに多い。


清玄昴が…」

「まさか、昴さんを…」


 まるで、一種の形容詞のように付されるのだと、みおは最近になって気がついた。


 正確には、2週間前から。

 清玄昴せいげんすばるを避けるようになってからだ。


「ねぇねぇ、さっき聞いたんだけど。昴さんが…」

 ざわつく廊下で聞こえた、ひそめく女性の声。


 「すばる」の名に、みおの全神経は、高速レーダーのごとく俊敏に反応した。


 辰巳澪たつみみおは、東京都心の医療施設、通称『ラボ』に勤務する薬剤師だ。

 ショートヘアにナチュラルメイク、サバサバした性格の理系女子リケジョで、仕事中は、白衣にメガネ、マスクを装着して鉄壁の守りを固め、ある種の人間を避けている。


 その中でも特に、清玄昴せいげんすばるからは徹底的に、逃げている。


 ひそひそ声のその主は、受付からだと澪は即座に特定した。

 黒の制服がよく似合う受付嬢、さくら嬢と舞華まいか嬢だ。


 なにしろ噂話が大好きで、来客情報、特にイケメン患者について、鬼詳しい。


 澪はさりげなく耳をそばだて、薬歴簿ファイルを左手に持ったまま、あくまで自然に、受付へと近づいた。


昴さんが…、今度、いらっしゃるみたいなの~!」


 口元を手で覆っていても、声のボリュームが抑えられていないのは、ショートボブのさくら。


「えっ、昴さんて、清玄家の?」


 長い髪をふわっと揺らして、舞華まいかが聞き返した。


「そう。もちろん!」

「きゃ〜! その日は、何があっても仕事休まない。いつ? 前の日、サロン行かなきゃ!」


 2人は声をトーンアップさせ、興奮気味に話し始めた。


 全くをもって、心穏やかじゃないのは澪だ。


(…なにそれ。聞いてないわ)


 澪は、カッと目を血走らせた。


(来院はまずいわ。できれば、その日は仕事…仕事…~~~~~仕事休もう! 外出も避けなきゃ…!)


「おはよう。何か、楽しい話?」


 澪は受付カウンターへ歩み寄り、話に夢中の2人に、ごくナチュラルに声をかけた…つもりだった。


「あっ…、澪さん。おはようございます」

「おはようございます」

 2人は澪に気づくと、バツが悪そうにうつむいた。


 声をかけたのは、逆効果だった。

 大声で騒いでいた自分たちを恥じて、最も重要な、昴に関する会話が途切れてしまったではないか。


「あの、何かご用ですか?」

 受付のひとり、長い髪の舞華が、笑顔を傾けて尋ねてきた。


(ご用はない。昴がいつ来院か、それだけが聞きたい。どうぞ、お話続けて?)


 しかし澪には、そこをピンポイントで聞き出す勇気が……出てこなかった。


「用っていうか…、その、休憩中にチョコでも食べて。よかったら」


 澪は白衣のポケットから、チョコミントのミニパックを出すと、受付カウンターに置いた。


「わぁ~、ありがとうございます!」

「それで…、さっき話してた…」

「いえ、たいした話じゃないんです。清玄家の昴さんが、近々いらっしゃるって聞いたものですから、ついはしゃいじゃって…。すみません」

 舞華は、申し訳なさそうに謝った。


(謝罪はいい。私が聞きたいのは、誰からの情報で、近々って具体的にいつかってことで…)


「そう。それで…」

 澪は、焦る気持ちから、受付カウンターに身を乗り出しそうになる自分にハッとした。


(待って。これ以上、彼女たちに聞き込んだら、変に思われるんじゃないかしら。私が昴のこと、知りたがってたって、噂なんか立ったら…!)


 澪は気を取り直すと、小さく咳払いした。


「2人が仲良いのは、見ていて微笑ましいわ。でも、おしゃべりは、ほどほどにね」


 そう言って微笑むと、澪はクールに身をひるがえして、その場を去った。


 気を乱してはいけない。なにしろ、勤務中なのだ。



「澪さん、今日もかっこいい…」

 澪の背中を目で追いながら、さくらがため息まじりにつぶやいた。


 澪は職場でモテる。男性職員ではなく、女性職員から。


「うん、憧れるよね。先日も、電車でチカン捕まえたって聞いたわ」

「ステキ〜♡ …って、私たちミーハーすぎない? ついさっきまで、昴さんの話で盛り上がってたのにね」


 2人は顔を見合わせ、声をひそめてクスクス笑った。

 澪も、そう言われるのは…まんざらでもない。


「昴さんなら、しょうがないじゃない」

「確かに。…とはいえ、私が昴さんの目に止まるなんてこと、あるのかなぁ…」

 さくらは、気落ちした声で言った。


(ある。若くて可愛いあなたなら、十分チャンスはある)


 澪は、そう言いたい気持ちを抑えて、ゆっくり歩き続けた。


「ねぇ、今度いらっしゃるなら、受付に寄るかもしれないし、昴さんとランチご一緒できたりとか…そんな機会があったら、私号泣しちゃうかも」


 舞華が励ますように言ったのを、澪は微笑みながら聞いた。

 想いを素直に口にできるのは可愛らしいし、ちょっと…うらやましい。


「うんうん。昴さんなら、あたしワンナイトでも全然OK!」


「分かる~。むしろ、立候補しちゃう!」


 澪の地獄耳がその音を拾った瞬間、澪は思いきりむせて、廊下を派手に滑ったうえ、顔面を採血室の壁に埋めそうになった。


(ワンナ…な、な…なんてことを言っ、…言うのよ!!)


 澪は、真っ赤になった顔を壁に近づけたまま、心の中で叫んだ。

 

(昴と…ワンナイトとか、受付で、そんな…、そん…!!)


 「ワ」から始まる言葉を消し去ろうとした瞬間、澪の記憶が、ぐんと2週間前にフラッシュバックした。



 吸い込まれそうな白霧の中、抱き寄せられたとき頬に触れた、広くがっしりとした胸。

 自分の背中を、温かく、優しく包んでくれた、大きな手…。


 あのときの感触と、身体がよじれるほどドキドキした鼓動がリアルによみがえり、澪は思わず白衣のえりを、きゅっとつかんだ。



「…まぁ、昴さんに限って、酔っててもそんなこと、ないだろうけどね」


 舞華の口からこぼれた言葉で、澪は一気に現実に引き戻された。


 パンッ!


 採血室前の廊下で、小気味よい音が響き渡った。

 澪が自分で、自分の頬をたたいたのだ。


 目の前を強い視線で見つめると、澪は調剤室に向かって颯爽と歩き始めた。


――あの夜のことを、思い出してるヒマはない。



【清玄昴とのエピソード1】

辰巳澪は、清玄昴と、なにかあった…らしい。


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