十一話
「夜が明けてきやがったな」
緑に囲まれた道を進みながら、リッツォは頭上の星が朝日の光に呑み込まれていくのを見ながら言った。シュラム村を出てから数時間。バンベルガーの家まではまだ遠い。その間には広大な森もある。地図上ではかなりの距離がありそうだったが、果たして猫の足ではどのくらいの時間がかかるのだろうか。それを考えると余計に疲れが溜まりそうで、リッツォの足は自然に歩みを止めていた。
先のことを考えずとも、ここまで走り通しだった体にはすでに疲労が蓄積しており、リッツォにはしばしの休憩が必要だった。道の傍らを見ると、そこには井戸があり、その横に置かれた桶になみなみと水が入っているのが見えた。
誰だって走れば喉が渇く。井戸水を手ですくって喉に流し込みたいが、肉球の手ではそれも出来ない。猫が水を飲むには、直接水場に口を付けて飲むしかないのだ。だが目の前にあるのは外に置かれた桶の水。泥水ではないが、放置された水を飲むのは正直抵抗がある。
「……背に腹はかえらんねえ」
人間としての葛藤と、腹を下すかもしれない不安はあったが、喉の渇きを満たしたい気持ちのほうが勝り、リッツォは桶に近付いた。のぞき込むと、水底に細かい砂が見えたものの、水自体は透き通り、臭いも特にしない。井戸から汲んだばかりなのかもしれない。恐る恐る舌を出し、舐めてみても、妙な味がすることもなく、安心を得たリッツォは夢中で喉を潤した。
「ふうー……うまかった」
冷たい水は渇いた全身に行き渡り、溜まった疲労を少しだけ軽くした。これでまたしばらくは走り続けられそうだった。
その時、井戸を挟んだ向こう側を何かが横切って行った。顔を上げると、それは若い男性だった。どうにか走ってはいたが、息は絶え絶えで、へろへろな体は今にも倒れ込みそうにふらついていた。
「何だ、あいつ」
リッツォは不思議そうに眺める。ふと男性の先を見ると、民家の屋根がいくつか見えた。気付かなかったが、すぐ側には村があった。この井戸も村のものなのだろう。男性はその方向へ向かっているようだ。
無視してもいいのだが、何となく男性のことが気になったリッツォは、その後をこっそり追ってみることにした。村に着く途中で倒れられても気分が悪い。無事にたどり着けるかを見届けるつもりで背後を付いて行った。
すると、早朝からガチョウの世話をしていた老人が、近付いて来る男性に気付いてすぐに歩み寄って来た。
「あんた、どうしたんだい」
声をかけた老人は男性の肩を支えてその顔を見ると、細い目を大きく見開いた。
「お前……モリッツじゃないか!」
やけに驚いた声を上げると、今度は嬉しそうに男性の肩をつかんで揺らす。
「今までどうしてたんだ! 親父さんも、村の全員が心配してたんだぞ!」
「た、ただいま……」
男性は一瞬笑顔を見せると、その場にへたり込んだ。相当疲れていたのだろう。リッツォは草むらに身を潜めてそれを眺める。
「馬鹿な気起こして家出してたんなら、親父さんに一言謝らないと――」
「ち、違うよ……確かに、父さんとは反りが合わないけど、そんなことで家出なんかしないよ」
「じゃあ、一体どこ行ってたんだ」
「知らない場所に、閉じ込められてたんだ……誘拐されてね」
「誘拐だと!」
思わぬ話の展開に老人同様、リッツォの尖った耳も男性に集中した。
「だ、誰に誘拐されたんだ」
「姿は見てない……けど、同じように連れて来られた女の子が言うには、フレインとかいう女の魔術師らしい」
それにリッツォはぴくりと反応した。女の魔術師とは、あの対峙した魔術師のことだろうか。それと連れて来られた女の子というのは、もしや……。
「魔術師の知り合いは何人かいるが、フレインなんて名は聞いたことがないな……お前の他にも、誘拐された人がいたのか」
「うん……でも、またどこかに連れて行かれて、それっきりわからない」
「その、女の子もか」
「いや、僕はその子に助けられて逃げることが出来たんだ。魔術師見習いらしくて、その力で逃げられた」
魔術師見習い――その言葉でリッツォの胸には確信の灯りがともされた。子供でそんな肩書きを持つのはリズしかいない。無事だったのだ。しかも人助けを出来るくらいに。だがここにリズの姿はない。逃げ出して来たというのなら、一緒にいてもおかしくないはずだが……。
「それで、その子はどうなった。お前じゃ助けられなかったのか」
