第2話 出会い

自分自身の未来を知るのはとても簡単なことだ。

例えば家のドアの前に、帰宅した俺が立っているとする。このとき俺は一秒後に行う行動を知っている。

 何故なら俺は俺の意志を知っているからだ。俺は俺の意志を知り、ドアノブを捻って家の中へと足を入れるのである。

 

 ——しかしだ、自分自身の未来を知ることが出来ない場合もある。

 それは外的影響を受けるときだ。例えば帰宅中の電車の中でバッタリ殺人鬼と出会ったとする。

 他の乗客が殺人鬼に殺され、俺だけが残った場合、俺は俺の待ち受ける未来を知らない。

 何故なら、この場合俺の未来を決めるのは俺の意志ではなく殺人鬼の意志だからだ。それ故、殺されるも生かされるも殺人鬼次第なのである。

 

 だがこのような場合はどうだろう。

 殺人鬼に睨まれ、遠回しに「殺す」と言われた場合、俺は自分自身の未来を知ることができる。何故なら…… って、説明するまでもないか。


 一体俺はこんなときに何を考えているのだろう。いきなり例え話なんかして、本当に頭がおかしくなってしまったみたいだ。

 しょうもない話をしていた間にも、化け物は一歩一歩とこちらに向かって来ている。

 

 ——ああ、短い人生だった。

 いや、体感的には長い人生だったかもしれない。

 

 母親の胎内から産まれてこのかた十七年、様々な人生を送ってきた。

 幼少から小学校までの記憶は殆ど無けれども、中学生の頃の記憶は鮮明に覚えている。

 勿論、俺は今男子高校生なのだから高校の記憶は新しいが……真っ暗だから新しいもなにもないか。

 

 そう考えてみればここで死ぬのも悪くないかもしれない。

 価値の無い真っ黒な人生に、最後は鮮やかな赤色を添えて終わりにしよう。

 

 化け物のとの距離は僅か五メートル。

 恐らく後五秒後に、俺は死ぬ。


 そんな死を間近にして、俺の体はさざめく波にように穏やかになった。

 震えは止まり鼓動も一定になる。まさに死を悟った人間のみが辿り着ける極限の境地に、俺は至ってしまったのだろう。


 化け物との距離は残り二メートル。俺を殺す体勢に入ったのか、体を揺らし、その勢いを利用して俺目掛けて倒れ込んでくる。

 倒れゆく化け物に視線を合わせたまままゆっくりと瞳を閉じた——。

 

 ——じゃあな、雨井楓あまいかえで

 自分自身に別れを告げ、そして、俺は後一秒後に、死ぬ——。


「いやだあぁぁぁぁ!! しにたくないよおぉぉぉぉ!! だれか助けてえぇぇぇぇ!!!」


 俺は交差した両腕で頭を覆うようにしながら、魂の叫びを大声で撒き散らした。

 爆音にも匹敵する声量は車両中の壁という壁に反射し、一両の車両どころか一つ奥の車両にまで響き渡る。

 今まで生きてきた人生の中でも出したことがないぐらいのどデカい声で。


 なんとことだろうか。俺は死ぬ直前にして、馬鹿みたいに叫んでしまった。

 泣きべそをかきながらも、見苦しい姿になりながらも、俺は、弱虫の俺は——生きたいと願ってしまった。


 しかし残念なことに現実はそう甘くはない。

 この電車は終電の一個前の電車で、客なんて殆ど乗っていないのだ。


 だからどれだけ大きな声助けを呼ぼうと、誰もここには助けに来ない。

 それにもし俺の声が誰かに届いていたとしても、時間的に間に合わないだろう。

 

 この状況を打開するには俺自身が動かねばならない。でもダメだ。怖くて上を向けない。

 怯えて体が動かない。ヤバい、このままじゃ、ほんとに、本当に、俺はし——。


式術しきじゅつ炎羅えんら


 咄嗟に目を開いた瞬間、化け物の右手の爪が俺の右手のひらを切り裂き、その斬撃が奥深くまで達しようとしたとき、それは野太い女の声と共に突如として現れた。

 

