十話

 ここはまるで廃墟のようで、床のタイルは剥がれ、壁紙も色あせて破れ、高い天井は梁がむき出しになって今にも崩れてきそうな雰囲気だ。部屋も廊下も埃にまみれ、一見すると人が住んでいるとは思えないのだが、いくつもある部屋を見て回ると、ところどころにその気配が散らばっていた。壁の魔法陣にかけたインクもその一つだ。乾かず、固まっていなかったということは、あのインクは誰かが持ち込み、使っていた証拠だ。そしてそれがフレインである可能性が高い。他にも、飲みかけのコップや、綺麗に磨かれた鏡、荷物を動かした真新しい跡など、最近に人が入った痕跡を見つけることが出来た。しかし大半の部屋は廃墟同然で、まったく使われていないようだった。フレインが一人で住んでいるとすれば、こんなに広い家では持て余すのも当然だろう。


 魔術の灯りを手に、リズはどこからか吹き込んでくる寒風を感じながら、次の部屋へと向かう。今のところ父の魂や、それに関するものは見つかっていない。もう少し生活感のある室内なら、ここがフレインの住み処だとより自信を持てるのだが、こう何もないと、一時的にこの家を利用しているだけとも考えられる。そうなると父の魂があるかは疑問だ。フレインに気付かれる前に早くここを出たほうがいいだろうか――自分の行動を疑いつつ、リズは次の部屋の前に立った。


「……ここだけ、扉が閉まってる」


 これまでの部屋の扉は、壊れて外れていたり、扉そのものがなかったりして、すぐに部屋の中が見えたのだが、この一番奥にある部屋だけはしっかりと扉が閉まっていた。これが普通の状態ではあるが、ここでは逆にとらえられる。何かありそう――そう思わずにいられなかった。


 リズは取っ手に手をかけ、押してみる。幸い鍵はかかっておらず、扉は音もなく開いてくれた。慎重に部屋をのぞくと、リズはその目を丸くした。


「わあ……」


 思わず小さな驚きの声を上げた。扉を開け、中に入ると、足下の柔らかな絨毯に汚れた靴がわずかに沈んだ。そこにあったのは廃墟の部屋ではなく、まるで豪邸の一部屋のような、綺麗に整った部屋だった。机や棚、タンスにベッドは、どれも埃にまみれることなく新品のように輝いている。淡い桃色の絨毯も掃除がされたばかりのように塵一つ見当たらない。一つだけある窓も、そのガラスはどこまでも透き通り、部屋の中を正確に映し出していた。今まで埃っぽい空気に覆われていたのが、この部屋に入っただけで、不思議と上品な香りに包まれたかのように感じられる。それほどここは美しく、清潔に保たれていた。


 扉の内と外でまったく違う光景。だがこれでリズは自信を持つことが出来た。フレインは主にこの部屋で過ごしているのだろう。ならばどこかにあるかもしれない――自分への疑いが期待に変わり、リズは早速部屋内を探して回った。


 とにかく整頓された部屋には家具以外に余計な物は置かれておらず、あるのは火の消えたランプと白い花の一輪挿しくらいだった。ためらいはあるものの、遠慮するところではないと、リズはまずタンスを開けてみた。しかし思ったほど服は入っておらず、中はすかすかだった。怪しい物も特になく、次に机へ移る。


 ランプが置かれているだけで筆記用具などは見当たらず、リズは引き出しを開けてみる。そこにペンや紙が入っているものと思ったが、あったのは指輪と、数枚の絵だった。


「……綺麗な指輪」


 リズは銀の指輪を手に取ってみる。宝石も何もない、質素なものだが、綺麗に磨かれて輝いている。普通に考えればフレインのものだろうが、魔術によっては邪魔になる指輪は、あまり魔術師は付けたがらない傾向にある。それでも持っているのは、装飾品が好きなのか、この指輪自体が大事なものなのかもしれない。


 次に絵を見てみる。便箋ほどの大きさしかないが、そこには絵具で若い男性が描かれている。後ろへ撫で付けられた茶の髪、真っすぐこちらを見つめる黄の瞳、わずかに微笑みを浮かべる薄い唇……白い肌にほっそりとした顔立ちは弱々しくも見えるが、見つめる瞳にはそれとは真逆の強さを感じる。


