第6話 剥がれた化けの皮 15 ―ホムラギツネ―
15
愛は幼い頃に、赤井正義に妖怪図鑑を見せられた事がある。「嫌だよ、怖いよ」と言っても強引な正義は聞いてはくれず、無理矢理見せられた中で、愛がたった一つだけ『綺麗』と思えた妖怪がいた。
《九尾の狐》
白い体に九つの尾を持つ狐の妖怪。
その九尾の狐が現在、
― 私の目の前にいる
………愛はそう思った。
思ったが、愛は分かっている。目の前にいるのは、妖怪ではなくバケモノだと。
愛の目の前で真田萌音は人間からバケモノへと変化した。それは目映い光が萌音の体を包んだ後で、時間にして一、二秒程。極々わずかな一瞬の出来事だった。
その体はデカギライと同じく白い。冬場の狐と似た、厚い白い毛が全身を覆っている。でも、肘から指先までは、毛皮のコートを腕捲りしたかの様に人間と同じ腕の形。しかし、その腕も白い。"白"というよりも"無"。まだ色に染められる前の塗り絵と同じだ。指先を見ると鋭く長く尖った爪が生えていて、これもまた全身と同じで白。
顔を見ると、仮面をかけていた。狐のお面だ。この仮面も奇妙だ。色は勿論白なのだが、仮面全体には稲妻の様な大きなヒビが走っていて、口元は強引に壊されたみたいに割れている。割れた場所からは、その下にある本物の口が見えているのだが、これもまた腕と同じだ。白い。唇だけが墨で塗った様に黒い。
仮面の上に見える耳はツンと立っていて狐そのもの。尾の方も形は狐そのものだが、萌音の身長に合わす様に一本が1m程で長く、やはり特徴的なのがその本数だ。9本もある。
「どう? これが神が与えてくれた、私の新しい体だよ……」
9本の尾が威嚇をする様に床をバタバタと叩く。そして、黒い唇がニヤリと笑った。
「《ホムラギツネ》……そして、これが真田萌音を捨てた私の新たな名前。どう桃ちゃん? 気に入ってくれた? こんな私でも、好きになってくれるかな?」
「なる訳ないでしょ……」
愛は涙を拭って立ち上がる。
「私の好きな先輩は、真田萌音。ホムラギツネなんか知らない……」
愛は拳を握った。拳を握って、左を前に、右を自分の顔の横に持ってくる。勇猛果敢にファイティングポーズだ。
「おぉ……戦う気? 変身も出来ないのに? じゃあ、どう殺されたい? 噛み殺されたい?」
ホムラギツネは舌なめずり。
「それとも……絞め殺されたい?」
今度は9本の尾がドンッと強く床を叩いた。
「それとも……焼き殺されたいかな?」
そして、ホムラギツネは口を大きく開いた。その口内に、メラッと
― えっ……炎?
愛は驚き、眉が揺れた。
この揺れを見たのだろう。ホムラギツネは笑う。
「あっ! 驚いた? 気に入った? 分かったよ……じゃあ、焼き殺してあげる」
強引な結論をホムラギツネは出した。
ホムラギツネはもう一度口を大きく開き、力を溜める動作なのか、背中を大きく仰け反らせ上を向く。
― ヤバい……
愛は焦った。
― 後ろにはお婆ちゃんがいる……避ける事が出来ない。今すぐお婆ちゃんを連れて逃げ出そうにも階段は先輩……いや、ホムラギツネの後ろにある。それに、気を失ったお婆ちゃんを連れてじゃ素早く動けないから、結局、絶対、炎に襲われる……こんな時、せっちゃんなら、勇気くんなら、ボッズーならどうする? ……多分、
「攻撃だよね!!」
やはり、戦う覚悟を決めている愛の決断は早かった。
「………ッ!!!」
愛は跳び上がった。前でも後ろでもない、真っ直ぐ上にだ。
愛の頭の上には襖が外れた鴨居があった。鴨居の上には
それから、懸垂が如く指の力で体を持ち上げ、宙に浮いた足を体を丸める様に縮込ませる。駅前公園で何度も愛は懸垂を行った。腕の傷があろうが、このくらいの動作は容易。
そして、やはり、ホムラギツネは愛をナメているのか、攻撃の前動作は大振り、急所がガラ空き。狙うは仰け反っているから正面に見えるホムラギツネの顎だ。
さぁ、狙いが定まった。後は思いっ切り足を伸ばすだけ………
ドンッ!!!
