第4話 みんなを守るために…… 4 ―荒牧結衣さんは真っ赤な天使を見た―

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 荒牧あらまき結衣ゆいは30代の半ばに足を踏み入れたばかりのごくごく普通の主婦だ。……と言っても勿論、酸いも甘いも知っている。

 でも、人に自慢出来る程の事は昔好きだった女優に名前が似ている事くらいで、不幸話として語る程の災難にも見舞われた事も無い。結衣は『自分の人生は起伏の少ない平凡で平和な人生だ』と自負していた。


 結衣の人生のモットーは『平和が一番』

 だから、少しトロいが優しい夫と、5歳になる一人息子の一哉と、毎日安心して暮らせていけている日々はそれだけで幸せだった。勿論、その日々のなかでも苛つきが溜まる事もあれば、逆に友達と息抜きをしてホッと一息つく事もある。


 そんな結衣の人生に波風を立てたのは、他でもない《王に選ばれし民》という謎の集団だった。結衣は《王に選ばれし民》が現れたその日、空が割れる瞬間を目撃した一人だった。その瞬間、彼女は現実において初めて"恐怖"という感情を抱いた。


『平凡で平和な人生』と自負する結衣の人生において、その日までは"恐怖"という感情は映画や小説やドラマ……創作物を介してでしか感じられない物の筈だった。


 幼少時代には近所で飼われていた大型犬が怖かったり、小学校低学年の頃には通学路にあったガード下に幽霊が出そうで避けて通ったりしていたが、大人になってその当時を振り返ってみると、幼少期の想像力の豊かさが大型犬を巨大怪獣に見せ、ガード下の薄暗さの中に居もしない存在を見せていた……という事に気が付いた。そのどちらもが創作物から得た知識であり、そのどちらもが創作物で覚えた感情をただフラッシュバックさせていただけで、現実を見て恐怖を感じていた訳ではなかった。


 そんな結衣が二度目の恐怖を味わったのは、今日だ。


 結衣は息子の一哉を連れ、隣町の風見へと行こうとしていた。正直、結衣の本心としては外出するのも恐ろしく、出来れば自宅に居たかったのだが、風見のピカリマートに勤める夫が忘れ物をしたんだ。仕事に必要な物……届けない訳にはいかない。『一哉は自宅に残して一人で行こうか』とも考えたが、一人残すのはそれもそれで怖いので、一緒に連れていく事にした。


 家を出て暫くして大通りに出た。それからすぐだった。町に異変が起きている事を知ったのは。それは、普段なら渋滞が起こる事の少ない道路で起きている渋滞。結衣はすぐに『おかしい』と思った。


 しかし、おかしいと思ってもまさか命の危険が伴うおかしさだとは思わなかった。『何かな?事故かな?』くらいの気持ちだった。《王に選ばれし民》の存在が頭を過らなかった訳では無いが、結衣は気付かぬ内に、『そうであってほしくないから、別の可能性を見る』という選択をしてしまっていた。それに、結衣の車を挟む前後の車の人達も特別慌てる様子はなかったから、結衣はただその渋滞の中に飲まれたままでいてしまった。


 それから程無くして、道路の反対側から走ってくる人達が見えた。その人達の恐怖に歪んだ顔を見た時、結衣はやっと只事ではない事を察した。そしてそれは、前後の車の人達もそうだった様だ。その人達は車を捨て道路に飛び出た。『自分達も……』と思い、怯え始めた一哉の手を引き、外に出ようとしたが、その手を引く一瞬で出遅れた。一瞬の間の内に、逃げる人の波が邪魔をしてドアを開く事が出来なくなってしまったのだ。どうにかしたいが、どうしようも出来ない。結衣は外へ出れるチャンスを待った。


 そのチャンスがいつ訪れるのか、そして逃げる人達はいったい何から逃げているのか、その事を確認する為に結衣は視線を前方に向けた。すると、"白い何か"が途轍もない速さでこちらに向かって来ているのが分かった。しかし、何がこちらに向かって来ているのかは分からない。何かは分からないが、結衣はそれを『恐ろしい』と感じた。『恐ろしい何かがこっちに来ている』と。


 そして、結衣は咄嗟に決断した。『もう逃げるのは止めよう』と。それは『死を待つ』という意味ではない。結衣は考えたのだ。『あの"何か"のスピードは速い、ドアを開けられるタイミングを待っている間に、あの"何か"は自分達のすぐ近くに来てしまうだろう。しかも外に逃げられても一哉を抱いて走るから絶対に遅くなる。絶対に追い付かれる……だったら、もう車外に逃げるのは止めた方が良い』そう答えを出した結衣は、瞬時に自分と一哉のシートベルトを外し、一哉の体に覆い被さる様にしてダッシュボードの下に一哉を隠くし、そのままの体勢で自分もなるべく外から見えぬ様に頭を低くして隠れる体勢を取った。


『神様、お願いです。この子だけは助けて下さい』

 結衣は祈りながら一哉をより深くダッシュボードの下に押し込んだ。一哉は「うぅ……」と唸ったが仕方がない。自らの人生を『平凡で平和な人生』と思っていた結衣はもうここには居なかった。『気付かないで、気付かないで、どうかそのまま私達を通り過ぎて……』結衣はそう祈りながらも、もし気付かれて一哉が危険に陥りそうになったら、自らを犠牲にしてでも息子を守ると強く決意していた。


