九話

 きっと生まれ持ったものなのだろう。リッツォは幼い時からとにかく病に好かれる子供だった。おかげで遊ぶことも、学ぶことも出来ず、ベッドから離れられない日々を送っていた。しかし子供の本分は遊び。体調が悪くてもリッツォは外で遊びたいと、こっそりベッドから抜け出したりもしたが、結局さらに体調を悪化させ、それを両親に見つかり、叱られながら家に連れ戻されるだけだった。


 友達も作れないリッツォは窓から駆け回る同い年の子供達を羨ましく眺めるしかなく、ベッドで横になるだけで何も出来ない自分の体を恨み続けた。やがてそれは両親にも向けられるようになり、十代に入ると不自由な自分への苛立ちを態度と言葉でぶつけるようになっていた。わがままを言っては困らせ、理不尽に怒鳴り散らす。何も出来ない自分は惨めで、かわいそうで、少しくらい文句を言っても許されると思っていた。それに対し、両親も叱ることはなかった。やっぱり自分は同情される存在なのだと思うと、リッツォの心は深く沈み、それに反発しようとする思いで苛立ちはさらに増して、家族内の空気は殺伐となることが多くなっていった。だがリッツォはこんなことは望んでいない。原因が自分であることはわかっているが、心が発する悲鳴を上手く制御することが出来ないのだ。そしてまた両親に当たってしまう……この繰り返しだった。自分も両親も、全員が辛かった。そうさせているのが自分ならば、いっそ死んでしまったほうが誰もが楽になれるのに――そんなふうに思うこともあった。


 それを神様が聞き届けてくれたのかはわからないが、十六歳を迎える頃になると、体調は著しく悪くなり始め、リッツォはたびたび意識を失うほど重篤な状態に変わってしまった。わがままも悪態も鳴りをひそめ、一日中ベッドで眠る日が増えていった。それでもかろうじて目が覚めれば、窓から見える隣家の景色を眺めた。そこに見える鉢植えの花の様子で、時の経過や外の気温を知る。そして、まだ自分が生きている実感も。


 リッツォは意識がない間、夢を見ることがあった。それは自分が大空高くを自由に飛び回っているものだった。村を遥か眼下に見下ろし、鳥のように身軽な体で風をまとって浮遊する。満足に歩けもしなかったリッツォにすれば、とてつもない心地よさで至福の瞬間だった。しかし今ならそれが夢ではなかったのだとわかる。空を飛んでいたのは魂……リッツォの命はもう、病によって尽きかけているのだ。何度も意識を失っては魂が体を離れ、危険な自由を満喫していただけなのだ。


 だが、今回の浮遊散歩は違った。自分の体ではなく、猫の体に入り込むという緊急事態が生じた。見知らぬ場所に見知らぬ少女……事情を聞いたリッツォはそれに怒鳴り、元の体に戻せと怒った。しかしその心の隅では、苦しいだけの自分の体にはもう戻りたくないという思いがあったのだ。猫であっても、歩いたり跳ねたりも出来ない自分よりはましだと、どこかで考えてしまったのだろう。命よりも自由を欲したのだ。


 窓越しに見える横たわった自分は、白い顔で痩せ細り、呼吸も浅い。明らかに死が近そうだ。あの体に戻れば、また病に苦しむ不自由な時間を過ごすことになる。そう思うと、やはり意思はためらった。猫のままは嫌だが、自分の体も嫌だ――こうして自分に会えば意思も固まると思っていたが、ためらいは強まり、決心に至ることはなかった。


 その時、部屋の扉が開いたのを見て、リッツォは反射的に窓の張り出しから飛び下りた。部屋に入るのは両親しかいないからだ。向こうはこちらに気付かなくても、リッツォには見慣れた家族だ。顔を合わせるのは少し恥ずかしいような、気まずい感じがあった。


「リッツォ……」


 小さな声が聞こえた。母親の声だ。きっと息子の様子を見に来たのだろう。リッツォが目を覚ますと、必ずと言っていいほど母親の姿がある。それほど頻繁に気にかけ、世話をしてくれるのが母親だった。


