七話
猫の目のおかげで暗闇の中でも見える道をたどり、リッツォは猛然と駆けていた。どくどくと鳴る自分の心臓の音を感じながら、もう何十分と走り続けている疲れも忘れ、ただ一刻も早くバンベルガーに助けを求めるためにひたすら風のように突っ走る。その胸にはフレインへの強い怒りと共に、安否のわからないリズへの気がかりが渦巻く。フレインは死んでいないと言ったが、そんな言葉を素直に信じられるわけもない。今頃どんな目に遭わされているかと思うと、この足を止めることは出来なかった。息が切れて、足の裏に痛みが走ろうとも、リズの代わりに助けを求めることが出来るのは自分しかいないのだ。どんなことがあろうと、バンベルガーに会うまでは走り続けなければ――そうして森の中を駆け抜け、体力も尽きかけながら、そろそろバンベルガーの家の付近に差しかかろうというところで、リッツォの鼻はある異変を察知した。
「……何だ、この臭い……」
どこからか風に乗って、かすかな異臭が漂ってきた。何かが焦げたような嫌な臭いだった。それは道を進めば進むほど濃くなっていき、リッツォは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。臭いの漂ってくる先にはバンベルガーの家がある。まさかという思いを抑えながら、そのまま突き進んだ時、リッツォの視界に赤い光が飛び込んできた。
「……マジかよ……!」
立ち並ぶ樹木の奥で、赤い光は踊るように揺らめいている――森の一画が燃えていた。その中には確実にバンベルガーの家がある。リッツォは衝撃を受けつつ、揺れる炎へ一直線に走った。
「やべえぞ……!」
熱い炎に照らし出された中へ行くと、外観の可愛らしかったバンベルガーの家は黒く焦げて燃えていた。壁も屋根も、窓の奥も、赤い炎が燃え尽くそうとしている。
「おい! じいさん!」
炎の熱さに距離を取りながら呼んでみるが、返事はない。すでに避難していればいいが、まだ中にいるとしても、リッツォではどうすることもできない。やっと家に着いたというのに、こんなことになっているなんて。さらにはバンベルガーの姿が見当たらない状況に、リッツォは炎の前で途方に暮れるしかなかった。
その時、バタンッと大きな音がして、家の玄関扉が派手に倒れた。そしてその中から慌てたように人影が飛び出してきた。
「……じいさん!」
すすで顔や服を汚しているが、その姿はバンベルガーに違いなかった。家は燃えているが、主はどうにか無事だったことにリッツォは喜んで駆け寄ろうとしたが、その後ろから現れたもう一人を見て動きを止めた。
「……あら、遅かったのね」
炎に照らされてきらめく美しい顔が、リッツォを見つけて微笑みを浮かべる――フレインだった。このことにリッツォは一瞬混乱しそうだったが、彼女は魔術師なのだ。自分の先を行くことなど容易いのだろう。
「魔術で移動しやがったな……」
「少し手こずってしまったけれど、この魔術師はもう何も出来ないわ。助けを求めに来たというのに、ごめんなさいね」
わざとらしい口調に、リッツォはやはり自分がもてあそばれていたのだと知った。
「……リッツォ、お前さんか」
バンベルガーはすすだらけの顔でリッツォを見る。だが膝を地面に付き、肩で息をする姿はかなり苦しげだった。
「すまない。油断をしていたようだ……」
「そんなことより、リズを助けてくれ! こいつがリズを消しちまったんだ!」
「何?」
「最後の会話は出来たかしら。それでは、お別れにしましょう」
会話をさえぎったフレインは膝を付くバンベルガーを見下ろすと、おもむろに手をかざし、呪文を唱え始める。
「邪魔すんじゃねえ!」
リッツォは咄嗟に飛びかかった。頭の片隅にまた見えない壁に激突する自分がよぎったが、そんなことよりも先に体は動き出していた。
ガリ、と爪に手応えがあった。予想に反して見えない壁にはぶつからず、リッツォはフレインの左腕にがっつりと爪を立てることが出来ていた。
「ぐっ……どうして……」
フレインはリッツォを振り払おうとしながら、状況が呑み込めないようだった。壁を作れなかったのは予定外だったのだろう。すると、はっと気付いたように、フレインはバンベルガーに目をやった。バンベルガーは肩で息をしながらも手をフレインに向けていた。妨害をされたと知り、フレインの顔から微笑みが消えた。
「あなたのことなど、どうでもよかったのだけれど、私を傷付けたことは反省してもらいます……」
氷のように変わったフレインの目に殺気を感じたリッツォは、急いで地面に降り、身構える。
「反省するのはそっちだろが。魂取ってったり、人ん家燃やしたり――」
「リッツォ、逃げるのだ!」
「え……?」
バンベルガーが叫ぶと同時に、フレインの右手がリッツォに狙いを付けて伸ばされた。その途端、灰色の小さな体は石のように硬直した。
「あ、動か、ねえ……」
それをじっと見下ろすフレインは、口の中で呪文を唱える。