 紅蓮の炎を纏った太糸のようなものがどこから出現し、化け物の右腕に巻き付いて動きをピタリと止める。

 その後すかさず左腕、右脚、左脚に次々と巻き付いて、遂には完全に化け物の動きを封じたのだ。


「うがあぁぁぁぁぁ!!」


 体全体を炎で炙られもがき苦しむ化け物。

 ところがどんなに足掻こうとも、もがこうとも糸は化け物を離そうとしない。


 まるで『絶対離すまい』という自分の意志を持っているかのように。

 既に体の殆どに火傷を負っていた化け物は炎の糸によって更なる追撃を受けている。

 油についた火のようにその炎は消えることを知らず、火の粉を散らすほど熱く、激しく燃え盛っていた。


 しかし不思議なことに周りの車内に火が燃え移っていなかったのだ。

 火災報知器は眠っているように音を発しないのはおろか、煙一つすら発生していない。

 

 それになによりも熱くないのだ。

 あれだけの炎を前にしたら俺の体は真っ赤に穂照り、灼熱熱さを全身で感じることになるはずだ。

 しかし熱いどころか全てを包み込むような暖かさを感じるのだ。


「一体なにが、なにが起こっているんだ……」


 目を細めながら、もがき苦しむ化け物を俺はゆっくりと後退りして見上げる。

 命からがら助かったものの、目の前で起こっている次元を超越した現象に意識を奪われていた。

 

 焚き火の火をまじまじと眺めるように、燃やされる化け物を無心で見続けていたその瞬間、再びド派手な音をたてながらそれはヒーローのように、両腕をクロスしながら窓ガラスを突き破って車両の中に舞い込んで来た。

 

 炎に夢中だった流石の俺も、意識と視線をそちらに向ける。

 そして俺がそれをはっきりと視界に入れた途端、俺の全意識は完全にそれの虜となったのだ。

 

 破壊された衝撃で飛び散る窓ガラスの細かい破片と同化していると錯覚するほどの透明な肌。

 風に靡く真っ白な長髪は汚れ一つ無い雪景色を思わせるほどである。それによく見ると長髪の毛先何本かが紅色と柴色に染まっていた。

 漆黒のコートに身を包み、黒塗りの上着、山なりの胸、黒色のショートパンツ、黒タイツ、黒ブーツと全身を黒に染めた女の左手には黒光の、日本刀のようなものが握られていた。

 

 そう、なんとこの場に飛び込んできたのは若々しい女だったのだ。

 それも女優か何かと見間違えるほどの美貌を持った、まごうことなき美女——。


 一目惚れとはこういうことを言うのだろう。俺は生まれて初めて、人を一目見ただけで好きになった。

 いや、好きではなくて魅了されたと言った方が正しいだろうか。

 

 だが美女というにはとても似つかわない風貌である。

 何故この人は刀を持っているのだろうか。今時刀なんて外で持ったら銃刀法違反で捕まってしまう。


 それにこの人の真紅の瞳。

 その眼差しは女のそれではなかった。ましてや男のそれでもなく、俺の知る限りあの目は獲物を狩るライオンの目。

 テレビで見たものと同じ、——獣の瞳。

 

 俺の心は女を見るやいなや高鳴り始めた。地獄に咲いた一輪の薔薇、まさにあの女は薔薇のような存在だったのだ。


 ——だがしかし、心高鳴ったのは俺だけではない。

 奴もまた、地獄に咲く一輪の薔薇に心高鳴ったのだろう。

 それも俺以上に——。

 