「寒いけど、ちょっとだけ空気の入れ替えするわね」


 そう言うと足音が聞こえ、リッツォが見上げる窓に手がかかった。そして片側の窓をほんの少し開けると、足音は再びベッドのほうへ戻って行った。


「あ、あれ持って来ないと……」


 ふと思い出したように言うと、母親の足音と気配は部屋を出て行った。何か忘れ物でもしたようだ。リッツォはもう一度中を見ようと、また窓の張り出しに飛び乗った。すると、ベッドの横の机に洗面器が置かれていた。それを見てリッツォはすぐに気付く。母親は寝たきりの息子の体を拭くつもりなのだろう。もう何年間もやってくれていることだ。しかしこんな時間にやらなくてもいいのにと思わず言いたくなる。


 壁となっていた窓は、空気の入れ替えのために少しだけ開いている。もう少しだけ自分に近付いてみようか。そうしたら勝手に魂が体に戻ったりしないだろうか――そんな都合のいいことを考えながら、リッツォは頭で窓の隙間を押し開いた。そこから部屋へ入り込むと、自分が眠るベッドに近付き、そこに前足をかけてのぞき込む。


「……俺だ」


 体調が悪化してからは鏡などはまったく見ておらず、自分の姿がどうなっているのか、気にもかけていなかったが、こうして間近で見てみると、まさに重病人そのもので言葉がなかった。頬がこけて骨は浮き出て、肉などどこにも付いていないような顔だ。青白い肌は血管が透き通って見えそうで、でも目の周りだけは血を集めたように赤紫色の肌をしている。息をする口元はわずかに開いていたが、唇は乾燥し、しわが刻まれている。喉が渇いても水すら飲む気力がないのだ。我ながらひどい姿だとリッツォは思った。だがそんな中でも、髪だけは綺麗に整えられていた。少し伸びてはいるが、黒髪には艶があり、前髪は目にかからないよう左右に除けられている。後ろの髪も寝ぐせを防ぐため真っすぐ綺麗に伸ばされていた。ここまでの気遣いをするのは母親しかいないだろう。毎日世話をしてくれるおかげで、髪だけは変わりなくいられるようだ。


「おい……」


 リッツォは眠る自分に声をかけてみる。それはかなり不思議な気持ちだった。返事も会話も不可能なのはわかっていても、自分に聞いてみたかった。


「やっぱ俺は、お前に戻ったほうがいいんだよな……?」


 わかりきった質問に、リッツォは自分を鼻で笑った。猫の姿で一生を終えたくなければ戻るしかないのだ。だがそれでも気持ちはぶれる。しかし、たとえ決心が出来たとしても、リッツォ一人では戻ることは出来ない。魔術の力が……リズが必要なのだ。そういえば消されてしまったリズはどうなっただろうか。どこかでまだ無事でいるだろうか――そんなことが頭によぎった時、部屋に近付く足音が聞こえて、リッツォは慌ててベッドの横に身を隠した。


 扉が開き、母親が戻って来た。その手には数枚のタオルを持っていた。


「さあ、顔を拭きましょうね」


 優しく声をかけると、タオルを一枚取り、それを洗面器に付けて強く絞ってから眠るリッツォの顔に触れる。頬、額、首回りなどを丁寧に、黙々と拭いていく。その気配を隠れるリッツォは息を殺して感じ取っていた。いつもこうして世話をしてくれているのかと思うと、胸の中がざわざわ、ちくちくとむずがゆい気もして、出来れば早くベッドから離れたい気分なのだが、今動けば母親に間違いなく見つかるだろう。自分の体が拭き終わるまでは部屋を出て行くのは待つしかなさそうだった。


 床に座り込み、しばらく待つつもりで休んでいると、リッツォの尖った耳は母親の異変を聞き取った。


「……うっ……ずっ……」


 それはこらえるようにすすり泣く声だった。リッツォの知る母親は、優しく、穏やかで、自分のわがままには困惑の顔を見せても、弱音は絶対に吐かない人だった。それが、今は息子の前で泣いている。その様子はリッツォにとって少なからず衝撃となった。互いに辛い状況なのはわかっている。だが母親は想像するよりも重い辛さを感じているのかもしれない。悲しみが溢れ出てしまうほどに。


 呆然とするリッツォの耳に、さらなる声が聞こえてきた。


「……ごめんね。泣いたって仕方ないのに……。神様、どうかこの子の命をお救いください。もう何日も目を覚まさないんです。必要なら何でもします。私のすべてを捧げても構いません。この子がまた目を開けてくれるなら……」