「一緒に逃げようと言ったんだ。でも捜す人がいるとかで、先に逃げてって言われて、仕方なく……」
「その子を一人で残して来たのか」
「僕じゃ魔術師には太刀打ち出来ない。だから、助けを呼ぶつもりで、ここまでずっと走って来たんだ」
「そりゃ皆に急いで知らせたほうがいいな……場所はどこだ」
「森だよ。セルバトイの森の、奥へ入ったほう、だと思う。何せ急いで逃げてきたから、正確な道順なんかはわからないけど……」
「そうか……ここで待ってろ。人を呼んでくる」
老人が男性から離れたのを見て、リッツォも草むらから踵を返し、再び道に戻った。
気まぐれの寄り道で思わぬ情報を得ることが出来た。リズはセルバトイの森のどこかにいるらしい。そしてそこで誰かを捜している――それはおそらく父親の魂だろう。男性と逃げられる機会を捨て、フレインへの恐怖を物ともせず、一人残って父親を捜そうとするとは……無事かどうか心配していたのが阿呆らしく思えるほど肝が据わった少女だ。しかしその目的を達したかどうかはわからない。すでに森から出たのか、フレインの手から逃れられたのか。それとも再び捕まり、連れ戻されてしまったのか……。
リッツォは道を駆け出した。流れる景色の先には広い森の一端が見える。バンベルガーの家へ向かう前に通るのがセルバトイの森だ。どうせ通るのならリズの所在と安否を確認しておくべきだろう。危険が迫っているのを通り過ぎては目も当てられない。たとえリズが逃げていても、それが確認出来れば十分だ。猫の身でやれることはそれくらいしかない。
リッツォはそれから長いこと走り続け、セルバトイの森に入った。昼間でも薄暗い森の中はどこか不気味で、いつどこから野生動物に襲われてもおかしくないような怖さも漂う。見えるのは林立する樹木ばかり。その間を冬の寒風が体を撫でるように通り過ぎて行く。その後に残る静けさは、進むリッツォに余計な緊張を与えてくる。
男性は知らない場所から逃げ出してきたというが、それがどんな場所で、どこにあるかはわからない。確実なのはこの森の中にあるということだけだ。奥へ向かえばそのうち見つかるだろうと、どこかで楽観視していたリッツォだったが、思えばセルバトイの森はこの辺りでは一番大きな森で、周辺の全町村をすっぽり呑み込めてしまうほどの広さがあるのだ。その中に点のようにある場所を手掛かりもなく見つけ出すことなど、相当な運の持ち主でなければ不可能なのかもしれない。
「……帰り道、わかるかなあ」
胸に不安がよぎったリッツォは、自分が歩いてきた背後を振り返る。リズのことだけを考えて進んでいたが、ふと自分の身も気になった。木しか見当たらない森の景色はどこも同じで、目印になるようなものは何もない。ふらふらと探し歩いているうちに、方向すら見失うのではと、わずかな危機感を覚えた。だがここまで来て引き返すことも出来ない。リズに何かあっては手遅れになる。自分より、まずはリズの安否を優先すべきだと、リッツォは探索を続ける。
しかし、いくら懸命に探したところで、その熱意が結果を変えるわけではない。ただやみくもに歩き回っても、やはり見つからないものは見つからない。わずかな木漏れ日の下で冷えた体を温めながらリッツォは考える。
「動物なら、動物らしく探してみるか……」
見える手掛かりがないのなら、見えない手掛かりを探す――猫という自分からそこに思い至ったリッツォは、早速地面に顔を近付け、匂いを嗅いだ。猫の嗅覚がどのくらいかは知らないが、少なくとも人間よりは優れているはずだと、リッツォはそこから探し出してみることにした。ほとんどは土と緑の匂いだが、それでもほんの少しだけ違う匂いも混ざっていた。それが何の匂いかまではわからないものの、手掛かりのない今はとりあえず別の匂いをたどってみるしかなかった。地面だけではなく、木の幹や流れてくる空気の匂いも嗅ぎ、それにいざなわれようと進んで行った。
そうして何百回と匂いを嗅いで歩き回ったかわからない。だがふと顔を上げると、視線の先には古い建物があり、リッツォは呆然とそれを見つめた。
「……やっぱ、動物の嗅覚ってのはすげえな」
匂いを追って何となく来た結果、建物にたどり着けたことはリッツォ自身も驚きだった。しかしここが目的の場所かはまだわからない。中に入って調べなくては――気を引き締め、建物に近付こうとした時だった。