「ギャァッ!!」
愛の蹴りが炸裂すると、ホムラギツネの口内で小さな爆発音が聞こえた。力を溜めて吐き出そうとしていた炎が爆ぜたのだろう。
ならば、自分の攻撃を自分自身でくらったのと同じ事。ホムラギツネは口を押さえて悶絶した。
この隙を愛は逃さない。
愛は悶絶するホムラギツネの真横を通り抜け、階段の方へと走る。
バケモノの横を通るなんて危険を犯すのは逃げ出す為か……そんな訳ない。愛は知っている。階段のすぐ近くには花瓶が置かれた戸棚がある事を。愛はそこに用があった。もっと正確に言えば、花瓶に用があったんだ。
「ごめんね、お婆ちゃん。今度代わりの花瓶を買ってあげるから。許して……」
愛は花瓶を手に取った。それから、挿された花を抜き取りながらクルリと後ろを振り返る。
ホムラギツネはまだ悶絶している。そんなホムラギツネに向かって、愛は勢い良く花瓶に入った水をぶっかけた。
「濡れてもまだ、炎は出せるの?」
愛はまだまだ行く。今度は手に持った花瓶が武器になる。
「お前ぇ!! よくもォッ!!!」
しかし、ホムラギツネはバケモノだ。弱くはない。鋭く尖った歯を剥き出しにして、鋭く尖った爪を愛に向けて走り出す。
愛も負けない。走り出す。
「ブッ殺すッ!!!」
ホムラギツネは愛に近付くと、愛に掴みかかろう手を振り下ろした。
「………ッ!!!」
だが、その手は弧を描いて
何故なら、愛が素早く屈み込んだからだ。それも足をドンッと前に踏み出して、体を捻りながら。
避けられた方はピンチ、避けた方はチャンス。世の常だ。
体を捻る愛が少し斜め上を見上げると、再びホムラギツネの顎が見えた。愛はその顎に向かって手に持つ花瓶を勢い良く、
ガシャンッ!!!
振り上げた。
「グワァッ!!!」
まるでアッパーカットの様な愛の振り上げは、再びホムラギツネに痛みに悶える叫び声をあげさせる。
「う……うぅ……」
それだけではない。愛の攻撃をくらったホムラギツネは天井を見上げ、背中から大の字で倒れた。
「やった……」
愛の口からは喜びの言葉が……しかし、愛は油断していない。バケモノがこんな攻撃をくらったくらいでやられる訳がない事を、愛は十分に知っているから。
だから愛は、散乱した花瓶の残骸を避けながらお婆ちゃんの下へと走った。
「お婆ちゃん!! 起きて!!」
……と、大きな声でお婆ちゃんに呼び掛けながら。
「お願い、お婆ちゃん! 起きて!!」
愛は必死に呼び掛ける。
目覚めてほしい理由は、この場所から逃げるのを容易にする為でもあるが、意識を失ったお婆ちゃんが一切の反応をしないという事は、それだけお婆ちゃんの容態が悪いという証になる。死が近いという証になる。
愛は何としてもお婆ちゃんに目覚めてほしかった。お婆ちゃんに生きてほしいから。
「お婆ちゃんお願い!!!」
愛の叫びは絶叫となる………
すると、
………ピクピク
「あっ!」
愛の願いが通じたのか、お婆ちゃんの眉が動いた。
「……うぅ」
唇も。声すら漏れた。
「良かった……」
と、するには早いと分かっているが、愛の顔には安堵の笑みが浮かび、口からは喜びの言葉が溢れる。………この安堵が、愛を立ち止まらせてしまった。
それは本当に一瞬。愛はすぐに動こうとした。しかし、この一瞬が仇となる。
「………!!」
愛は何かに驚いた。立ち止まった愛の足に何かが巻き付いたのだ。
「え……?!」
と振り向こうとした瞬間、愛の足に巻き付いた何かが愛を強く引っ張った。
ドンッ!!
……と、愛は勢い良く倒れてしまう。そして、倒れた瞬間に分かった。愛の足に巻き付いた物、それはホムラギツネの尾だと。
ホムラギツネの尾は1m程の長さしかなかった。しかし、それは、伸縮自在なのか、ホムラギツネから1m以上は確実に離れている愛の足に巻き付いてきたのだ。
いや、『伸縮自在なのか』ではない。確実に伸縮自在だった。何故なら、愛を引き倒したホムラギツネの尾は、スルスルと巻き戻る巻き尺の様に元の1mの長さに戻っていくのだから。
― ヤバい!!
