六話

 フレインはリズのすぐ隣に立っていた。しかしリズはそのことにまったく気付かなかった。いつの間にかいたのだ。一体いつから……だがそのことよりも、フレインが鳥を、まるで果実を搾るように握り潰して殺したことのほうが衝撃だった。容姿端麗で話し方には品も感じられ、白く細い手は花は育てても、生き物を躊躇なく殺せるようには見えず、目の前で起こった出来事は何かの見間違いではと思いたくなるほどだった。しかしこれは現実に違いない。リズの心は動揺が止まらなかった。いくつかの疑問と得体の知れない不安に、発した声は自分でも驚くほど小さかった。


「……どう、して……」


 リズの怯える目を見ても、フレインは尚も微笑んでいた。


「どうしてというのは、私がここにいること? それとも、この子を殺してしまったことかしら?」


 フレインは手に握ったままの鳥を軽く持ち上げる。息絶えた群青色の鳥は目を見開いたまま固まっていた。


「両方とも、聞いても、いいですか……?」


「ええ、もちろんよ。まず、ここにいるのは、酒場でお話しした後、あなたのことがとても気になってしまって、悪いことだけれど尾行してきてしまいました。ごめんなさいね」


 笑顔で平然と言う様子に異様な雰囲気を感じつつ、リズは聞き続けた。


「その、鳥のことは……」


「これは、後々邪魔になりそうだと思って、それを排除するための手掛かりとしてこうさせてもらったの。この子に恨みはなかったのだけれどね」


 苦笑いを浮かべたフレインは、息絶えた鳥を地面へ放り捨てた。それを見てリズは表情をしかめる。


「この子は、私の知ってる魔術師の使い魔です。勝手に殺すなんて――」


「その魔術師のお名前、教えてもらえるかしら」


「バンベルガーさんです。謝りに行ってください」


「ええ。訪ねさせていただくわ。まさに私の邪魔をしようとしている、そのバンベルガーという方の元へ」


 口の端を上げて不気味に笑うフレインに、リッツォはたまらず聞いた。


「邪魔って何なんだよ。邪魔されてんのはこっちのほうだ。お前、何かたくらんでんだろ」


「……あなたは、酒場の窓越しに目が合いましたね。なぜ人間の魂が宿っているのか、不思議に思ったけれど」


「俺がわかるってことは、お前、魔術師なのか?」


「ええ。ですから、こんなこともできるの」


 フレインは宙に円を書くように右手を振った。直後、リズの全身に痺れが走った。


「きゃあ! う、動かない……」


 リズの体は瞬時に硬直し、手も足も、首も動かすことが出来なくなった。


「なっ、リズ! ……やめやがれ!」


 リッツォはフレインの長いスカートに飛びかかろうとしたが、触れる寸前で見えない壁に激突し、地面に転がった。


「猫のあなたに用はないの。大人しくしているか、私の機嫌を損ねる前に消えなさい」


 頭をしたたか打つも、リッツォはすぐに立ち上がり、フレインを睨んだ。


「偉そうに言いやがって……その見た目とは違って、いろんなとこで、いろんな悪いことしてそうだな、お前」


「酒場じゃ、私に嘘をついたんじゃないんですか?」


 リッツォがふと横を見ると、動けないはずのリズが隣に並び、共にフレインと対峙していた。


「あら、若くても、解呪方法くらいは知っていたのね」


 魔術を解かれても、フレインは余裕の微笑みを浮かべる。


「本当はあなた、お父さんのことで何か知ってるんでしょ。私が娘だって知って、だからつけて来たんでしょ!」


「最初はあんなに怯えていたのに、ファルカスが関係あると思った途端、随分と強気になるのね」


「答えて! 何を知ってるの」


 真剣なリズを見ながら、フレインは不敵な笑みを見せる。


「勘は鈍いわね。私が先ほど何て言ったか憶えているかしら?」


「邪魔しようとしてるとか、わけわかんねえことぬかしてたな」


「そう。私がしようとしていることを、バンベルガーという魔術師が邪魔をしようとしているようなの。鳥の言伝では、そういう内容だったわね」


「……聞いてたの?」


「重要なのはそこではないでしょう? バンベルガーという魔術師は何をしようとしているかよ」


「何って、私のお父さんのことを――」


 そこまで言ってリズはようやく気付き、険しい眼差しでフレインを睨み据えた。


「まさか、あなたが邪魔してる張本人、なの?」


 フレインは小さく息を吐いた。


「子供は何事も時間がかかって大変ね。こちらから教えないとわからないのだから」


「マジかよ……でもこれで探す手間が省けたってもんだ。だろ? リズ」


 リッツォは身構えながら横目でリズを見る。


「うん……お父さんの魂を、どこへ隠したの? 何でそんなことするの?」


「隠した場所は教えられないけれど、なぜこんなことをするのかと問われれば……ファルカスの魂が欲しかったからよ」


 リズの目は怒りに吊り上がった。


「人間の魂は物じゃない! さっさと返して!」


 フレインに近付こうと一歩足を踏み出した瞬間、リズの体は何かに押し飛ばされるように後ろへ倒された。


「リズ! こいつに近付くな。見えない魔術で攻撃してくるぞ!」


「見えないのは、あなた方に十分な魔力が備わっていないだけ……私は質問に答えてあげたのだから、今度はこちらの番ね」


 ゆっくりと歩み寄って来るフレインを睨み、リズは体を起こす。


「あなたに答えることなんてない!」


「私は一言も質問があるなんて言っていないけれど?」


 微笑みを崩さないフレインに、リズはじわじわと広がる恐怖を感じながらも聞いた。