「あら、また来客があるなんて」
鈴を転がすような突然の声に、リッツォはすぐさま振り向いた。
「お、お前……!」
気配のないまま、そこには微笑みを浮かべるフレインが立っていた。
「もしかして、私の腕を傷付けたことを謝りに来てくれたのかしら?」
「は? 誰がお前なんかに謝るかよ」
リッツォは身構え、じっとフレインを睨み付けた。
「謝ってくれないの? それは残念ね。とても痛かったのだけれど」
そう言ってフレインはローブの上から左腕をさすった。
「……リズはどこだ。ここにいんのか」
「さあ……どうでしょう」
不敵な笑みを見せるフレインに、リッツォの目がぴくりと吊り上がる。
「さっさと言え。いるかいないか、どうなんだよ」
「傷付けておきながら謝りもしてくれないあなたに、教える義理はないと思うけれど?」
奥歯を噛み、リッツォはさらに睨む。
「謝れば、教えるってのかよ」
「どうかしら……私はあなたのしたことに、これでも憤っているのよ。謝られただけで許せるかどうか……」
一歩を踏み出したフレインに、リッツォは構えた足に力を入れる。
「教える気なんか、ねえんだろ」
「そうかもしれない……この嫌な気持ちを晴らすには、やはりあなたを魂ごと消し去ってしまったほうがよさそうだわ」
さらに一歩近付いたフレインの動きに、思わずリッツォは後ずさる。勝てるはずのない相手に、その頭は緊張と焦りでぱんぱんになっていた。逃げなければ。だがリズの安否が確認出来ていない。しかしそんなことをしている余裕もない。今は自分の命が危ないのだ。どうしたらいい。逃げるにしても一体どこへ――全身はぴりぴりとして、思考は恐怖に呑み込まれそうだったが、強気に睨む眼差しだけはかろうじて続けていた。それがリッツォに出来る、最大の牽制だった。
「私をそんなに睨んだところで、何の意味があるのかしら」
笑いを含んだ口調で言うと、フレインは右手を伸ばした。
「それでは、消えてちょうだい」
殺される――心臓は早鐘を打ち、リッツォは呼吸を止めた。伸ばされた細く白い手をじっと見つめたまま、恐怖にとらわれた足はその場につながれたように固まった。もう逃げ切れない。背中を向けた瞬間に終わると思うと、もはや一歩も動くことが出来なかった。揺れ動くリッツォの瞳を、フレインの笑う目が見てくる……。
「――と、思ったけれど」
フレインはなぜか伸ばした手をゆっくり引っ込めた。
「あなたを利用してみるのも、面白そうね」
「……利用?」
「ええ。あなたはあのリズという子のお友達なのでしょう? だとしたらあなたのことも放っておけないはず。私の元にあなたがいると知ったら、あの子はこちらの言うことを聞いてくれるかもしれないわ。そう思わない?」
「俺を、人質にする気かよ」
「ただ消してしまうよりは有効的でしょう。あなたにも、私にもね」
「勘違いすんな。俺とあいつは、別に、友達なんかじゃねえ」
「そうかしら? 私と森の中の道で会った時、お互いがお互いを心配する様子はそのように見えたのだけれど……?」
フレインは見透かしたように笑む。リッツォとリズはまだ互いを友達だと認めはしないかもしれない。だがすでにそれに近い関係性に変わっていることはリッツォも自覚していた。こうしてリズの安否を心配し、捜しに来たのが何よりの証拠だ。自分をこんな目に遭わせた責任を取らせるためとも言えるが、その心にはリズの身を案じる気持ちがあることを、リッツォ本人がよくわかっている。リズはもう口喧嘩をする相手ではなく、共に困難に立ち向かう仲間のような感覚だ。
だからこそリッツォは友達ではないと言い張りたかった。何の思い入れもない相手を助けに来るわけがないとフレインに思わせたかった。リズならそういう行動を起こすだろうと想像がつくからだ。モリッツと呼ばれた男性を助け、逃がしたことからも、あの娘は簡単に命を見捨てないはずだ。魂を元に戻すと約束した相手ならなおさらと言える。だがフレインは二人の仲をすでに見抜いている。そしてリッツォに利用価値があると見始めている。
「まあ、どちらでもいいわ。あの子の反応を見ればわかることよ。何もなければ、その時に改めてあなたを消してあげましょう」
「くっ……」
フレインの右手が再び伸ばされたのを見て、リッツォはすぐさま駆け出そうとした。が、足を踏み出す暇もなく、その体は一瞬にして硬直した。
