十二話
「――いつもとは違うのだろうな」
リッツォの耳に男性の声が聞こえた。少ししわがれた、だが聞き覚えのある声。
「こんなに長く目を覚まさないとなると、覚悟が必要かもしれない」
「で、でも、まだ希望はありますよね……?」
これは、母親の声――リッツォの意識はより鮮明になり、気持ちは何かに急かされる。
「うーん……ないことはないが……あまり過度な期待はせんほうがいい」
「この子はまだ生きてます。こうして、呼吸をして、生きようとしてます」
リッツォの頬を冷たい手が優しく撫でた。氷のように冷えた手だ。自分はそれを感じられる。まだ、生きている――
「これまでも言ってきているが、残された時間は少ないだろう。心の準備は常にしておきなさい」
「……はい……」
弱く、悲しげな返事だ。まるで諦めてしまったかのような……。黙って寝ている場合ではないか。顔を見て、しっかり伝えなければ――リッツォは重しを載せられたように重い瞼をゆっくり開けた。
「……母ちゃん……」
かすれた声は喉に詰まり、雑音のようにしか発声出来なかった。だがそれでも届いた声は、うつむいていた母親をこちらに気付かせることは出来た。
「リ、リッツォ……!」
息子の目が開いたのを見て、母親は今にも泣きそうな表情でリッツォの顔をのぞき込んだ。
「ああ! 意識が戻って、よかった……先生、見てください! 息子が!」
「そう大声で興奮せずに。息子さんが驚いてしまうぞ」
「あ、す、すみません。嬉しくて、つい……」
母親は反省しつつも、リッツォを愛おしげに見つめていた。
「どれ、今一度診てみよう」
白衣姿の初老の医者は毛布を半分ほどめくると、リッツォの胸に聴診器を当てた。
「……うむ。大きな変化はないが、少しだけ鼓動に力強さが戻ったか?」
「意識を失う前と変わりないんですね」
「まあ、そのようだ。しかし、なぜ今回は長く意識を――」
医者の言葉をさえぎるように、胸に当てられた聴診器をリッツォは痩せ細った手で払い除けた。
「リッツォ、お医者様に失礼なことはしないで。あなたのために診てくださってるのよ」
「気にせんでいい。いつものことだ。私は息子さんに苦い薬ばかり飲ませて苦しめてきたからな。嫌われるのも仕方ない。それに、邪魔が出来る体力があるのはいいことだ」
「はあ……本当にすみません」
笑顔で聴診器をしまう医者に、母親は困り顔で謝った。その光景は何度も見てきたものだった。医者が来ればまずい薬を飲まされると覚えた幼い頃から、幾度となく母親は謝り続けていた。薬を放り投げたり、医者を蹴飛ばしたり、昔も今も医者が嫌いだった。それに加えてわがままや悪態を浴びせ、辛く当たった。こんなやりたい放題の息子が可愛いはずもない。それでも母親は母親でい続けてくれたのだ。諦めず、見放さず、愛ある眼差しを向けてくれた。この場でも……。
今伝えなければ、もう機会などないような気がした。リッツォは渇いた唇を動かし、母親を呼んだ。
「母ちゃん……」
「何? どこか苦しい?」
心配そうに寄り添ってきた母親をリッツォは見つめた。
「……ごめんな……ありがとう……」
弱々しい声だが、今度ははっきりと言うことが出来た。これに母親はきょとんとして息子を見る。
「いきなり、何なの? まだ寝ぼけてるの?」
そう思われるのも無理はない。十代になってからリッツォは両親に対して、面と向かって謝ることも感謝することもなかった。それがいきなり人が変わったように言われても、素直に受け入れるより、怪訝に思うほうが勝るだろう。それほどリッツォはひねくれていたのだ。だがここでまた怒鳴るわけにはいかない。真摯に思いを伝える必要がある。
「寝ぼけちゃ、いない……母ちゃん、父ちゃんに、たくさん……迷惑、かけちまったから、その、謝罪と、感謝……だよ」
「リッツォ? 本当にどうしたの? あなたらしくないっていうか……」
心からの言葉を疑われ、リッツォは寂しさを覚えたが、これも自業自得だ。口の端を自虐的に歪ませ、言葉を続けた。
「信じて、くんなくて、いい……でも、俺は、本当に……感謝、してんだ……自分が、これまで、馬鹿だったって、ことも、気付いた……」