「じゃあ、どうする気?」


「あなた方は邪魔になりそうなの。だから今のうちに、ね」


 そう言うとフレインは右手を静かにリズへ向けた。


「リズ、逃げろ!」


 リッツォの叫びにリズはすぐさま反応し、慌てて絡まりそうな足で地面を蹴って立ち上がった。


「先ほどの魔術は手加減したものだとわかっていないの?」


 意識がリズに向いたフレインに、リッツォは思い切り飛びかかった。


「させるか!」


 爪を立てて引っかくつもりが、やはり見えない壁に激突し、リッツォは頭を強打して転がった。


「あなたも懲りないのね。魔術の心得もないのに」


 痛みに耐えてうずくまる猫にフレインの視線が移ったのをリズは見逃さず、急遽足を止めると短い呪文を唱えた。


「……行け!」


 手のひらに現れた発光体をボールのようにつかむと、それをフレイン目がけて勢いよく投げ付けた。距離は近く、胸の辺りに当たると思われた。だが届く前に、発光体は風に吹かれる砂のように、さらさらと崩れて消えてしまった。


「子供が遊びで使うような、そんな初歩的な魔術で私をどうこうできると思ったのなら、すぐに逃げたほうが身のためよ」


 笑うフレインの青い目にリズはたじろぐ。魔術には戦闘に適したものがいくつもあるのだが、リズはそういったものより、普段使える魔術を優先して憶えてきたため、この状況で有効な魔術は数える程度しか備えていない。その中でも特に自信のあった攻撃魔術を使ったのだが、言われた言葉の通り、フレインには子供の遊びでしかなかったようだ。何の身振りもなく、発光体はかき消された。そこからはフレインの高い魔術力が垣間見える。魔術師見習いが勝てる相手では到底ないだろう。


「くうっ……リズ、いいから逃げろ!」


 まだくらくらする頭でリッツォは再び叫んだ。


「で、でも、お父さんを――」


「お前の力じゃ無理だ。じいさんに助けを求めろ」


「そうね。それが最良の選択なのでしょうね」


 慌てることなく、まるで助言のように呟き、笑みを浮かべ続けるフレインから後ずさると、リズは踵を返して暗闇の道を駆けた。


「でも、私はあなたを逃がさないけれどね」


 目付きを鋭く変えると、フレインは走り去ろうとするリズの後ろ姿に両手をかざし、呪文を唱えた。


「シューザ、キプン、ブノ、テーミア!」


「なっ……!」


 リズは自分の体の周りに起きた異変に足を止めざるを得なかった。ぐねぐねと波打つ白い線が円状にリズを取り囲み、徐々にその幅を広くしていく。


「これは、空間魔術……」


「まあ、お勉強はしているようね。あなたはまだ若いから、特別な場所へご招待してあげる」


「私を、ど、どこへ飛ばす気なの!」


「焦らないで。行けばわかるのだから」


 波打つ白い線は空間の切れ目――その切れ目はどんどん広がり、リズの全身を呑み込もうとしている。


「リズ! どうすりゃいいんだよ。そこから逃げらんねえのか」


 何も手が出せず、リッツォはおろおろと動き回る。


「私の力じゃ、抵抗できない……リッツォ、先に逃げて」


 空間の切れ目は少女の体を強引に吸い込む。


「おい、リズ、踏ん張れ!」


「駄目……逃げ――」


 最後の声まで吸い込まれ、リズの姿は消えた。切れた空間は何事もなかったように元の暗闇の景色に戻っていた。


 残されたリッツォは呆然とし、その場から動けなかった。リズはどうなってしまったのか、命は無事なのか――やまない心配がリッツォをひどく動揺させる。


「大丈夫よ。あの子は死んでいないわ」


 振り向くと、フレインは相も変わらず微笑みを浮かべていた。


「特別な場所へ移動させただけ。何も心配いらない」


「俺のことも、連れてくのか」


「いいえ。あなたは必要ないし、大きな邪魔にもならない。バンベルガーという魔術師に助けを求めるのなら、今のうちよ」


 さあどうぞと言うように、フレインは道のほうを示す。


「なめやがって……」


「違うわ。これは私の優しさと思ってもらいたいわ。それとも、苦しい思いをしながら、この場で死ぬことをお望み?」


 フレインの指先がリッツォの足下を指したと思うと、そこに突然小さな炎が巻き起こった。


「うわっ、あちっ……!」


 反射的に避けたおかげで、かろうじて毛を焦がすことはなかった。


「次は全身を焦がすこともできるけれど……どうしましょうか?」


 余裕を見せ続けるフレインに怒りを感じるリッツォだったが、それ以上に恐怖も感じていた。自分は魔術など使えないただの男だ。しかも体は猫。対抗できる術も力も持ち合わせていないのだ。フレインがやろうと思えば、こんな自分は一瞬で命を奪われるだろう。優しさだと言って助けを求めに行けと促してきたが、そんなものリッツォにしてみれば挑発としか受け取れない。だが他に選択肢はないのだ。怒りを抑え、フレインの気持ちが変わらないうちにバンベルガーの元へ戻るしか、リッツォには助かる道はない。


 悔しさを噛み締め、リッツォはゆっくり暗い道へ向かった。それをフレインは何も言わずに黙って見送った。小さな影が闇に溶け込み、やがて見えなくなると、地面に転がる鳥の死骸に目を落とした。


「使い魔に送られる魔力の源は、もう探し当てたわ。私の邪魔をするなど、千年早いのよ」


 赤い唇がにやりと歪むと、美しい顔にはそこはかとない影が滲み出していた。

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