 他の絵も見てみると、描かれているのはどれも同じ男性のようだった。顔だけのものもあれば全身を描いたもの、女性と並んでいるものも――


「……この女の人って……」


 リズは手元の灯りを近付け、絵の女性をよくよく見てみた。艶やかな長い金の髪に、整い過ぎた顔、海を閉じ込めたような青い瞳に、上品に笑む赤い唇――フレインに違いなかった。絵の彼女はローブ姿ではなく、民が着る一般的な服装をしている。男性に寄り添って微笑んだ姿はどこか嬉しそうで、幸せそうにも見える。


「恋人、かな……」


 リズはそう感じた。年齢も近そうだし、これだけ絵があるというのは、この男性に深い想いがあるからだろう。もしかしたら銀の指輪も男性に関係する物かもしれない。父の魂を奪うようなひどいことをするフレインでも、女性らしい恋愛をしているのかと思うと、リズは何だか複雑な気持ちになるのだった。


 そんなことはどうでもいいと、絵を傍らに除けて引き出しをさらに探ってみるが、特に気になる物はなく、リズは引き出しを閉めて机を離れた。続けて棚、ベッドも見てみるが、父につながるような物は見当たらなかった。探せる箇所は全部探したが、この部屋ではこれ以上何も見つかりそうになかった。期待しただけに、リズは小さな溜息を吐いた。


 部屋を出て廊下を戻るが、もうすべての部屋を回り、探索を済ませている。他にどこを探すべきかと見回している時、行き止まりの通路が目に留まった。廊下の途中にあり、最初は行き止まりだからと通り過ぎていたのだが、一応見てみようとリズは入ってみた。


 窓からの光が届かないここは一段と暗く、そして狭い。奥には埃をかぶった木箱や薄汚い麻袋が置かれている。何のために作られた通路かはわからないが、物置き場として有効に使われてはいたらしい。


 リズはそこに近付き、それらをざっと調べる。木箱には穴が開いていて、中には埃と木くずしか見えない。口がわずかに開いた麻袋をのぞいても、割れた陶器の欠片が詰まっているだけのようだった。やはり見る必要はなかったか――そう思った時だった。


「……何、この、臭い」


 ふと感じた嫌な臭いに、リズは眉根を寄せる。しかしその臭いはすぐにどこかへ消えてしまう。一体どこから臭ってきたのだろう――リズは狭い通路の中を歩き回り、臭いの痕跡を探した。すると再び同じ臭いを感じ、それが漂ってくるほうへと向かう。そうしてたどり着いたのは、行き止まりに置かれた麻袋の辺りだった。


「中身はごみしかなかったけど……」


 もう一度見ても、やはり中には割れた陶器しかない。別の袋が臭うのだろうかと、手前の袋からどかしていくと、リズはそこに発見した。


「これって、扉……?」


 どかした麻袋の下には、取っ手の付いた長方形の木板が取り付けられていた。開けた下に臭いの元があるのだろうか。リズは取っ手をつかむと、ゆっくり引っ張り上げてみた。


「うっ……!」


 途端、下から強い異臭が上ってきて、リズは顔をしかめずにいられなかった。そんな臭いが流れてくる足下には、暗く長い階段が地下へと伸びていた。


「地下室があったんだ……」


 単なる行き止まりの通路など作るわけもなく、ここは地下室へ行くための通路だったのだ。その入り口がごみで隠され、危うく見逃すところだった。どうにか新たな場所を見つけたのはいいが、しかし気になるのはこの異臭だ。何かが腐ったような何とも言えない生臭さ……実はこの下は調理場で、あまった大量の食材が腐っているだけのことならいいのだが。そんなふうに考えたくても、やはり確認するまで不穏な雰囲気は拭えない。緊張を見せながら、リズは灯りで照らした階段を慎重に下り始めた。


 コツ、コツ、と孤独な足音が響く。その回数が増えるにつれ、臭いも次第に強く、濃くなっていく。リズの胸に吸い込まれた臭いが、不安を大きくかき回し、進める足を重くしていく。一体何があるのか……鼓動の音を強くしながら、地下の部屋へ着いた。


 広そうな部屋ではあるが、暗くて隅々まではよく見えない。相変わらずの異臭に表情をしかめたまま、リズは周囲を見ながら進んでみる。


 壁際にはずらりと棚が並んでおり、魔術で使う器具や紙の束がいくつも置かれている。フレインはここで何かしているのだろうか。部屋の中央には大きな机があったが、その上には何も置かれていない。だが随分と汚れており、赤茶色だったり、どす黒い染みが至るところに付いていた。インクにしては量も範囲も大き過ぎる気がする。