 女の登場を化け物が目撃した途端、先程まで何も抵抗できずにもがいていた化け物が急に燃える糸を解き始めたのだ。

 力を込めたであろう手で糸をがっしりと掴み、次々と解いていく。


 体に絡まった全ての糸を瞬く間に解き終わると、女の方を振り向き巨大にも見える右拳を女の顔面目掛けて放ったのだ。


「この…… ばけ…… ものが。こんど…… こ、そ…… いきの…… ねを…… 止めて…… み、せ…… る!」

 

 今まで死にかけの老人みたいな、掠れた声しか出していなかった化け物が、唐突に声を張りある。 

 まるで死の崖っぷちに立たされた動物が最後の力を振り絞るかのように。


 俺は化け物の言葉を聞いて違和感を覚えた。

 それは化け物が女に対して「ばけもの」と言ったことである。


 女との間になにがあったかは知らないが、俺からすれば化け物はお前で女は人間だ。

 それを化け物などと、遂に片目も見えなくなってしまったのだろうか。


 しかしこれはチャンスだ。

 よくわからないが化け物は女に夢中である。化け物の意識が女に向かっている間に、この車両から逃げるしかない。

 死線をくぐり抜けた今なら体も動く。早く、早く、早く逃げるんだ!!!


 ——ドスッ


 俺が逃げるために床から立ちあがろうとしたのと同時に、それは鈍い音をたてながら床に落下した。 

 俺の口は勝手に開き、体はセメントで固められたかのように動かない。


 俺は瞬きを一回する。もう一回。もう一回。またまたもう一回——。

 約三秒間の間に計四回の瞬きをした俺であったが、目の前の光景が変わることはなかった。


 あまりにも一瞬の事で何が起こったのか理解出来なかった。

 何が起こったか理解は出来なかったけど——結果はわかる。


 そう、結論から言うと…… 車両に飛び込んできた女が床に着地したのと同時に、化け物の首も床に着地したのだ。

 つまるところ化け物の首が胴体から離れて落っこちたのである。


「死体に喋る権利などないのだよ」

 

 女の声とともに、首が落ちたのを皮切りに体全体に亀裂が迸り、二秒も経たぬ間に化物の体がバラバラに砕け散っていく。


「まじかよ……」


 意識するよりも先に口に出た俺の顔は鏡で見るまでもなく引き攣っているだろう。

 だってあんなにも怖かった、恐怖の権化であったあの化け物が、まるで触れただけで崩れ落ちるジェンガのように、崩れ散ったのだ。


 血が噴き出るわけでもなく、内臓が溢れ出るわけでもなく、静かに佇む化け物と頭部と刻まれた胴体。

 それと強靭な目つきでひたすら前を向く女の姿と、その手に握る血に汚れた刀が俺の目に映る。

 

 それは恐ろしいまでに静かであった。

 鳴り響くのは電車の車体がゆったりと揺れる音のみ。


 ついさっきまで派手なガラスの音、女達の悲鳴、化け物の掠れた声、俺の助けを求める叫び声が響き渡っていた車内も、今や不気味な静寂が包みこんでいる。

 

 しかしこの場が不気味な静けさであろうとも、俺が助かった事実は変わりない。

 あの魂の叫び声がこの女の人に届いて、今こうして普通に呼吸することが出来ている。


 俺は選ばれたのだ。「まだ生きろ」と、神が言っているんだ!

 そんなことを考えていたら急に全身の力という力が抜けていき、深く息を吐きながら両手を体の後ろに置いて天井を仰ぐ。

 

 本当に長い時間を経験した気分だった。

 まだ練馬駅から池袋駅まで半分しか移動していないのに、終点の飯能駅から池袋駅まで移動したかのように感じたよ。


 なんなら女の到着が一秒遅れてでもしてたら、池袋どころか人生の終点にまっしぐらだっただろう。


「ふっ」

 

 微妙に上手いこと言った俺は自分に笑ってしまい自然と口角が上がる。

 こんなときに笑うなんて…… ってこんなときぐらい笑っても良いよな。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で発生した緊張感から解放されて、体も笑いたがっているはずだ。