愛は再び焦った。
愛の足にはまだ尾が巻き付いている。このままではホムラギツネのすぐ近くに連れていかれてしまう。
ホムラギツネはまだ仰向けに倒れたまま。この尾の動きがホムラギツネの意識下なのか、無意識下なのかは分からない。けれど、このままでは確実にピンチが待っている事は明らか。
― どうしよう……どうしよう……
焦る愛は、自分を引き寄せようとするホムラギツネの尾に少しでも抗おうと、木床に手を付けグッと力を入れた。しかし、無理だ。この程度の抵抗では無意味でしかない。愛の体は引き摺られ続ける。
― ヤバい! ヤバい! どうしよう! …………ん?
焦る愛の手にコツンと触れた物がある。愛はソレを咄嗟に手に取った。
その瞬間、狸寝入りをかましていたホムラギツネが、
「ギィーーェーー!!!」
勢い良く起き上がった。
さながら、倒したと思ったらラストで必ず蘇るホラー映画のモンスターの様に突然上体を起こしたホムラギツネは、それこそ怪物じみた奇声を発した。
この声の意味は怒りなのだろう。ホムラギツネは気絶する前と同様に鋭い爪を愛に向かって振りかざす。
愛とホムラギツネとの距離は既にホムラギツネの悪爪が届く距離。愛の足からホムラギツネの尾はまだ離れていない。このままでは、愛がホムラギツネの攻撃をくらってしまうのは必至……ホムラギツネが振り下ろした手が、爪が、愛に迫る………しかし、
グサリッ!!!
「ギャァーーー!!!!」
ホムラギツネの手のひらからは真っ黒な血が噴き出した。
この瞬間、愛の足からホムラギツネの尾が離れた。
このチャンスを逃す訳にはいかない。
愛は空かさず立ち上がり、サッカーボールを蹴る様にホムラギツネの顔面を蹴り上げる。
「私は! 負けないッ!!」
バケモノでも脳震盪を起こすのか、ホムラギツネの頭はグラリと揺れて、再び天井を向いて倒れかかる。
この姿に愛は『まだチャンスが続く!』と思った。
愛は更に攻撃を続けようと右手を振り上げる。その手には花瓶の欠片があった。ナイフの様に鋭利な欠片だ。さっきもコレで愛はホムラギツネに攻撃をしたんだ。ホムラギツネの手には幸運にも肉球があった。真っ黒な肉球が。その肉球に愛は花瓶の欠片を突き刺したんだ。
では、今度はどこに攻撃をしようか。
愛は考えた。『顔は硬そうな仮面を着けている。胴体は白い毛に覆われていて隙がなさそうだ。それでは、再び手を攻撃するか……』こんな様な事を愛は右手を振り下ろしながら考えていた。
この思索が愛の動きを僅かに鈍くさせる。
考えてはいけなかった。衝動的に動くべきだった。ピンチはチャンス、逆を返せばチャンスはピンチなのだから。
「ギィーーェーー!!!」
ホムラギツネの二度目の卒倒は起こらなかった。
グラリと揺れた頭はすぐに持ち直されてしまい、ホムラギツネは再び愛に襲い掛かってきた。
「ハッ!!」
……とした愛は急いで右手を振り下ろすが、ダメだ。
振り下ろした場所はホムラギツネの肩口辺り、白い毛に邪魔されて、かすり傷すら付けられなかった。
「このぉガキぃ!! いい加減にしろッ!!!」
ホムラギツネは愛の首を掴む。その力の強さは人間の姿をしていた時と比べ物にならない位に強い。
「………っ!!」
もう愛は声を発せられない。ギリギリと首を絞められ、その体は宙に浮く。ホムラギツネが己の怒りを表す様に愛の体を持ち上げたんだ。
「ブッ殺す! ブッ殺す!! ブッ殺す!!! ブッ殺す!!!!」
ホムラギツネは愛の首を絞めたまま、愛を何度も壁に打ち付けた。
このまま後三回でも打ち付けられたら、愛は気を失ってしまうだろう。痛みと呼吸が出来ない苦しみで今度気絶するのは愛の方だ。そして、このまま10分も続けられると愛は死んでしまうだろう。
もうこの状況から逃れる術は無いのか……
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