第7話 バイバイね…… 9 ―ホムラギツネの涙―

 9


「………」


 ホムラギツネの涙は白い毛を伝ってアイシンの仮面に落ちた。さっきアイシンの仮面を濡らした"何か"もホムラギツネの涙だったのだ。


「先輩……」


 驚いたアイシンはホムラギツネを抱き締める腕をほどいた。

 今まで、アイシンの抱擁がホムラギツネの体を支えていたのだろう。アイシンが抱擁をほどくと、ホムラギツネは膝から崩れ落ち、教室の床の上に倒れてしまう。


「あっ……先輩!!」


 アイシンは急いでホムラギツネの傍らに膝をついた。


「ダァズゲェ……ダァズゲェデ……」


 ホムラギツネは苦しそうな声で同じ言葉を繰り返し言い続ける。その呼吸は荒い。これは戦いで乱れた呼吸とも違う。胸は大きく上下し、体全体で呼吸をしている。ホムラギツネに不穏な異変が現れている事は明らかだ。


「せ……先輩、どうしたの?!」


 アイシンには何が起こったのかが分からなかった。ただ焦ってホムラギツネの体を揺さぶるだけ。


「ギ……ギィ……」


 ホムラギツネは咳き込む様に鳴いた。そして、鋭い牙が見える顎がガクガクと震え出す。

 この震えはすぐに激しくなり、全身にも拡がっていく。


「え……なっ……ど、どうしたの先輩!!」


 アイシンの焦りは更に増す。『このままでは先輩が死んでしまう……』そう思ったのだ。しかし、アイシンの焦りとは反比例するかの様に、ホムラギツネの痙攣は一度全身に拡がると、今度は逆に静かになり始めた。

 痙攣の始まりから治まるまで、おおよそ五秒ほど……痙攣が治まると荒れていた呼吸も静かになった。

 そして、荒れた呼吸が治まった後に起こった変化にアイシンは


「あっ!!!」


 ……と吃驚した。


 この驚きは喜びも混じった驚きだ。何故なら、


「先輩!! 人間に……人間の姿に!!」


 そう……痙攣も荒れた呼吸も治まったホムラギツネは真田萌音の姿に戻ったのだ。

 全身を覆っていた白い毛は全て抜け落ちた。火の玉が破壊したガラス窓の跡地からは風が吹き、萌音から抜けた白い毛を宙に舞わせる。


「も……も……ちゃん」


「先輩!!」


 真田萌音は虚ろな目をして、傍らに座るアイシンの手を取った。


 アイシンはその手を握り返すと、もう片方の手で萌音の頭を抱えて自分の膝の上に置いた。


「良かった! 先輩、人間に戻れた!!」


 アイシンは嬉しそうに萌音に笑いかける。だが、『これは先走り過ぎたものだった……』とアイシンはすぐに気が付いた。


 萌音がまた口にしたのだ。


「助けて……桃ちゃん」


 ……と。


「あっ……ご、ごめんなさい。た、助けてって何から? 私、どうしたら?」


 アイシンはすぐに聞き返した。もうその顔からは笑顔は消した。今の仮面の奥の顔は真剣そのもの。


「くる……しいよ……私、苦しい……」


「苦しい? 苦しいって何?」


 アイシンが聞き返すと、萌音は天井を見詰めていた瞳をアイシンに向けた。今の萌音の瞳の奥には闇が無い。虚ろは虚ろだが、出逢った頃と変わらぬ涼しげな瞳に戻ってきている。


「私……やりたく………ない」


「やりたくない?」


「私……殺したくないよ」


「ころ……」


 萌音はアイシンの手を強く握った。


「殺したくないのに………心が黒く染まってしまって………悪い事ばかり考えて……皆死んだら良いとか考えて………でも、本当は私、そんな事したくない……どうしたら良いの? 桃ちゃん………」


「どうしたら……」


 アイシンが言い淀んでいると、


「うぅ……!!」


 突然、萌音は胸を押さえて苦しみ出した。強く握ったアイシンの手もその瞬間に離してしまう。


「先輩!!」


 ……と、萌音と離れてしまった手でアイシンは萌音の肩を掴もうとした。しかし、萌音はその手を弾いてしまう。


「ダメだ……まただ……また……また……」


 萌音はそう言うと、フラつきながら床に手をついて立ち上がろうとする。


「先輩、ダメだよ!! 無理しちゃダメ!!」


 アイシンも萌音を止めようとするが、




「ギィーーーェーーーー!!!!」




 床に手をついた萌音が野獣の様に吠えた……


「え……?」


 アイシンはこの萌音の姿に驚き固まってしまう。

 しかし、萌音の姿は萌音のまま。ホムラギツネの姿に戻りはしなかった。そして一度吠えると、再び萌音は、"萌音として"……喋り出した。


「ダメだ……桃ちゃん、消えてない……消えてないよ………私から離れて……このままじゃ、私、またバケモノに戻る…………これは、今までよりも黒い感じだ………桃ちゃんが私の心を黒く染めた物を無くしてくれたと思ったのに……」


 萌音は立ち上がった。ふらふらと定まらぬ足取りで。


「私の心を黒く染めた物? ……それって瑠樹くんが言ってた『もやみたいな物』の事?……」


 アイシンは萌音の『私から離れて』という言葉を無視して萌音に近付こうとした。しかし、


「近付かないで!!」


「いや、だって、先輩苦しそうだよ……」


「苦しいよ……ずっと苦しかったよ、今更何だよ! 私の苦しみを何も知らないクセに!」


 萌音は金切り声で叫んだ。


「え……?」


「違う……違うよ……そんな事思ってない……思ってないのに、何で私は言っちゃうの………私が勝手に桃ちゃんに話さなかっただけ……可愛い後輩の桃ちゃんに弱音を吐きたくないって思っただけなのに……本当は八つ当たりなんてしたくないのに………心が黒く染まってから、心の中の悪い感情を私は抑えられない」


 萌音は頭を左右に大きく振りながら一歩、二歩と進むと、アイシンの方を振り向いて床の上に力無く座った。その瞳はまだ虚ろ。だが、闇は無い。


「心が黒く染まってからって、お父さんが亡くなってからの……」


「違う……」


 萌音は再び頭を左右に振った。


「……《王に選ばれし民》に出会ってから私はこうなった。お父さんが死んだのは関係ない………ううん、関係なくはないけど………関係なくはないんだけど………でも、"桜の花びら"が私の中に入り込んでから、私は私を抑えられなくなった」


「桜の花びら?」


 アイシンは萌音の話が掴めず、質問を返す事しか出来ない。


「そう……"桜の花びら"……どこから話せば良いかな?桃ちゃん……さっき言ったね? 私の力になりたいって……私もそうだった。お父さんの力になりたかった。でも、何も知らなくて私は何も出来なかった………それがとても悲しくて……」


「じゃあ……話して、先輩。私に全部話してよ。私だって、何も出来ないと悲しいんだから」


「………」


 萌音は数秒沈黙した。だが、萌音は決意を固めた顔をして、


「うん……」


 アイシンに向かって頷いた。

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