 ふと足下を見ると、床にも同じような汚れが付いていた。何かの飛沫のような跡がそこら中に見られる。よく見れば壁にも付いている。こんなに広範囲が汚れるなんて、フレインは相当派手な失敗でもしたのだろうか。魔術を使った研究では予想外の事象はよくあることと言われるが、フレインも何かしらの研究でもしているのだろうか。


 汚ればかりが目立つ部屋を奥へ進むと、その壁際には先ほどと同じ棚と、その横に並ぶ金属製の大きな箱があった。それは一般的なチェストよりも大きく、小さな子供なら立ったまま隠れられそうなくらいの高さがあった。何が入っているのか――近付こうとしたリズは、ここで異臭がきつくなったことで気付いた。臭いの元は、この中にあるのでは。


 不快な臭いからすぐにでも距離を取りたかったが、気になったまま調べないわけにはいかない。自分の首元近くまである高さの箱に近付いたリズは、それを塞ぐ蓋をつかむと、恐る恐る持ち上げた。


「わっ――」


 開けた瞬間、中から黒く小さな虫が何匹も飛び出し、リズの顔面をかすめていった。それにどうにか耐え、さらに蓋を持ち上げて中をのぞき込んでみる。暗い中を灯りで照らす。そこに見えたのは――


「……ひっ!」


 リズの心臓は止まりそうなほどに戦慄した。赤と黒に染まった大小の塊が悪臭を放ちながら無数に積み重なっており、その表面にはもぞもぞと動くウジ虫がびっしりと張り付いている。顔面をかすめていった虫は、これが成長したハエだったらしい。一瞬、塊は動物の肉かとも思ったが、そうではなかった。その隙間からまるで助けを求めるかのように、伸ばされた五本の指が突き出ていた。それだけではない。折れ曲がった足や、切り刻まれた胴、血にまみれて固まった髪の束……明らかに人間のものだった。切断された体の部位が、無造作に詰め込まれていた。


 すぐに蓋を閉めたリズは後ずさると、込み上げてきた吐き気を懸命にこらえた。鼻と口を手で覆っても、腐った臭いは鼻腔の奥にまで浸透し、嘔吐きを長引かせる。フレインは人殺しまで行っていた。ここまで凄惨に……。リズは改めて部屋を見回す。至るところに見えるどす黒い染みは、おそらく血の跡なのだ。積み重なった部位の量を見るに、一人や二人ではない。何人もがここで殺されたに違いない――そう考えた時、リズはモリッツの話を思い出した。前は自分以外にも人がいて、順番に連れて行かれたと言っていたが、その連れて行かれた人達が、あの箱の中の犠牲者なのでは。だとするとフレインは一体何が目的なのだろうか。わざわざ誘拐してまで人を殺す理由などリズには見当もつかない。もしリズがあの異空間の部屋へ送られなければ、モリッツも体をばらばらにされ、殺されていたのだろう……いや、自分も送られたということは、フレインはリズも殺すつもりだったはずだ。だがすぐには殺さず、あの部屋へ送った。生かしておく時間を取ったのには、何か理由がある気はするが……。


 どうにか吐き気が治まり、答えの出ない考えを中断したリズは、再び部屋の探索を始めた。金属の箱にはもう近付かないようにしながら、その隣にある棚を調べる。


 ここにも様々な魔術用の器具が置かれているだけで、特に変わりはないかと思ったが、隅に見慣れない小箱を見つけ、リズは手に取ってみた。手のひらに載る大きさの立方体の箱には、細かな文字がまるで模様のように刻まれている。重さはあまり感じない。中は空なのだろうか。リズは箱の上半分を占める蓋を持ち上げ、開けてみた。


「こ、これ、まさか……!」


 中には魔法陣らしきものが描かれており、その中心には青白い光がゆらゆらと揺れ動いている。それを見てリズは鼓動を速めた。似たものを以前に見たことがあったのだ。降霊術を虫に試した時に、同じ青白い光を目撃していた。つまりこれは――


「お父さん、なの?」


 リズは半信半疑ながら、光にそっと手を近付けてみた。


「きゃっ!」


 瞬間、指先から痺れるような痛みが伝わり、すぐに手を引っ込めた。おそらく箱の底に描かれた魔法陣が結界を張っているのだ。そこには誰にも触れさせないという意志が感じられる。この警戒された仕様から、リズは確信して呼んだ。