「まずい……!」
それを見てバンベルガーも呪文を唱え始める。二人が詠唱するのを、動けないリッツォは焦りながら見つめるしかない。
「……さあ、消えて!」
「リッツォ!」
二人が魔術を放ったのはほぼ同時に見えた。直後、リッツォの視界はまばゆい光の波に襲われ、痛いほどの光量に目を開けていることもできず、全身を包む浮遊感に何も出来ないまま、身をゆだねるしかなかった。
「……間に合ったか」
光が治まると、そこにリッツォの姿はなかった。それにバンベルガーは安堵を見せた。
「驚いたわ。私に随分と抵抗しながら、まだ空間魔術を操る力が残っていたなんて」
フレインは澄ました表情で見やる。
「わしも驚いたぞ。魂消滅術を操れる者が、この世に存在していたとはな」
「それは褒めてくれているのかしら」
「いや、いぶかっているのだ。リッツォが付けた傷を見ればなおさらにな」
言われ、フレインは自分の左腕をローブの下から出した。そこには爪で引っかかれ、赤く血が滲んだ線状の傷跡が残っている。だがそこの皮は大きくめくれ、引っかき傷以上に痛々しい状態になっていた。ただ爪で引っかいただけで皮がめくれるはずもなく、なぜこんなことになったのか、疑問に感じるのは当然と言えた。
「いくら肌が弱いとはいえ、猫の爪にやられた程度で皮がそこまでめくれることなどあり得ない。お主の肌はまるで、古い布切れのようにもろい」
「だったら、何だというの?」
「お主は見た目通りの者ではない。……一体、何者なのだ?」
フレインは口角をわずかに上げ、見つめる。
「やはりあなたは間違いなく邪魔者だわ。消えてもらうしかない」
にじり寄ったフレインと距離を取るように、バンベルガーは後ずさる。
「そういうわけにはいかない。わしはこう見えても、しぶといのでな」
ゆっくり立ち上がり、バンベルガーはフレインを見据えた。
「侮っていたことは謝りましょう。今度は、本気で向かわせてもらうわ」
燃え広がる炎が囲む中で、二人の魔術師は対峙し、構える。フレインに焦りなどは見えず、わずかに微笑む顔には余裕もある。バンベルガーも強気は見せているが、すでに体力を削られている状態は、それとは真逆と言える。もう一度魔術の猛攻を受けたら、この身は持たないだろう。下手をすれば命も取られかねない。しかし、こんなところで最後を迎えるわけにはいかないのだ。友人のファルカスは救えていないし、さらには消されたというリズも捜さなければならなくなった。そして、目の前に立つ女の正体も気にかかる。高度な魔術をいとも容易く放ったことは、バンベルガーにとって驚きであり脅威だ。これが女の実力ならば、撃退するのはかなり困難なことになるかもしれない。それよりもまずは生き延びることを優先すべきか――バンベルガーは自分が不利な立場だと冷静に判断し、あらゆる方法を思考する。
「それでは、始めましょう!」
フレインは両手を突き出し、対するバンベルガーも両手を構える。魔術師同士の戦いが始まろうとしていた。
一方その頃、フレインによって強制移動させられたリズは、魔術の影響なのかしばらく気を失っていたが、ようやくその目を開けた。
「……は……ここは……?」
うつ伏せに倒れていたリズは身を起こし、周りに目をやる。ここは何かの建物内なのか、それとも洞穴なのか。物が何も見当たらないので判断がしづらい。見えるのは石壁のような灰色の景色。それが天井、壁、床に広がっている。一応部屋のようで、二、三十人は入れる広さがあるが、どこを見ても窓は見当たらない。垂直の灰色の壁が連なっているだけだ。けれど明るさはあった。照明らしき物はどこにもなく、一体どこから光が来ているのかわからないが、とにかく部屋内は十分に見える。
部屋の形は四角ではなく、ブーメランのように大きく湾曲している。部屋としては珍しい形だが、その湾曲した端にリズは倒れていた。ここはどこなのか、フレインはいるのか――立ち上がったリズは弧を描く壁に沿って静かに部屋の奥へ歩いて行った。
「……わっ!」
「おあっ!」
突然見えた人影にリズは思わず声を上げてしまった。それに驚いた相手も同じように声を上げた。
「び、びっくりした……気が付いたんだね」
壁を背に床に座り込んでいた青年はリズを見上げて言った。
「あなたは……?」
「モリッツだ。初めまして」
二十代と思われるごく普通の姿の青年は、挨拶代わりに薄い笑みを見せた。
「リズです……私は、どのくらい気を失ってたんでしょうか」
「五分か十分くらいだよ。ここに来た人は皆そうなる。僕も気を失ってたって」
「皆って、他にも誰かいるの?」
聞くと、モリッツは視線を外し、うつむいた。
「今は僕達だけだ。前はもっといたんだけどね」
「その人達はどこに?」
モリッツは首を横に振る。
「……さあね。呼ばれて、連れて行かれた後はわからないよ」
「呼ばれて? それって、フレインが呼ぶの?」
「……フレイン? 誰だそれ」
