次元解放〜澪の物語〜
kei
第1話 あの清玄昴と、××あった…らしい。
『
名前の前に「あの」を、冠することがやけに多い。
「あの清玄昴が…」
「まさか、あの昴さんを…」
まるで、一種の形容詞のように付されるのだと、
正確には、2週間前から。
「ねぇねぇ、さっき聞いたんだけど。あの昴さんが…」
ざわつく廊下で聞こえた、ひそめく女性の声。
「
ショートヘアにナチュラルメイク、サバサバした性格の
その中でも特に、
ひそひそ声のその主は、受付からだと澪は即座に特定した。
黒の制服がよく似合う受付嬢、さくら嬢と
なにしろ噂話が大好きで、来客情報、特にイケメン患者について、鬼詳しい。
澪はさりげなく耳をそばだて、薬歴簿ファイルを左手に持ったまま、あくまで自然に、受付へと近づいた。
「あの昴さんが…、今度、いらっしゃるみたいなの~!」
口元を手で覆っていても、声のボリュームが抑えられていないのは、ショートボブのさくら。
「えっ、昴さんて、清玄家の?」
長い髪をふわっと揺らして、
「そう。もちろん!」
「きゃ〜! その日は、何があっても仕事休まない。いつ? 前の日、サロン行かなきゃ!」
2人は声をトーンアップさせ、興奮気味に話し始めた。
全くをもって、心穏やかじゃないのは澪だ。
(…なにそれ。聞いてないわ)
澪は、カッと目を血走らせた。
(来院はまずいわ。できれば、その日は仕事…仕事…~~~~~仕事休もう! 外出も避けなきゃ…!)
「おはよう。何か、楽しい話?」
澪は受付カウンターへ歩み寄り、話に夢中の2人に、ごくナチュラルに声をかけた…つもりだった。
「あっ…、澪さん。おはようございます」
「おはようございます」
2人は澪に気づくと、バツが悪そうにうつむいた。
声をかけたのは、逆効果だった。
大声で騒いでいた自分たちを恥じて、最も重要な、昴に関する会話が途切れてしまったではないか。
「あの、何かご用ですか?」
受付のひとり、長い髪の舞華が、笑顔を傾けて尋ねてきた。
(ご用はない。昴がいつ来院か、それだけが聞きたい。どうぞ、お話続けて?)
しかし澪には、そこをピンポイントで聞き出す勇気が……出てこなかった。
「用っていうか…、その、休憩中にチョコでも食べて。よかったら」
澪は白衣のポケットから、チョコミントのミニパックを出すと、受付カウンターに置いた。
「わぁ~、ありがとうございます!」
「それで…、さっき話してた…」
「いえ、たいした話じゃないんです。あの清玄家の昴さんが、近々いらっしゃるって聞いたものですから、ついはしゃいじゃって…。すみません」
舞華は、申し訳なさそうに謝った。
(謝罪はいい。私が聞きたいのは、誰からの情報で、近々って具体的にいつかってことで…)
「そう。それで…」
澪は、焦る気持ちから、受付カウンターに身を乗り出しそうになる自分にハッとした。
(待って。これ以上、彼女たちに聞き込んだら、変に思われるんじゃないかしら。私が昴のこと、知りたがってたって、噂なんか立ったら…!)
澪は気を取り直すと、小さく咳払いした。
「2人が仲良いのは、見ていて微笑ましいわ。でも、おしゃべりは、ほどほどにね」
そう言って微笑むと、澪はクールに身をひるがえして、その場を去った。
気を乱してはいけない。なにしろ、勤務中なのだ。
「澪さん、今日もかっこいい…」
澪の背中を目で追いながら、さくらがため息まじりにつぶやいた。
澪は職場でモテる。男性職員ではなく、女性職員から。
「うん、憧れるよね。先日も、電車でチカン捕まえたって聞いたわ」
「ステキ〜♡ …って、私たちミーハーすぎない? ついさっきまで、昴さんの話で盛り上がってたのにね」
2人は顔を見合わせ、声をひそめてクスクス笑った。
澪も、そう言われるのは…まんざらでもない。
「昴さんなら、しょうがないじゃない」
「確かに。…とはいえ、私があの昴さんの目に止まるなんてこと、あるのかなぁ…」
さくらは、気落ちした声で言った。
(ある。若くて可愛いあなたなら、十分チャンスはある)
澪は、そう言いたい気持ちを抑えて、ゆっくり歩き続けた。
「ねぇ、今度いらっしゃるなら、受付に寄るかもしれないし、昴さんとランチご一緒できたりとか…そんな機会があったら、私号泣しちゃうかも」
舞華が励ますように言ったのを、澪は微笑みながら聞いた。
想いを素直に口にできるのは可愛らしいし、ちょっと…うらやましい。
「うんうん。昴さんなら、あたしワンナイトでも全然OK!」
「分かる~。むしろ、立候補しちゃう!」
澪の地獄耳がその音を拾った瞬間、澪は思いきりむせて、廊下を派手に滑ったうえ、顔面を採血室の壁に埋めそうになった。
(ワンナ…な、な…なんてことを言っ、…言うのよ!!)
澪は、真っ赤になった顔を壁に近づけたまま、心の中で叫んだ。
(昴と…ワンナイトとか、受付で、そんな…、そん…!!)
「ワ」から始まる言葉を消し去ろうとした瞬間、澪の記憶が、ぐんと2週間前にフラッシュバックした。
吸い込まれそうな白霧の中、抱き寄せられたとき頬に触れた、広くがっしりとした胸。
自分の背中を、温かく、優しく包んでくれた、大きな手…。
あのときの感触と、身体がよじれるほどドキドキした鼓動がリアルによみがえり、澪は思わず白衣のえりを、きゅっとつかんだ。
「…まぁ、あの昴さんに限って、酔っててもそんなこと、ないだろうけどね」
舞華の口からこぼれた言葉で、澪は一気に現実に引き戻された。
パンッ!
採血室前の廊下で、小気味よい音が響き渡った。
澪が自分で、自分の頬をたたいたのだ。
目の前を強い視線で見つめると、澪は調剤室に向かって颯爽と歩き始めた。
――あの夜のことを、思い出してるヒマはない。
【清玄昴とのエピソード1】
辰巳澪は、あの清玄昴と、なにかあった…らしい。
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