「お父さん、お父さんなんでしょ?」


 すると青白い光は、リズの声に呼応するかのように大きく揺れた。


「私の声が聞こえるの? もう大丈夫だよ。一緒に家へ帰ろう」


 声は返ってこなくとも、光は全身を揺らして返事をする。それはようやく見つけた父ファルカスの魂だった。感極まり、目に涙を溜めながらリズは安堵した。


「やっと見つけた……家に帰るまで、もうちょっと我慢してね」


 優しくそう言うと、リズは箱の蓋を静かに閉めた。魔法陣を解く手間はかかりそうだが、それでも父はこれで助かるだろう――目的を果たしたリズは箱を大事に抱え、階段へと向かった。


 だがそこに見えた影に、足はすぐに止まった。そしてじりじりと後ずさる。いつの間にいたのか。その影は長くそこで眺めていたかのように壁に寄りかかっていたが、リズが気付くと同時に離れ、階段の前に立ち塞がった。


「いけないわね。無断で人の家に入るなんて。しかも盗みまでするなんて」


 微笑みを浮かべ、余裕を見せるフレインが言った。


「ぬ、盗んだのはそっちでしょ! 私は取り返しに来ただけよ」


 緊張と警戒をしながらリズは言い返した。これにフレインはにこりと笑う。


「私も随分と甘かったようね。〝物置部屋〟からは逃げられ、ファルカスまで見つけられてしまうなんて。あの魔術師にてこずらなければ、もう少し早くに手を打てたのだけれど」


 ゆっくり近付いて来ようとするフレインを牽制するように、リズは大声で聞いた。


「あなた、ひ、人を殺したでしょ」


「……それが?」


「何でそんなことするの? 何のために……」


 フレインは、ふふっと笑うと言った。


「私はね、人間の悲しみを癒す実験をしているの」


「実験? 人の命を奪ってまでする実験なんて必要ない」


「理解されようとは思っていないわ。でも、そのためには必要なことだから仕方ないのよ」


「じゃあ、あの部屋に連れてこられた人達は、仕方なく殺されたっていうの? 私も、モリッツも、仕方なく殺すつもりだったっていうの?」


「モリッツ……?」


「あなたが誘拐した男の人よ!」


「ああ、そういえば一人残っていたわね。そんな名前だったの」


 人の命に対してあまりに軽薄な態度に、リズは怒りと気味の悪さを同時に感じていた。


「そんな顔をしないで。想像してみれば、あなたにも私の実験の意義を感じてもらえるはずよ」


「人が死んでるのに、想像なんて出来るはずない」


「駄目よ。人の想像力こそ素晴らしいものなのだから。動かなくなった者が、また息を吹き返し、自分と一緒に笑ってくれる……そんなことが出来たら、この世に悲しみなどなくなると思わない?」


 笑顔を浮かべるフレインに、リズは眉をひそめて聞いた。


「あなた、一体どんな実験して……」


「言った通りのことよ。死者を生き返らせる実験をしているの」


「そんなこと、出来るわけ――」


「試してもいないのに否定するのはよくないわ。現に実験は順調に進んでいるのよ。体の完成は六割ほどまできているし」


 リズは首をかしげた。


「体の完成……?」


「私の実験は死体を生き返らせるものではないの。人間の体を一から作り上げ、そこに命を宿らせるというもの……それが出来たら、素晴らしいと思わない?」


 嬉しそうに話すフレインを見ながら、リズは背筋が寒くなるのを感じた。言動に正気を失っている様子はない。冗談めかした口調でもない。だとすると彼女は真面目に話しているのだろう。人間が、死んだ人間を一から作るなどということを。リズは鉄の箱をちらと見た。こんなおぞましい実験に、一体何人もの命が使われ、亡くなっていったのか。被害者が気の毒でならない。胸に抱く父ファルカスも、体を切り刻まれることはなかったが、こうして魂を奪われた被害者の一人だ。すでに死んでいてもおかしくはない状況だった。