「えっと、金髪で、ものすごく綺麗な女の人なんだけど、私をここに送った犯人なの。知らない?」
「見たことも聞いたこともないな……僕をここに入れたのは、そんな美人だったのかな」
「モリッツさんはどんなふうにここに送られたの?」
「僕の場合は、父さんの仕事の手伝いで森に入った時、一人で川へ水を汲みに行こうと歩いてたら、急に体が引っ張られるような感覚に襲われて、その後目の前が真っ白に変わって、気を失ったらしい。で、目が覚めたらここにいた」
フレインは空間魔術を使い、人々を誘拐していたようだ。しかし何のためにしているのか、リズにはさっぱりわからない。考えれば彼女と敵対するリズはあの場で殺されていてもおかしくないのに、フレインはそうせず、なぜかここへ送った。まさか慈悲をかけたのではないだろうが、おそらく、モリッツ達を誘拐した理由をリズにも重ね、何か目的を果たそうとしているのかもしれない。
「他の人達に聞いても大体そんな感じだったよ。一人になったところを、体を引っ張られて気を失う……あの感覚はもう二度と味わいたくないな。視界が真っ白になった後の、体を粘土みたいにこねくり回されるような気持ち悪さ。気を失ってなきゃ派手に吐いてたかもな」
モリッツはふんっと鼻で笑い飛ばした。
「前はどのくらい人がいたの?」
「一番多い時は、六人。減ったり増えたりして、僕だけが残ってたんだけど、ついさっき君が現れた」
「呼ばれて連れて行かれるって言ってたけど、一体どうやって? 見た感じ、出入り口っぽいとこはないみたいだけど」
どの方向の壁を見ても、扉はおろか、鼠が通れる穴すら見当たらず、人が物理的に部屋を出入りすることは不可能に思えた。
「ああ、一見出入り口はないけど、その時になると開くんだ」
「その時って?」
「僕達が連れて行かれる時さ。何の前触れもなく、突然ね。ほら、あの辺りの壁がぱっと消えて……」
モリッツは向かいの壁を指差す。
「壁が消えて、誰が呼ぶの?」
「知らない男だ。背が低くて無口で陰気な感じの。そいつが出て来て、選ばれた人が連れて行かれるんだ。抵抗した人も中にはいたけど、その男は殴られても蹴られてもまったく怯まないし、小さくてひょろひょろのくせに、腕力が尋常じゃないんだ。つかまれたら力尽くで引きずられていくしかなかった。誰も、引き止められなかった……」
モリッツは唇を噛み、当時の悔しさに表情を歪めた。
「連れて行かれた人はもうここには戻って来ない。無事に家へ帰れたと思いたいけど、それはただの望みだってことはわかってる。あの人達はきっと、連れて行かれた先で、辛い思いをさせられているんだ。それは近いうちに僕にも……」
「フレインは一体、何のためにこんなこと……」
「わかればいいんだけどね……いや、わからないほうがいいのかも……」
暗い表情を浮かべたモリッツとの間に、しばし沈黙が流れたが、またすぐに口を開いた。
「……リズ、だったよね。君は僕より小さいのに、あんまり怖がってないみたいだね」
「そんなこと……私だって不安な気持ちです」
「僕を含めてここに入れられた人達は、何もわからない怖さから苛立ったり、おどおどしたり、情緒が不安定だった。でも君は随分と落ち着いてる感じだ」
「多分、犯人がわかってるからかも。だから、その手口も何となく予想できちゃうから」
「フレインって女のこと? 知り合いなの?」
「そんなんじゃないけど、話したことはある。あいつは魔術師なの」
「魔術師? 何で魔術師が僕達なんかを……関わったことなんて一度もないのに……」
それを聞いてリズは腰に手を置き、モリッツの正面に立った。
「じゃあ、私が初めて関わる魔術師になるんだね」
「……え?」
ぽかんとした顔がリズを見つめた。
「君って、魔術師なのか? こんな子供なのに」
「子供だからなれないってことはないから。でもまだ見習いだけどね」
リズはくるりと向きを変えると、何もない灰色の壁を眺めた。
「こんなとこに閉じ込められてる時間はないの。どこにも出入り口がなければ、自分の手で作ればいい……魔術を使って」
これにモリッツはゆっくりと立ち上がった。
「手口が予想できるっていうのは、同じ魔術師だからか。確かに魔術なら、何の打つ手もなかったこの状況から抜け出せるかもしれない……ここに来て、初めて希望が見えた気がするよ!」
目を輝かせるモリッツを見て、リズは苦笑いを浮かべた。
「そ、そんなに期待しないで。私に出来ることには限度があるし……でも、ここから出られるように全力は尽くしてみる」
父のために、残してきてしまったリッツォのために、急いでこの部屋から脱出したいのがリズの気持ちだ。しかし相手は魔術師であるフレイン。その実力は未知数な上、簡単に脱出出来るような場所に送ったとも思えない。道を開くには困難が伴うことを覚悟し、リズは抜け出す方法を探ることにした。
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