 母親は息子の顔を拭きながら、祈るように呟いていた。その言葉はリッツォをうつむかせ、胸を苦しいほどに締め付けてきた。あれほど怒鳴り散らし、世話を焼かせ続けた息子だというのに、この人はどこまで優しいのだろう――いや、それが母親というものなのかもしれない。どんな子であれ、我が子ならすべてを捨ててでも助けてやりたいと。じんじんと痛かった。母親の辛さが伝わり、リッツォはその理由を知った気がした。怒鳴られ、世話をし続けることが辛いのではない。動かず、目を覚まさない息子を見ていることが、母親にとっては一番辛いのだろう。


 早く、戻らなければ――リッツォは心の底からそう思えた。辛いなら死んでしまったほうが楽だと考えたこともあったが、母親はそんなことは望んでいない。再び目を開けてくれることを待ち望んでくれている。リッツォはひどい態度を取っていたが、何も母親が嫌いだとか、意地悪をしたかったわけではない。悲しみや辛さが少しでも軽減されるのなら、それに越したことはないと思っている。先の短い自分が、散々苦労をかけた母親にしてやれることは、それくらいしかない。これ以上涙を流される前に、戻るんだ――リッツォの意思はここに来て、ようやく固まった。


「……それじゃ、次は体を拭くわね。あ、もう寒いから窓を閉めとかないとね」


 タオルを置くと、母親はベッドを挟んだ窓側へ歩いて来る。はっと気付いたリッツォはすぐに隠れ場所を探し始めた。このままでは母親に丸見えになってしまう。全身を隠さなければならないが、ベッドの周囲にそんな場所はない。だが振り返ったところに一箇所だけあった。まさに目の前、ベッドの下だ。垂れ下がる毛布をくぐり、リッツォは慌てて暗いベッドの下へ潜り込んだ。が、すぐに頭が何かにぶつかり、それ以上は進めなかった。見てみれば、まだ動けていた頃に遊んでいたおもちゃがベッド下でひしめき合っていた。子供なのに満足に遊べない俺を不憫に思い、両親が多くのおもちゃを与えてくれたのだ。中には父親が手作りしたものもある。人形、こま、絵本……懐かしいものがそこには並んでいた。


 しかし今は懐かしさに浸っている余裕はない。リッツォは頭でそれらのおもちゃを押し、強引に潜ろうとするが、奥がつかえているのか、体半分が入ったところで詰まってしまった。


「あら? こんなに窓、開けたかしら……」


 母親はすでに窓の前に着き、リッツォが押し開いた隙間を不思議そうに見ていた。すぐ後ろに来た気配にリッツォは焦り、どうにか全身を隠そうと進行方向を変えて右へ移動を試みた。だがその時、木製の人形がカランと音を立てて転がってしまった。


「え……?」


 母親が音に振り向いた。リッツォは動きを止める。心臓が口から飛び出そうな心地だった。そして――


「ね、猫……!」


 ベッドの下からはみ出た後ろ足と尻尾に気付き、母親は驚いた声を上げた。


「この窓から入ったのね! ほら、出て行きなさい!」


 半開きだった窓を全開にすると、母親は手を叩きながらリッツォを追い出そうとしてくる。見つかってはさっさっと出て行くしかなかった。リッツォは恐る恐るベッドの下から顔を出し、母親を見上げた。少し赤い目が迷惑そうにこちらを見てくる。


「ノミとか病気がこの子にうつったらどうするの。早く自分の寝床へ帰りなさい!」


 シッシッという不快な声に耳を塞ぎ、リッツォは開けられた窓から、暗く寒い外へ飛び出た。


「まったく……」


 振り返ると、母親の呆れた声と共に窓は閉められ、すぐにカーテンが引かれた。それに少しだけ寂しさを感じるリッツォだった。


「寝てるあいつの中身は、俺なんだけどな……」


 我が家に後ろ髪を引かれつつ、リッツォはシュラム村を後にすることにした。


 意思は決まり、あとは魔術で魂を戻してもらうだけだ。しかし肝心のリズの行方はわからない。それを捜してもらうにはバンベルガーに頼むしかないが、家を燃やされ、フレインと対峙した後、どうなってしまったかわからない。今のところ頼れるのは彼しかおらず、向かうとなると彼の家しか当てがなかった。


「とにかく、行ってみるしかねえか……」


 バンベルガーの家で見た地図を思い出し、進むべき方向を定めると、リッツォは夜空の下を駆けて行った。道の先はどこまでも暗い。だが猫の目で見る景色は明瞭で、その足に迷いはなかった。

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