「お父さんの魂は、何のために使おうとしてたの?」


 フレインは苦笑いを浮かべた。


「体のほうはどうにか作れても、命そのもの――魂を作り出すことは、私の魔術をもってしても出来なくてね。だから、実際の魂を手に入れる必要があったの」


「どうして、よりによってお父さんを選んだの? 他にもいっぱい人がいる中で……」


「あら、他の人の魂を選んでほしかったような口ぶりね」


「ち、違う! そんな意味で言ってない」


 フレインはくすりと笑った。


「わかっているわ。誰だって大事な人を失いたくないものね。……ファルカスを選んだのは、私が彼の人柄を気に入ったからよ。穏やかで、紳士的で、私の大事な人にとても似ていたの。こんな命が宿れば、より一層彼に近付くと思えたから。残念ながら死んで長く時間が経ち過ぎた魂は降霊術でも呼べなくて、代わりを据えるしかないから」


 大事な、彼――この言葉にリズの脳裏には引き出しに入っていた男性の絵がよぎった。


「あなた、まさか恋人をよみがえらせようとして、こんなこと……」


「ええ。その喪失感は永遠に続く。だから新たに命を吹き込み、長い悲しみを終わらせる……それが私の行っている実験の目的よ。成功すれば、もう誰も喪失感にさいなまれることはなくなるでしょう。好きな時に、好きなだけ、大事な人と共にいられるのよ」


 やはりこの人はどこか考え方が異常だ――リズはそう思いながら言う。


「そんなの、一時的なことよ。いくら似せて作ったって本人じゃないんだから。その違いに気付いて、もっと悲しみが深くなるだけよ」


「そうかもしれない。けれど、大事な人を肌に感じさせてくれれば、それだけでも悲しみは癒えるものよ。少なくとも私はそう思っているわ」


 するとフレインは鋭い眼差しをリズに向けた。


「……ところで、私が恋人を亡くしたこと、よくわかったわね」


 リズはぎくりとしてフレインを見る。


「そ、それは……何となく……」


「もしかして、私の部屋にも入ったのかしら」


 押し黙るリズに、フレインは微笑む。


「本当にいけない子ね。もう一度〝物置部屋〟に入れておかないと……」


 ゆっくりと向かってくるフレインを警戒し、リズは机を挟んで睨み付ける。


「その魂も返してもらわないとね」


 フレインの右手がすっと動いたのを見て、リズは咄嗟に机の陰に隠れた。その直後、机がガタガタと振動した。魔術を使い、リズを捕らえようとしている。だが二度も捕まるわけにはいかない。父の魂を胸に強く抱き締めると、リズは呼吸を整え、意を決して階段へと走った。


「謝りもせずに逃げるつもり?」


 フレインは目で追いながら両手を突き出す。と、見えない衝撃がリズの足下にぶつかった。


「わっ……!」


 急に床がへこみ、転びそうになるも、足を緩めることなく階段を駆け上って行く。


「子供はすばしっこいわね」


 消える背中を笑顔で見ながら、フレインは慌てることなくその後を追って行く。


 地下を出て廊下に戻ったリズは、振り返る余裕もなく真っすぐ玄関へと向かった。いつ背後から魔術での攻撃が飛んでくるかわからない恐怖を感じながら出口を探す。


「……あった!」


 長い廊下を突き進むと、その正面に大きな扉が見えた。リズは迷うことなくそれに手をかけ、開いた。途端、冷たい風が頬を打ちながらも、新鮮な森の空気が外へといざなってくれる。まだ暗い景色の中を、リズは方向もわからぬまま必死に駆ける――脱出したのだ。しかも父の魂と共に。だがまだ気を緩めることは出来ない。フレインが簡単に追跡を諦めたとも思えない。暗い中での静寂はより不穏で、リズの神経をぴりつかせる。しかし今はより遠くへ駆けるしかない。フレインから一歩でも遠くへ……。


 冷たい風が涼しく感じるほど、リズは長い時間走り続けた。一体ここはどこなのか。真っすぐ走っていれば、いずれ森の出口が見えてくると思っていたが、視界から樹木の影が消えることはなく、森はどこまでも続いていく。自分は迷ってしまったのだろうか――そんな不安を覚えた時だった。


「……あれは……」


 前方に建物の壁らしきものを見つけ、リズは走り疲れた足でそちらへ向かった。近付くと、石と木を使った壁は古そうで、ところどころ欠けていたり、崩れそうな箇所もある。長い間修復もされず、風雨にさらされていたようだ。人が住んでいるかは怪しいが、とりあえず玄関はどこかと壁沿いを歩いて探した。