少し呼吸が苦しくなり、リッツォは間を置いてから、再び口を開く。
「……母ちゃん、父ちゃんに……ありがとうって……それだけ、伝えたかった、だけだ」
今言える精一杯の言葉を言い終え、リッツォは呼吸を整えるように深く息を吐いた。そんな息子を母親は眉間にしわを寄せた表情でじっと見つめていた。
「改めてお礼なんて……水臭いことはやめて。親子なんだから。そんなこと真面目に言われたら、これが、まるで、最後みたいに……思っちゃうでしょ……」
うつむいた母親にリッツォは薄く笑いかける。
「いつ、最後に、なったって……おかしく、ないんだろ? なあ、お医者様」
聞かれた医者は気まずそうにリッツォを見返すだけだった。
「そのうち、死ぬって……俺も、わかってる。だから――」
「そんなことない! あなたはまだ生きるの!」
息子の言葉をさえぎり、母親はその腕にすがって潤んだ目を向けてきた。痩せた腕をつかむ力に鈍い痛みを感じつつ、リッツォはその手の上に自分の手を重ねた。
「聞いてよ……だから、その時が、来るまで……俺は……何も、やり残したく、ないんだ」
リッツォはつかんだ母親の手を静かに自分から離した。
「そんなの必要ない。あなたさえ生きてくれれば、私達はそれで十分なのよ。感謝も謝罪もいらないから……」
「それじゃ、俺の、気が、済まない……」
リッツォはおもむろに体を起こすと、毛布を剥がした。
「ど、どうしたの。意識が戻ったばかりなんだから、まだ寝てないと――」
「行かないと……いけねえんだよ……」
弱った体を動かして、リッツォはベッドから両足を下ろし、床に置いてあった靴を履く。
「行くって、どこへ行くつもりなの」
「……セルバトイの、森……」
ゆっくりと立ち上がったリッツォだったが、すぐにふらついてしまい、それを母親は咄嗟に支えた。
「森になんて、一体何の用があるっていうの。こんな状態じゃ無理よ。さあ、ベッドに戻って」
「その通りだ。君はまだ出歩ける体ではない。安静にしておらんと病状が悪化する恐れがある。用があるのなら誰かに頼めばいい」
医者も加わり、リッツォは二人に支えられながらベッドに戻されようとする。
「言った、だろ……やり残し、たく、ねえんだ……」
自分をつかむ手を払い除けるが、二人はしつこくベッドへ戻そうとする。
「お父さんが仕事から帰って来たら頼んでみましょう。一人で行くのは無茶よ。また日を改めて、体調が良くなった時でもいいでしょう?」
「駄目、だ……今、すぐ……」
「お母さんを困らせるな。君の身に何かあったらどうする。そもそも、こんなにふらついた体で森になどたどり着けまい。よく考えて――」
「うるせえ……俺が、助けて、やんだよ!」
思い切り腕を動かして二人を振り離したリッツォは、壁にかけられた自分の外套を取り、寝巻の上から羽織った。
「助けるって、何なの。誰を助けに行くの」
「魔術師の……子供だ」
母親は首をかしげた。
「リッツォ、あなた、そんな友達がいたの? いつ知り合った子なの」
「……母ちゃんの、知らない時、だ」
「事情はわからんが、そんなに急ぐことならば、やはり他の者に頼みなさい。君が行ったところで、逆に君が助けられる立場になりかねん」
「そんなことは、わかってんだ……けど、あいつが、危ない目に、遭ってんかも、しんねえのに……無視して、寝てられっかよ……!」
リッツォは二人をいちべつすると、扉を開けて部屋を出た。そしてすぐに閉め、外から扉を押さえた。
「リッツォ、待って! ここを開けて!」
向こう側から母親の声と共に、扉をドンドンと叩く振動と音が響く。リッツォは慌てず周囲を見回すと、壁に吊り下がる野菜を結んだ縄を取り、扉の取っ手に巻き付けた。その端を近くの棚の足に結べば、扉は大きく開くことはなくなる。
「リッツォ! 行かないで! リッツォ!」
わずかに開いた扉の隙間から母親の手が呼び止めようとのぞいていた。すぐには出られないだろうが、縄を切りさえすれば出られる簡単な足留めに過ぎない。行くのなら急がなければ。
「……ごめん……」
扉からのぞく手に一言謝り、リッツォは我が家を飛び出した。