 

 蛍光灯で光る無機質な天井を眺めながら余韻に浸っていた俺の脳内にふとそれは浮かび上がった。


「そういやあの四人……」

 

 それは同じ車両に乗っていた男女四人のことである。四人のことを思い出した俺は前を見ようと顔を動かす。

 また情けない俺の姿でも見てケラケラと笑っている……わけがなかった。

 俺は目の前を見た瞬間に目を強く瞑る。現実とは思えない程のグロテスクな光景が刹那に映り、少し前まで起こっていたことが現実であると再認識させられた。


 俺はそのまま顔を上にずらし、目を開けて再び天井を見つめる。

 この五人の中で俺だけが生き残った。——生き残ってしまった。

 あの四人は俺を嘲笑ったムカつく奴らだ。でもはっきりとわかるのは、あの四人は俺よりも楽しい人生を送っているということ。


 絶対俺よりも人生が充実していたし、やりたいことも沢山あっただろうし、もっと生きたかったに違いない。

 でも神の悪戯か、こんな人生真っ暗な俺だけが生きることを許された。

 

 あの四人が生き返ることは無い。

 人間は死んだら全てが終わりなのだ。俺はあの四人に対して黙祷する。

 それは四人の分まで必死に生きようと努力する、そう誓った黙祷でもあった——。

 

 *

 

 ——全て終わった。

 乗客四人は化け物に殺され、その化け物は謎の女の手によって殺害されたのだ。

 生存者は俺一人。つまりこの事件を、状況を知る者は俺と女のみである。

 

 それに忘れかけていたがここは電車内。

 終点の池袋に間もなく着いてしまう。もし池袋駅のホームに立つ人々がこの光景を見たらどう思うだろうか。

 まあ考えるまでもないが、そんな地獄のような車両に俺がいたら……悲惨な結末が目に見えている。

 なのでここを離れて他の車両に移ることにしよう。

 

 この事件は忘れたくても忘れることの出来ない衝撃の事件だ。

 だから俺はこの出来事を忘れない。この事件を背負いながら生きることに決めたんだ。

 

 この女の人は一体どうするか知らないが…… ってそうだ! 事件後の余韻で忘れていたけどこの人に感謝の言葉を伝えていないじゃないか! 

 俺は命の恩人なのにも関わらず、感謝の言葉一つすら残さずにこの車両から去ろうとしていたのだ。


「あの、さっきはどうもありがとうござ……」

 

 早速お礼をしようと立ち上がりながら感謝の言葉を述べようとしたときだった、僅かに一瞬、背中に悪寒が駆け走り、首元に冷たい感触を覚える。

 俺は咄嗟の判断で立ち上がるのを途中でやめ、中腰のまま違和感を覚える首元に視線をずらした。

 

 俺はそれを目にしたとき状況が理解出来なかった。

 なんと首元に凍てつく鉛色の刀の刃先が当てられていたのだ。

 若干刃先が首を切っているせいか少量の血が垂れ落ちる。

 

 刃に反射して写っている自分の表情はとてつもなく青ざめていた。

 緊張から唇を強く閉じ、右頬がヒクついる。

 額から汗がポロポロと溢れ落ち、体を一ミリも動かせないでいた。


 何故今首元に刀が当てられているのかわからない。

 ただ刀が当てられているということは、俺をいつでも殺せるというサイン。

 そしてこの場にいる刀使いは——ただ一人。

 

 俺は視線と両手をゆっくりと上にあげて、そいつの目をしっかりと捉えた。

 殺意を孕んだ獣の眼。その眼は俺を捉えているかのようで、どこか遠くを見ているかのような得体の知れない眼であった。

 

 俺は軽く苦笑いをした後に小さく口を開いた。


「あの……、これは一体……、どういうことなんでしょうか?」

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