「……え、何、ここって……」


 ぐるりと回り、玄関と思われる大きな扉を見つけたリズだったが、それを見て愕然とした。つい先ほど脱出してくぐった扉がそこにあったのだ。似ている扉ではなく、まったく同じものに見える。色や幅、取っ手の形や古さ具合……これはどういうことなのか。迷っているうちに方向感覚を失い、元の場所に戻って来てしまったというのか。しかしリズは直進しかしていないつもりだった。極端に方向を変えた意識もない。わけのわからない事態にリズは戸惑い、扉を見つめる。


「おかえりなさい。いい運動は出来たかしら」


 優雅な声にびくりとして振り返ると、背後には微笑んだフレインが立っていた。リズはすぐに警戒し、距離を取る。


「どうして戻って来たのかわからない、と言いたそうな顔ね」


「……あなたの仕業なのね」


「ええ。あなたを見つける前に、念のため入り口に空間魔術をかけておいたの。この家から逃れられないようにね。だからあなたは家から離れたつもりでも、実際はまったく離れていなかったの。なかなか面白い魔術でしょう?」


 笑うフレインを見ながら、リズは焦りを感じた。つまりこの魔術にはまってしまった自分は、どこまで逃げようとフレインの手の中にいることになる。脱出したつもりが、その先は檻だったのだ。


「さあ、大人しく戻ってちょうだい。そして、その魂も返しなさい」


 リズは父の魂が入った箱をひしと抱き締めた。


「渡さない……死んだって渡さない!」


 睨むリズにフレインは小さな溜息を吐く。


「まったく……聞き分けのない子は、叱られても仕方がないのだけれど」


 笑顔を消したフレインはゆっくりと歩み寄って行く。


「こ、来ないでよ!」


 リズは呪文を唱えると、現れた発光体を思い切り投げ付けた。だがそれはフレインの目の前で瞬時にかき消えてしまう。やはりリズの魔術では傷一つ付けることも敵わない。焦りと共に恐怖がリズの鼓動を激しく鳴らし始めた。


「抵抗するのなら、歩けないように足を一本、切り落としましょうか。死んでも渡さないというのなら、そのくらいのことは大丈夫よね?」


 フレインの右手がおもむろに動き始める。口元では聞き取れない声で呪文が唱えられ始めた。もはやリズに逃げ場はなかった。どうあがこうと勝ち目はない。大人しく言うことを聞くのか、もしくは片足を失うのか。そのどちらを選ぶべきか、恐怖に思考をわしづかみにされたリズには決断することが出来なかった。目の前に迫るフレインを見つめ、ただただ身を硬くする。


「……ん」


 呪文を唱えていたフレインが、ふと集中を途切れさせ、視線を中空へと向けた。一体どうしたのかとリズも同じほうへ視線を向けた、その時だった。突如頭上でバリバリと雷鳴のような轟音が鳴ったと思った瞬間、暗い景色に光の筋が刻まれ、その中から人影が飛び出して来た。


「きゃあ――」


 人影が自分に降って来たことに、リズは思わず悲鳴を上げた。だがその相手はリズにぶつかる前に、リズの小さな体を力強く抱き締めた。


「リズよ、無事だったか」


 呼ばれた声に視線を上げてみれば、その顔は小さな傷を負い、黒く汚れてもいたが、間違いなくバンベルガーだった。


「バンベルガーさん!」


 思わぬ救援に、リズはバンベルガーの胸にぎゅっと抱き付く。


「そのまま、わしにつかまっているのだ。離さぬように」


「驚いた。私から命からがら逃げたのに、わざわざ戻って来てくれるなんて」


 フレインに背を向けた姿勢で、バンベルガーは顔だけを向けた。


「お前さんに構っている余裕はない。……リズ、行くぞ」


 そう言うとバンベルガーは呪文を唱える。


「せっかくまた会えたのに……ゆっくりしていってちょうだい!」


 フレインは右手を突き出し、衝撃波を繰り出した。だがそれをバンベルガーは向けた背中で受け止める。そこには魔術で作った防御壁があったが、フレインの攻撃はそれを物ともせず、バンベルガーの身を大きく揺り動かした。しかしそれで詠唱が邪魔されることはなく、抱き合った二人の体は宙に浮かび上がると、光の筋の中へ吸い込まれるように消えて行った。


 暗闇と静寂が戻り、フレインは二人が消えた中空を眺める。


「あの魔術師……どこまでしぶといのかしら」


 ふっと笑い、だがどこか悔しげにそう呟いた。森の彼方はようやく白み始め、闇は消えようとしている。夜明けはもう間近のようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る