「逃げなくても大丈夫よ。お友達のあの子がきっと助けてくれるわ」
「とも、だち……じゃ、ねえ……」
「強がりさんね。そう言えば言うほど、私は確信出来るわ。さあ、あの子は助けてくれるかしら……けれど、こちらとしては条件を付けたいわね。ファルカスの魂と交換、なんてことを聞いてくれるかしら……」
ぶつぶつと言いながらフレインは身動き出来ないリッツォの体に触れる。
「さわ、んな……!」
細い手が灰色の体の腹に回り、小さな体を軽々と持ち上げた。
「毛皮を着ているのに、随分と体が冷えているのね。準備が整うまで、私と一緒に暖炉で温まりましょう」
リッツォを腕の中に抱くと、フレインは建物へ向かい始める。硬直した姿勢のまま、リッツォはフレインの顔を見上げていた。建物はこの女の領域内……入ったら今度こそ終わりだ。リズをおびき出すのに使われるか、それが出来なければ、ただ殺されるしかない。どちらも最悪な結末だ。だがリッツォにとっては利用されることのほうがより気分が悪い。それでリズが命を奪われでもしたら、リッツォは死んでも自分を許せないだろう。人質にされるのは、絶対に避けたいことだ。
「は、な、せ……」
魔術の影響で片言になるリッツォを、フレインは微笑み見つめる。
「もがいても疲れるだけよ。しばらく休んでいなさい」
フレインは小さく丸い頭を一撫でした。その手を引っかいてやりたいと思いながら、リッツォは近付く建物に焦りを募らせる。人質になるわけにはいかない。利用されるわけにはいかない。リズを危険に引き込むなど、あってはならないのに、この身では抵抗すらままならない。追い込まれる状況にリッツォは懸命に考えるが、妙案など浮かぶことはなく、代わりに浮かんできたのは我が家で眠る自分の姿と、そこに寄り添う母親の姿だった。ようやく意思が決まったというのに、自分の体に心から戻りたいと思えたのに、それはもう叶わないのか。
「……い、やだ……」
ひどい言動とわがままを繰り返してきたのに、それを両親に直接詫びることは、この先永遠に出来ないかもしれない。そんな後悔を自分は引きずるのか。
「ごめ、ん、だ……」
フレインのすることは何もかもごめんだ。利用なんかさせるものか。リズに迷惑などかけてたまるか。自分には戻らなければいけない場所があるのだ。そこで話すべき人が待っているのだ。どんなに突き放そうとも、顔をそらさず、寄り添い続けてくれる人が。戻らなければ……終わりを待っている場合ではない。絶対に戻らなければ!
「俺は……戻る……戻るんだ!」
そう叫んだ瞬間、リッツォの身から重さという感覚が消え、全身が空気のようにふわりと浮かび上がるのがわかった。硬直していたはずの視界は自由に動き、見える景色は徐々に上昇していく――リッツォは自分に何が起きたのか、すぐに理解した。この状況は以前に何度も経験していた。魂が体を離れ、宙を飛んでいるのだ。自分の魂が、自分の意思だけで、自分の元の体に戻ろうとしている……!
「驚いたわ……魔術の力なしで抜け出るなんて」
下方に目を向けると、灰色の猫を抱いたフレインが青い目を丸くしてこちらを見上げている姿があった。
「今は遊ぶ時間ではないわ。さあ、こちらへ戻りなさい」
丸くした目を鋭くさせると、フレインは頭上のリッツォへおもむろに手を伸ばした。そして口の中で呪文を唱え始める。逃れた直後にまた捕まるへまは出来ない――リッツォは軽い体を急いで浮かび上がらせ、さらに上昇した。枝葉をくぐり、樹木の頭を通り越し、雲の流れる広い空へ躍り出た。足下を見下ろすと、だだっ広いセルバトイの森が緑の絨毯のようにどこまでも広がっていた。先ほどまで自分が立っていた地面やフレインの姿は、もうどこにあるかさえわからない。早く戻らなければ――そう思った時、見えない何かが腕をかすめるように飛んできた。それは見下ろす先から向かってきたようだった。
「あの女、攻撃してきやがったな……」
フレインは姿が見えなくなってもリッツォを捕まえるつもりらしい。そんなことには付き合えないと、リッツォは慌ててその場を飛び去る。鳥のように滑空し、魂が強く引かれるほうへと向かう。その先に自分がいるのだと感覚でわかった。もう迷いもためらいもない。戻ることだけを思い、一直線に空を突き進んで行った。
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