 ダダダダダッと足音が近づいてくる。目を瞑って祈り続けていた結衣は、薄目を開けて横目で走り来る何者かを見た。


 それは、明らかに人間ではなかった。「化け物……」結衣はそう呟いた。そして、「何で……」結衣は気付いた。その化け物が自分を見ている事に。車とはまだ距離があるのに、化け物の顔もハッキリと見えないのに、何故か結衣は分かった。化け物が自分達に狙いを定めている事に。

「馬鹿……」結衣は車の中に残る決断をしてしまった自分に向けて後悔の言葉を吐いた。「あぁ……」運命を受け入れる様に吐息の様な溜め息が漏れる。そして、一哉の体に回した手に力を入れて強く抱き締めた。少しの隙間も開けぬ様に顔を近付け、もう一度目を瞑る。『この子だけは助けて下さい、この子だけは助けて下さい、この子だけは助けて下さい……』結衣は祈った。何度も。何度も。


 足音は更に近付いてきていた。もう、すぐ近くに聞こえる。そして、何やら風が吹く様な音が聞こえた。『何だろうか? 化け物が何かをしているのか?』そう思った矢先、「BANGッ!!」声がした。


 その声は死への合図だと思った。『嫌だ……嫌だ……』結衣は嘆いた。夫の顔が脳裏に浮かび、涙があふれる。『もう一度会いたい……会いたいよ……助けて……一哉の笑顔をもう一度見たい……死にたくないよ……』



 ………



 …………



 ……………時間が止まったかの様な無音の時間。



 一秒……二秒……三秒……


 何も起きない。四秒、五秒……と過ぎても。「………。」結衣は恐る恐る瞼を開き、外を見た。「え……」何故だろう。すぐ近くに居る筈の化け物の姿が無かった。「……どうして?」不思議に思った結衣は起き上がり、運転席側の窓に近付くとゆっくりと辺りを見回した。


 だが、やはり何処にも居ない。『居なくなったの……?』結衣は心の中で呟く。しかし、まだ確証はない。耳を澄ましてみる。すると上空から声が聞こえた。それは三人の男の声。一つはさっきと同じ声だ。


「…………。」


 空を見上げてみると、化け物はそこにいた。そして、結衣は不思議な光景に目を見張った。何故なら、"赤い姿をした大きな翼を生やした誰か"が化け物の腕を掴み、化け物を空高く連れていっていたのだ。その誰かを『天使……』結衣はそう思った。大きな翼を生やした天使だと。「神様が助けてくれたの……?」結衣が呆然と呟くと、「違うよ、お母さん」一哉の声がした。


 パッと視線を移すと一哉も空を見上げていた。母親が動いた事で何かが起こったと気付いたのだろう。「違うよ!」一哉は念を押す様にもう一度言った。そして、母親の方を振り向くと、一哉は飛び切りの笑顔を結衣に見せた。


「あの人ね、正義のヒーローだよ!」


《王に選ばれし民》が町に現れてからの一哉は、常にナーバスな状態にいた。笑顔は少なく、ずっと不安げな表情で、その姿は子供の心は繊細だという事を結衣に痛い程教えていた。

 そんな一哉がやっと笑った。結衣は嬉しかった。嬉しくて、さっき流した涙とは違う、また別の涙が頬を伝った。


「何で泣いてんの? 俺たち助かったんだよ?」


『俺』の『れ』が上がり調子になるのが特徴の一哉。その『俺』を数日ぶりに聞いた結衣の顔にも笑顔が戻った。


「ううん、嬉しくて泣いてるの。かっちゃんの笑ったところ見れて」


「えぇ?なにそれ?」


 一哉は首を傾げた。結衣はそんな一哉をもう一度抱き締め、また空を見上げた。大きな翼を生やした、一哉曰く『ヒーロー』を見たかった。


「あの人がヒーローなの?」


「そうだよ! お母さん気付いてなかった? あの人、ずっとあの白い奴を追っ掛けてたんだよ!」


「そうなの?」


「うん。最初は白い奴の仲間なのかな? って思ってたけど、違かったんだね!」


 結衣はその言葉で気が付いた。一哉を守りたい一心で化け物以外の存在を全く見れていなかった事に。


「そうか。そうだったんだ」


「そうだよ! きっとあの人、この前の声の人だ! なんだっけ名前? ねぇ、何て言ってたっけ?」


 ヒーロー番組の大好きな一哉。その瞳は嬉々と輝いて、テレビを見る時と同じ顔をしていた。


「あっ! そうだ!ガキセイギ!! ガキセイギだよ!! スゲーやっぱヒーローって本当にいるんだね! 俺もなろ!!」


 数日ぶりに見た一哉の笑顔。その笑顔に結衣は涙が溢れて止まらなかった。


「うん、うん、なろうね。かっちゃん、なろうね。ほら、お礼言おう! ありがとうって!」


 結衣は助手席側の窓を開いた。


「応援しよ! 頑張ってって!!」


「うん!」


 一哉は大きく頭を振って頷くと、空を見上げて叫んだ。

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