「くそ……」
勢いよく出たはいいが、リッツォの顔はすぐに苦痛に歪んだ。異様に体が重い。手足には力が入りづらく、一歩進むごとに心臓の音が大きくなっていくような気がした。何かにつかまっていないと、全身がふらふらと傾いてしまいそうな頼りなさがある。改めて自分の体の弱りを思い知らされ、そして猫でいた時の自由さと快活な動きを懐かしく惜しむのだった。
だがこの体に戻ると決めたのは自身であり、もう一度猫となって駆けることは二度とない。この手で、助けるしかないのだ。出来るだけ足に力を入れるよう意識し、リッツォは小走りで我が家を離れた。急ぎたくてもこれが今の限界だった。
明るい日差しの下、久しぶりに自分の足で歩く村は、さほど変わり映えはない。小さな家々が並び、その側には収穫を終えた畑が広がり、そこを鶏やヤギなどの家畜が騒がしく鳴きながら散歩している。そんないつもの光景を横目に、村人達はそれぞれのやるべきことにせわしなく動いている。ふらりと現れ、通り過ぎようとする少年に、特に興味を引く者もいない。寝たきりの生活が続いたせいで、リッツォという子供の存在を忘れてしまった者もいるかもしれない。しかしそんなことは構わない。話しかけられて足留めされるよりは忘れてもらったほうがいい。リッツォは脇目も振らず、村の出口へ向かった。
「はあ、はあ……これ、やべえな……」
村から出たところで、リッツォは膝を付き、荒い呼吸を繰り返した。我が家から村の出口へ移動した、たったそれだけの距離で、リッツォの呼吸はひどく苦しかった。医者の言う通り、出歩ける体ではないようだ。それでもどうにかなると根拠のない自信を持っていたのだが、ここまで苦しくなった呼吸に、リッツォは自分の現実を受け止めざるを得なかった。もう一度あの女のいる家まで行くなど、無謀なこととしか言えない。だがリズを思えば、簡単に諦めることもしたくなかった。死ぬとわかっているのなら、何もやり残したくはない。
「……その、前に……くたばり、そう、だけどな……」
自分を笑いながら、リッツォは胸を押さえて呼吸を整えようとする。休み休み、這ってでも行くしかない――そう考えていた時だった。
背後からガラガラと大きな音が聞こえ、リッツォは振り向いた。見ると村のほうから馬が引く荷車が迫って来ていた。野菜やら日用品を積んだものを、中年の男性が手綱を操り向かってくる。
「こりゃ……使う、しか、ねえよな……」
まさに渡りに船だった。リッツォは片手を上げると、男性に自分の存在を示す。それにすぐ気付いた相手はリッツォの側まで来ると、荷車をゆっくりと止めた。
「どうしたんだい。村ならすぐそこだぞ」
帽子をかぶった男性は、リッツォが村を目指しているものと思ったようだ。しかしその顔を見て、表情が変わった。
「……何か、顔色が悪いな。体調でも崩したのか?」
「頼みが……ある」
「村の医者に診てもらったほうがいい。すぐそこだし、連れてって――」
「村じゃ、ない……セルバトイの、森へ……」
「何言ってんだ。そんなとこに医者なんかいない。早く村に――」
「違うって、言ってんだろ!」
突然の大声に男性の顔が引きつる。リッツォも軽いめまいを覚えながら、さらに言った。
「……お願いだ……セルバトイの、森へ……連れてって、くれ」
「で、でも、かなり苦しそうに見えるが……」
「苦しい、よ……だから、早く、してくれ……」
男性は困惑しながらリッツォを見つめる。
「森に、助けてくれる人でもいるのか?」
「そうだ……いる……」
迷いを見せながらも、男性はリッツォに手を差し出した。
「それなら……いいだろう。さあ、乗って」
リッツォは男性の手をつかみ、その隣に引き上げてもらった。ぐったりと座る少年をいぶかしげに見つつ、男性は深く問わずに手綱を振った。
「急いだほうがよさそうだな」
「ああ……そういう、ことだ……」
ガタガタと不快な振動を感じながら、リッツォは苦しさから逃れるようにしばし目を瞑る。荷車は森を目指し、長く続く道をひた走って行く。
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